第一章 落ち着け。まずはお茶でも飲んで落ち着け(二回目)
ゆっくりと意識が浮上する。身に纏わりつく粘ついた闇からズルリと抜け出すように。
なぜだろう? 身体がひどく重い。痺れたように動かない。
「……う……」
「っ! 気がついた!? ああ、ルクシリア!」
小さく呻くと、耳もとで声がする。まったく聞き覚えのない声が。
「マリ! すぐにドクターを呼んでちょうだい! ああ、よかった! ルクシリア! どれだけ心配したか!」
バタバタという足音が離れてゆくのとともに、温かいなにかが頬や髪を優しく撫でる。
それに誘われるように目蓋を少しだけ持ち上げることができたけれど、目に映る世界はぼんやり白んだまま。なかなか目が焦点を結んでくれない。
「気分はどう? どこか痛いとか、気持ち悪いとかはない?」
「……えっ……と……?」
「覚えてない? あなた、池に落ちたのよ」
池に――落ちた?
「ドレスが水を吸って、それが重しになって溺れてしまったのよ。水を大量に飲んでしまって……ああ、本当にどうなるかと……! 一時は呼吸が止まったのよ」
僕に語りかけてくる声が不自然に震える。
じゃあ、身体がひどく強張っているのは、そのせいなのか?
手を動かそうとしたものの、うまくいかない。まだ身体に魂が戻り切っていないかのようだった。だけど、痛みはない。気分もさほど悪くない。そのことに少しだけホッとする。
っていうか――ドレス?
「二日も目覚めなくて……本当に生きた心地がしなかったのよ。ああ、意識が戻ってよかったわ。ねぇ、ルクシリア。なにがあったの? あなたが池に落ちるだなんて」
「え……?」
ぎゅうっと強く手を握られて、僕はパチパチと目を瞬かせて声の主のほうを見た。
ぼんやりとした視界の中で、声の主らしき影が揺れる。
えっと……? さっきからなにを言ってるんだろう? この人。やたらと『ルクシリア』って呼びかけてくるけど、僕は水城純也(27)だ。
心配してくれているところ悪いんだけど、そもそもあなたは誰だ。僕は、学生のときに両親とは死別しているし、親戚らしい親戚もいない天涯孤独の身。だから僕に対して母親かなにかのような話し方をする人なんて心当たりがないと言うか、そんな存在いないんだけど?
なんか……おかしいな。
僕は未だに動きの悪い脳みそを叱咤するように、ブルブルと頭を振った。
そしてあらためて何度か瞬きをするうちに、次第に視界がはっきりしてくる。
同時に、身体の感覚も戻ってくる。
「ッ!?」
やっと、僕の手を握り締めている人物にピントが合う。僕は目を丸くした。
美しく結い上げた明るい金髪にサファイアのごとき碧眼。中世のお姫さまのようなクラシカルなフリルたっぷりのドレスに、びっくりするほど大きな宝石がたくさんついたアクセサリー。まるで、映画の中から出てきたかのようないでたちの女性だった。だ、誰!? しかもなんだよ? その格好。
「ルクシリア? どうかしたの?」
唖然とする僕を見て、仮装女性が小首を傾げる。
その背後にある見覚えのない重厚そうで高級そうなドアに気づいて、僕は慌てて周りを見回した。
ワインレッドに金色のダマスク柄の壁紙に、バーガンディの毛足の長い絨毯。繊細優美な装飾が施されたマントルピース。その上には金の燭台や小物入れが。
その前には、ふかふかの布張りのシングルソファー。傍らの木製のテーブルも趣あるものだ。
大きな窓からは眩い陽光が差し込み、もう随分と日が高いことを知る。
な、なんだ? ここ……。しかも、広っ……!
