閑話:辺境の夜明け
午前4時、夜の帷が次第に明ける頃。村の入り口に建つ小屋の窓から、中年の男は椅子に腰掛け朝日を眺めていた。胸板は分厚く、顔付きも精悍で、若々しさを感じさせる。
丸太のように太い腕に刻まれた無数の古傷は、彼の戦歴を静かに物語っていた。
蒸し暑さを感じながらも、男はホットミルクを口につける。
―ザ、ザ
小鳥もさえずらない静寂を破った足音に、男は一瞬警戒するが、扉が開かれた頃にはそれを解いた。
「アイゼフさん、交代の方は来ていらっしゃらないのですか?」
男とは真反対な、穏やかな顔つきの老人はそう言い、椅子に腰掛ける。
「神父さんか、コニーのやつなら夏バテで寝込んでる。もうアイツ、年だからな」
一般的な村では、魔物や盗賊を警戒して夜は交代で見張りを行う。辺境村では滅多に襲撃はされないが、警戒するに越したことはない。
「ふむ、それだけではないように見えますが」
神父はホットミルクを見て、そう言った。
「リト君が好んで飲んでいましたね、それ」
「ガキん頃から好きだったな。そのせいかずっと乳臭かったが」
アイゼフは再びコップに口をつける。
「あの子の為に朝早くから乳搾りをする貴方の顔が、しばらく見れないのは寂しいですね」
寂しさに満ちた声で、神父はそう言った。
「…見てたのか」
「年寄りの朝は早いのですよ。それに牛達の世話は私の仕事でもありますので」
神父は言葉を続ける。
「リト君が幼い頃から好きだったようですが、何か訳があるのですか?」
「故郷の味らしい。アイツがよく悪夢に魘されてた時だって、コイツを飲ませればすぐに寝付いたんだ」
「リト君もお辛いでしょう、生まれ故郷を奪われたのですから」
「それは神父さんも同じだろう」
神父―アルドにはかつて妻と病弱の娘がいた。
しかし妻は都市もろとも魔王に焼き尽くされ、もはや遺骨すら残っていない。
アルドは娘と共にアイゼフに保護されたが、娘は後を追うかのように、村で息を引き取った。
「俺がもっと早く見つけていれば、娘さんも助かったろうに」
アイゼフの言葉に、神父は力の無い笑みを浮かべた。その瞳の奥底には、哀しみの色が見て取れる。
「《《瘴気》》を浴びてしまったのです、どの道助かりませんでした…。貴方のせいではありません。むしろ、あの子を弔えたことに感謝するべきです」
何か言いかけたアイゼフだが、その言葉を押し込む様にコップを飲み干した。
「思ったより眠れねぇもんだな」
「やはり寝付けないのですね。リト君のノーチェが旅立った日から、」
アイゼフがホットミルクを常飲し始めたのは、リトとノーチェが旅立って3日後のことである。それから数カ月、夜明け前から見張りを続ける様になり、彼の手元にはいつも搾りたての牛乳があった。
「まぁ、アイツは泣き虫だからな。学園でもしっかりやれてるか心配らしい」
「素直に心配していることを認めたらどうですか?」
「さぁ、俺自身も良くわからねぇからな」
他人事かの様にゼフは言う。自分に無頓着過ぎるが故に、抱いている感情も把握しきれないのだろう。中身が無いにも関わらず、ゼフは再びコップに口をつける。
「そういや、アンタが聖印を譲ったのも驚いたな。聖職者にとっちゃ命よりも大事なもんなのにな」
「私はただの真似事です。それにあの聖印は、あの娘の為に祈り続けたものです」
少しの静寂が流れる。
「あの子は、ずっと悪夢に囚われていました。無理もありません、故郷の惨劇を間近で見たのですから」
神父は拳を強く握りしめている。枝の様に細い指が折れそうな勢いである。
「私はただ、祈ることしかできませんでした。それでも彼女は、リト君の前でも気丈に、明るく振る舞っていました。本当に強い子です」
「リト君の側には、そんな心の強い子がいるんです。心配することはありません」
彼もまた、過去の惨劇に囚われていたはずだ。その中で、ノーチェを育て支えた彼が言うのだ。これ以上、彼女の強さを保証する言葉は無いだろう。
「……全く、親子ってのは似るものなんだな」
「リト君も貴方に似て強い子です。さ、夜も明けてきたので、そろそろ休んでください」
「そうだな、そうさせて貰うか」
ゼフは一呼吸ついて、椅子から立ち上がる。
木刀を肩に担ぐ背中は、以前よりも生き生きとしていた。
「それにしても、警戒し過ぎではないですか? 夜の見張り番だけでなく、村の警備の数も多すぎる気がしますが」
ゼフは普段、村で道場を開き子供に剣を教えているが、それ以外にも村の警備を取り仕切っている。
主に警備は村の外の見回りだが、その数が2人から10人に増えた。それだけでなくゼフは、大人にも剣や弓を指南し始めている。
魔物が滅多に襲ってこない辺境村では、あまりにも過剰過ぎる警戒だ。
「リトが村から旅立った後、王国の知り合いから手紙が届いた」
ゼフはドアノブに手を置いたまま、そう語る。
「どの様な内容だったのですか?」
「生徒を運んでいた馬車が、魔物に襲撃された。200台中半分もだ」
「ノーチェは、!? ノーチェは無事なのですか…!?」
神父の立ち上がって勢いで、椅子が後ろへ倒れる。
「ノーチェとリトは無事だ。だが同伴していた生徒と兵士は全滅したし、27台は帰ってこなかったらしい」
「そんな、今までそんなことはなかったでしょうに…」
神父は黙祷している。
アレイフ大草原は魔物の数は少なく、殆どは大人しい。去年は襲撃されても数台だけで、問題なく返り討ちに出来た。
「ああ、アスガルスですら想定してなかったんだ。それにあちこちで魔物の襲撃事例が増えている、明らかに異常だ」
「しかし、魔王は11年前に勇者様が討ち取りました。こんな早く魔王が復活するなんて、ありえません」
「ああ、流石に魔王の仕業だとは思いたくない。それでも時々、空の向こうから、淀んだ空気を感じるんだ」
ゼフは一呼吸置いた。手からは冷や汗が滲んでいる。
「11年前、魔王が君臨した時の空気を思い出させる」
一度、魔王の姿を遠目で見たことあるゼフの言葉は、震えていた。ドアノブにも汗が伝っている。
「とにかく、警戒するに越したことはない」
ゼフはそう言い残し、足早に小屋を後にする。
神父は椅子を元の位置に直し、同じように小屋を出た。




