#14 新版・頼れる先生の基本 出来る教師は会話が九割
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ひとしきり自分の作品を自慢をすると、かっこいいと賞賛する少年の様子に満足したのか、いそいそとエイリカは銀の腕をしまいこむ。トランクも空間拡張・重量軽減の強化印が施されたマジックバッグだったのだろう。トランクにあつらえられたチャックを引き、布性のツールバッグを取り出す。
「では、まず、服を脱ぎたまえ」
せっかく高まった尊敬が、地に落ちる。ユーリは目の前の変態を咎めるように目を細めた。
「む、何を想像しているんだ、むっつり少年。卑猥な意味合いではないぞ、下履きはそのままでいい」
「……検査の為ですね? 本当ですね?」
「当たり前だろう。私が少年の裸を見て喜ぶ性的倒錯者だとでも思っているのか」
この話題にだけは神妙な顔で常識人ぶっている女に、ユーリは腹を立てる。何故そう見えないと思ったのかと言い返してやりたかったが、エイリカが先に話を切り上げた。
「いい。先に少しばかり、魔法と強化印の講義をしよう。変に勘ぐられても困る」
ユーリを椅子に座らせ、どこからか引っ張り出してきた黒板に、どこからか出てきた石膏でエイリカは図を書き始める。いや、図かと思ったが、どうやら字のようである。落書きにしか見えないそれは、ユーリの目には一文字も読み取れなかった。
「そもそも魔法とは何か、わかっているかね?」
「ええと、第五元素を使って何かを起こすこと、です」
「そう。大崩壊以後、困窮した人類に神々が与えた、というより、存在することと扱い方を教えたのが第五元素。
熱・光・電磁気とは全く異なるエネルギーの粒子のようなもの、と理解すれば良い。これは世界中のどこにでも存在し、生き物の体内にも貯蔵される。特にダンジョンは第五元素に満ちた湖のようなものだ。そして、人類は未だ制御に成功していないが、様々な条件が重なった際に物質化することも出来る。その物質化現象が、ダンジョンで生まれる魔鉱石であり、魔物であり、遺物である」
先ほどまでの奇人っぷりはなりを潜め、いたって真剣な教師然としたエイリカの姿に、ユーリは居住まいを正した。
「大崩壊以前の人間はこの存在を知覚できなかった。それを神々から教えられ、役立てて人類を導いたのが、預言者たちと言われるはじまりの十人だった。彼らは後にそれを魔法という技術体系にまとめ、普及させた。ここまでは大丈夫かね?」
「えっと、質問です。神から与えられた力なのに、魔法なんですか?」
「おお、いい突っ込みだ。神聖術やなんだと呼ぶ者もいるが、当時の人間達にはそのほうがわかりやすかったらしい。作り話のギミックとして、とてもオーソドックスなものだった――そうだよ。短い杖でちょちょいのちょい、とね」
エイリカはどこからか取り出した眼鏡をかけて、両手に棒を持って叫ぶような動きをする。その意味は全く理解できなかったが、話自体には納得できた。
「こほん、では続けよう。この第五元素を操る為に、神は人の身に印を刻んだ。それが原型刻印。十氏族が持つ神の加護の証であり、人類最初の印。彼らは詠唱一つで奇跡を起こせる。イズラハの炎の槍は見たことがあるかい?」
「はい。助けていただきました」
「それは結構。では、アレの威力も知っているな……ミサイルや爆弾、では通じないか。まあ、とんでもない代物だ。あれが一人いるだけで魔物の大群すら殲滅できる。だが、さすがにあんなものは一般的ではない」
死を覚悟したあのスタンピードの際、オークの巨体を一息に焼いた力強い炎の槍を思い出す。
「基本的に魔法とは、何らかの現象を引き起こす機能を記した刻印を、自分の身体に溜め込んだ第五元素を使って励起させるものだ。人が貯蓄できる第五元素の量は限られていて、大気中から吸収できる量も限られている。そのどちらもが並外れているのが原型刻印なんだ。マジックアイテムではそうはいかない」
「エイリカさんもサナンダン家の人なんですよね? 原型刻印をお持ちなんですか?」
「あるぞ。ほら」
「おお……!」
手を差し出し、白衣に覆われた左手の肌を晒す。
何事かを念じると、翠色の燐光と共に、非常に複雑な模様が浮かび上がる。何重にも重ねられた円形、四角、菱形と文字とが何重にも重ねられた模様は、まさしく神秘の装いだった。ユーリは知らなかったが、考古学の知識あるものが見れば、大崩壊前の曼荼羅のようだという感想を漏らしたかもしれない。
「最初の十人は、この原型刻印を解析・研究して、人間や物体にこの印を刻む術を見つけた。これが”魔法印”。人体に刻むことは極めて難しく、未だに十氏族とその末裔達に独占されているものだが、物体に刻むことは比較的容易に出来た。様々な条件つきではあるがね。一番、世間一般に膾炙したのは我が家のご先祖が作ったマジックバッグだろうね。重機や自動車なんてものがなくとも、人海戦術で何とかなるようになさしめたのは、あれのおかげだ」
君もいつも使っているだろう、との問いにユーリは頷く。容積を見た目以上に増やし、重量を軽減するマジックバッグ無しでのダンジョン攻略など、不可能に近い。明かり、携帯食料、水、道具、戦利品。人が行動する上で必要とする物は多い。武器だけ抱えてダンジョンに潜るなどもっての他だ。
