③現実ってなんなんだろう
申し訳ないのだけど、犬の散歩の時間が来てしまった。
うちの犬の犬種はトイプードル、性別はメス、名前はまる。
散歩に行くときはいつも母に首輪をつけてもらう。
もしも僕が自分で首輪をつけようものなら僕の指がなくなってしまうから。
僕は母からリードを受け取って、棚から散歩用の小さめのバッグを取り出し、サンダルを履いて家を出た。
外に出ると、朝の光に包まれ目を細める。
花の甘い香りと、山の土と草木の混じった匂いが風に運ばれ、鼻を通って肺に入る。自然の匂いを吸って肺が満たされるのを感じる。
季節は巡り巡って、僕が生まれてから二十六回目の春が来た。
庭の草木はこのときを待ちわびたと言わんばかりに勢力を拡大し、スズメたちが電線の上で何やら囀っている。
僕は用水路にかけられた橋を渡り、道路に面した歩道に出た。
歩道の右側に車道があり、緑の植え込みがガードレールみたいに続いている。
植え込みの隙間から小判草と包丁草が顔を出している。
前を見ると、一メートル先を歩くワンコのお尻が規則正しいリズムで左右にゆれていた。
僕は左側を見ながら歩いた。
左側には放置されて草が生い茂った田んぼや去年の稲が残っている田んぼが不規則に続いていた。
彼女は左に行って鼻を地面につけてにおいを嗅ぎ、右に行ってはまた別の匂いを嗅いでいた。
それを繰り返したと思えば、行ったり来たりだし、その場をぐるぐる回って後ろ脚を大きく開き、前足を抱え込むようにして背中を丸めクソをした。
僕は排泄物の前にしゃがみ込み、バッグからトイレットペーパーを取り出し、排泄物を包んで袋に入れた。
彼女はその間、排泄したことなど何も覚えていないように、次の場所に行こうとリードを引っ張っていた。
穏やかにリードを引っ張られながら、僕の頭にはいろいろなことが浮かんできた。
足が痛いことや朝ごはんのこと、明日のこと、好きだったあの子のことまで、そういったいろいろなことだ。
僕らは景色に割り入るようにして建っている、小さな平屋の前で左に曲がった。
ふと顔を上げて前を見ると、森の木々が朝の光に照らされ、控えめに光を反射している。
そして僕はまたいろんなことを考えた。
リードの先の彼女は相変わらず右往左往していた。
彼女は僕と違って今を存分に楽しんでいるようだった。
しばらく歩くと、左手に水が張られ、田植えがしてある田んぼが目に入った。
横方向に植えられた稲と縦方向に植えられた稲が少しずれている。
空が水面の中に入り込んでいて、別の世界を覗き込んでいるようだった。
水面の上でアメンボが動いて波紋が生じ、水面の世界の形をほんの一瞬だけ変えた。
水面と土の間はとても短くて、水面に映る世界がどこからが空で水面で地面なのか、よくわからなかった。
僕は無事、犬の散歩を終えて家に帰ってきた。今は自分の部屋の椅子に腰かけている。
彼女の今を楽しむ姿を見て、思い出したことがある。
それは三つ目の教えについてだ。
これは二つ目の教えを残してくれた女性の娘の言葉だ。
彼女の母親は運命の人を夢に見ていたが、彼女はどこまでも現実的な人だった。
物心つく前に父親を亡くした彼女たち親子は、家でよそ者のように扱われた。経済的支援はあまり得られなかった。
母親は仕事が忙しく、彼女はあまりかまってもらえなかった。
お金はなかったし、着る服もボロボロだった。
それが原因でいじめられることもあった。
彼女は経験した不幸や不便に対する、やり場のない怒りを母に向けた。現実に向き合うためにはそうするしかなかった。
それ以外のやり方を彼女は知らなかったのだ。
彼女がある程度大きくなると、母親は運命の人に陶酔するようになった。
そのことが母親に対するイメージをさらに悪くさせた。
現実を見ない母のことが彼女には理解できなかったし、許容することもできなかった。
結局、彼女は母に対する嫌悪を墓場まで持って行った。
それは嫌悪というよりむしろ、現実に対する自己防衛のようなものだったかもしれないけれど。
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『母親のようにはなりたくなかった』
「私は母のようにはならない。
私は母のように現実から目を背けたりはしない。
運命の人なんてやってこない。
仮に、運命の人と出会ったとして、自分が魅力的でなければ相手にしてもらえない。
分相応な人と結婚して分相応に生きることが現実的に決まっている。
母だって最初はそうだった。
分相応に親が決めた相手と結婚した。
現実を見ない人間に幸せはやってこない。
夢なんて見ている暇があったら、晩御飯のおかずについて考えていた方がまだ役に立つ」
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彼女は強い女性だった。
自分の人生を自分で切り開いていくだけの力があった。
強い彼女には、母親のことが理解できなかった。
運命の人など、そんな非現実的なものは決して認めなかった。