ベッドの右手側には、カブリオレ・レッグの曲線が印象的な白いライティングビューローに、同じく曲線と背もたれのリボン結びの透かし彫刻が美しいチッペンデール様式の椅子が置いてあり、左側にはベッドサイドチェスト。こちらも白地に金の装飾がとても美しい。その上にはクラシカルなランプが置かれている。その向こうにはさらに大きなチェストとオーバルミラードレッサー、
ベッドの足下のほう――部屋の中央には、刺繍が見事テーブルランナーがかかった繊細な装飾の白いセンターテーブルに深い青が美しいカウチソファー。さらにいくつかのソファーたち。
麗らかな陽光が差し込む窓辺には、レースのクロスがかかったカフェテーブルが。
壁には金の重そうな額縁に入った絵が何枚も飾られ、天井画は感嘆のため息しか出てこない。
まるで、ヨーロッパの五つ星ホテルのスイートルームのような豪奢な部屋に呆然としてしまう。
ど、どこだ!? ここ!
「お部屋がどうかしたの? ルクシリア?」
言葉を失っている僕に、仮装女性が戸惑った様子で視線を揺らす。
僕は仮装女性へと視線を戻すと、おずおずと彼女の手を振り払った。
「す、すみません……。あなた、誰ですか……?」
「えっ!?」
瞬間、仮装女性が青ざめる。
「な、なにを言っているの? ルクシリア。わたくしは……」
「いや、ルクシリアって誰のことですか? 僕は水城というのですが……」
そう言うと、仮装女性がひどくショックを受けた様子で両手で口もとを覆う。
と同時に、室内にノックの音が響いた。
「奥様、失礼いたします。ドクターをお連れしました」
「あ……! オズワルド! は、早く! 早く入って!」
室内に渋い男の人の声が響いたと同時に、仮装女性がわたわたと立ち上がる。
重たそうな扉を開けて部屋に入ってきたのは、まるで執事のようないでたちの上品な老紳士と、白いひげに埋もれた背の低い老人。そして、クラシカルなメイドスタイルの女性が二人。
僕はガバッと身を起こした。
いや、ちょっと待て! いったいなにが起こってるんだよ? なんでこの人たちは揃いも揃って、普通の格好をしてないんだ!
「ドクター、早く娘を診てやって! 様子が変なの! わたくしがわからないみたいで……!」
「なんですって?」
全員が一斉に僕を見る。彼らの驚いたような表情に、背中を冷たいものが走り抜けた。
いや、違うだろ。なんで僕を見るんだ。その目は仮装女性に向けるべきだろ。二十七歳になったアラサー男性を娘だとか抜かしてるんだぞ? どう考えても、様子がおかしいのはあの仮装女性のほうだろうに。なんで誰もそれを指摘しないんだよ?
なにもかもがおかしい。僕は恐怖を覚えて、ベッドを飛び出した。
「あっ……!?」
足もとがフラつき、一瞬ぐらりと身体が傾ぐ。あ、ヤバい。
しかし、直後にサッと目の前に出てきた白手袋をはめた手が、しっかりと身体を支えてくれる。
「お嬢さま」
僕は激しく首を横に振った。違う! 僕はお嬢さまじゃない!
「急に起き上がっては危のうございます。ベッドにお戻りを」
「っ……放してくれ!」
支えてもらっておいてこんな言い方はなんだけれど、アラサー男性に真顔で『お嬢さま』なんて呼びかけられる人なんかとお近づきになりたくない。
僕は老紳士の胸を手でぐっと押して――ビクッと身を弾かせた。
「は……!?」
抜けるように白く、ピンとハリがあって、水仕事なんか一度もしたことがないんじゃないかって思うほどなめらかな肌。美しく整えられた爪に、折れてしまいそうなほどに細い手首。
え? なんだよ? この手。まるで……そう、深窓のご令嬢のような手じゃないか……!
僕は老紳士の腕から逃れ、そのままドレッサーに駆け寄った。
「――ッ!?」
鏡に映ったのは、とんでもない美少女を見て愕然とする。
十七歳か十八歳ぐらいだろうか? 仮装女性と同じ輝かんばかりの金色の巻毛に、けぶるように長い金糸の睫毛。極上のサファイヤのごとく煌めく碧眼。驚くほど透明感のあるなめらかな肌に、薔薇色の甘やかな唇。
美少女は大きな目をさらに大きく見開いて、まっすぐに僕を見つめ返していた。
震える手でほっそりとした頬に振れる。鏡の中の美少女も、同じく。
「嘘……だろ……?」
この美少女が、僕だって言うのか――!?