だけど、彼女は認めないかもしれないが、彼女の母親も強い人だった。
彼女の母親は娘がある程度大きくなるまで、運命の人に出会っていない。
娘がある程度大きくなり、ある程度自分のことができるようになった後、現実を忘れる一つの手段として運命の人に出会ったのだと、僕は思う。
だが彼女自身は現実を忘れるわけにはいかなかった。
彼女が現実を忘れたなら、それはひどくおぞましい未来が待っているに違いなかった。
現実を忘れる自由など、彼女の生きた時代にはほとんどなかった。
解釈の余地さえなかったかもしれない。
だから彼女は強く生きなければならなかったし、母親のやっていることは理解できなかったのだと思う。
いずれにせよ、僕はこの人たちのことが好きだ。彼女の母親が運命の人を待ちわびていたことにも同感できる。
一方で運命の人は待っていても来てくれないことも、そこはかとなく理解している。
白馬の王子様もシンデレラも待っていてもやってこないのかもしれない。
かといって、白馬と王冠を用意して待っていても、素材がダメではそれはただの王冠を付けた馬乗りに過ぎない。
絶対に王子様にはなれないし、シンデレラにしたって同じだ。
ガラスの靴を用意して待っていても、履けなければ意味はない。
そして僕はそもそも馬に乗れないし、ガラスの靴を用意するだけのお金もなければ意志もない。
僕にできることは、僕にでも乗れる白馬と王冠を持っていて、ガラスの靴を履いて食パンをくわえたシンデレラと曲がり角でぶつかるそのときを待つだけだ。
曲がり角を曲がるたびにワクワクできるのだから、これも案外悪くない。
僕が苦し紛れに主張したいのは、僕が待っているのは運命の人であって、シンデレラでも王子様でもないということだ。そんな立派な人物を待っているわけではない。
一方で、運命の人という壮大な人物のメタファーが王子様とシンデレラなわけだから、ちょっと苦しい立場に追いやられてしまっていることだけは認めたいと思う。
彼女からの教えを受けて学んだことを以下に残しておく。
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『帰りの船』
二つの島があった。
一つの島には荒れた山があり、人々は朝から晩まで山で鉱物を掘って暮らしていた。
もう一つの島には、楽園があった。
美しい人々、豪華な食事、青い海、見たこともない遊び。そこには、人が望むものならたいてい何でもあった。
二つの島のあいだには、荒れた海があった。けれど船は、毎日のように島と島を行き来していた。
楽園へ行くのに、何もいらなかった。誰でも好きなときに船に乗れた。
ただし、帰りの船に乗るには、資格が必要だった。
その資格が何なのかを知る者はいない。ただ、昔からこう言われていた。
『山を忘れなかった者は、必ず帰ってこられる。帰れなくなるのは、山を忘れた者だけだ』
そして実際に、そうだった。
だから人々は、楽園へ行ってもすぐに山へ帰った。いつでも楽園に行けるとしても、山を掘る時間の方がずっと長かった。
山を忘れ、楽園に入り浸った者は、ある日突然、帰りの船に乗れなくなる。
船頭に頼んでも、船頭は首を横に振る。その者は、日が暮れていく楽園に一人残される。
夕日が西の海に傾き始め、あたりが薄暗くなっていく。
心地よかった風は、肌を刺すような冷気へと変わり、鳥たちが何かに怯えたように、金切り声を上げて一斉に飛び立つ。
あたりが急速に薄暗闇に包まれるなか、どこか遠く、けれど確実に、この世のものとは思えない奇怪な鳴き声が響き渡る。
翌朝、再び船が着いたとき、残された者の姿はどこにもない。
彼らがどうなったのか、誰も知らないし、知る必要もなかった。
楽園は開かれている。
ただ、資格のないものだけが、夜を迎える。
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彼女は現実を見ることの大切さを教えてくれた。
現実を見るのが嫌いな僕にはいまいち同感できない話ではあるけれど、言っていることは事実だと思う。
彼女たち親子の教えについて考えていると現実についての疑問がわいてくる。現実とは何なのだろう。
運命の人は待っていてもやってこないのかもしれない。それはたぶん、事実に近い。
だけど、運命の人を待ち続けることは、非現実的なのだろうか。
彼女の母親が、運命の人がやってこないのを知っていたかどうかはわからない。
だけど、彼女の母親は運命の人を待つことに決めたのだ。
運命の人は事実上、存在しなかったのかもしれないし、彼女が運命の人に巡り合うことは、最後まで実現しなかったのかもしれない。
それでも、彼女が運命の人を待ち続けていたのは、事実なのだ。
少なくとも現在の僕たちから見れば、それは実際に起こったことで、いまとなっては変えることのできない不変的な事実なのだ。
おそらく当時の彼女にとってもそれは実際に起きていて、変えることのできない不変的なもので、そして紛れもない現実だったと、僕は思う。