「一方で、そう、君にはこちらの方が重要だな。モノの性質を強めるもの、人体の強度と筋力を底上げし、生物学的に強い運動エネルギーを身体の損傷を伴わずに発現できるようにしたもの。原型刻印から分かたれた、もう一つの印、それが”強化印”。スコッパー達にとってはなじみ深い、瞬間的に己の身体を強化する為の術だ」
エイリカが差し出した左手の模様が再び変わる。翠色の模様に変わって浮き出てきたのは白色の模様で、また模様の種類が異なるのが見て取れた。
「これが強化印。正確には原型刻印の中でも強化印として機能している部分を浮き上がらせて見せている、というべきだが。神々の恩寵で人間は大崩壊前よりも随分丈夫になっているが、オーク等の魔物に生物として劣っていることに変わりはない。筋肉の量も、牙の鋭さも、鋼鉄のような肌も、我々は持たない。幸い、強化印を人の身体に刻むのは、さほど難しいことではなかった。だから強化印の力を借りて、己を化け物達の領域に押し上げる。そうでなければ、ミラ君のような女の子が、十倍の背丈もあるような怪物と切り結ぶなんてことが出来る筈が無いんだ」
神々の恩寵については、どんな貧民であっても一度は習う内容である。
歴史書曰く。
大神は人が魔物に打ち勝てるよう、第五元素に関する知恵と印を与えた。
地母神は荒廃した世界でも人が生き延びられるよう、人の身体を強くした。
豊穣神は人に多産の祝福と、女の苦しみを和らげた。
鉱神は人に魔鉱石の存在と、扱い方を教えた。
巨神は友である鉱神の願いを聞き入れ、人に祝福されたスコップを与えた。
大崩壊の際、数十の神々が地上に降りて幾つもの祝福を与えた。それが無ければ人は魔物に打ち勝つなど出来ず、滅び去っていたと語られる。
「魔法印も強化印も、遺伝するという特性を持つ。故に、現代の貴族制はこの力の有無が支えている。実に単純な話、偉ければ、強いんだ。ケンカを売る相手は考えたまえよ、ユーリ少年」
「はい、それはもう」
個人がこの魔法と印の力で圧倒的な武力を持つ以上、社会の上層にいるものは強いものに限られる。アージェントではほとんど見かけない光景ではあるが、他の都市の貴族の中には、スコッパーに混じってダンジョンの先頭に立つこともあるという。
ただの農民の子供として分際を弁えて生きてきた自信のあったユーリは頷いたが、エイリカは首を傾げた。
「ほんとかね? 君は結構食ってかかりそうな顔をしてるから、ちょっと心配ではあるがね。まあいい。それで、私の専門は”魔法印”と機械工学だが、その源流は一緒だ。故に、強化印の扱いも得意という訳だ――――だから安心して脱ぐといい」
ほれほれ、と急かすエイリカに、ユーリは溜息をつく。
適性検査自体は、そう珍しいものでもない。スコッパーズギルドに委託することも可能だが、七等級の内、五等級以上のスコッパーでなければ予約制の上、結構な金額の診断費用を持っていかれる。そのくらい、第五元素と強化印に関われる彫刻士という職業は珍しい。ミラが言う通り、またとない機会であることは間違いなかった。
やむをえないと諦め、ユーリは上着とズボンを脱いだ。
途端、エイリカの顔が強張る。
「これは? ミラくんにやられたものではないだろう。前の飼い主か?」
「……人飼いとか、先輩達の機嫌が悪いときにやられた跡です」
「呆れたものだ。イズラハやミラくんはこれを知っているのかね?」
「いえ、余計な心配をさせるわけにはいきませんから」
「まったく、北部人の忍耐はどうなっている? こんなになるまで反抗しないとは」
「あの、怒ってるんですか?」
「怒っているか? ああ、怒っているとも。君が思っているのとは少し違うかもしれないが」
「……?」
不思議な言い回しに、ユーリは首を傾げる。
エイリカはむっつりと黙りこくると、諦めたように溜息をつき、顔を上げた。
「まあいい。まずは適正検査だ。人には第五元素を操る力とため込む力、二つの力がある。適正検査とは、この両方が、ある水準以上であることを確認する儀式のことだ。今から始めるのは原始的な方法ではあるが、傾向は掴める。この杖を握りたまえ」
杖と呼ばれたそれは、砂時計のような器具だった。真ん中に赤銅色の持ち手があり、硝子細工で出来た両端には、透明な八角形の水で満たされた箱がついている。動かす度に僅かに入った気泡が動く。
「この杖は、ある特殊な魔法印が刻まれている。君の中にある第五元素を吸い取る方向に誘導し、今度は逆向きに君の方へ流れ出す。指示通りにイメージをしたまえ。少しばかり気分は悪くなるが、そこは我慢だ――Sancta Signum, Revelio」
エイリカが幾つかの起動聖句を呟くと、杖が僅かに光を放ち始める。
「目をつむって。深く息をするんだ。イメージするのは……そうだな、水の流れがいい。自分のつま先、頭のてっぺん、心臓からそれぞれ手の先に向かって水を流し込むようにイメージしてみたまえ」
「はい」
言われたとおりに、水の流れをイメージする。
故郷の農地を流れる川だ。決して大きくはない川だが、橋がかけられていて、村と農地を分ける区界になっている。里山から流れる雫が川に落ちるように、身体のあちこちから集まってきた水が、手の先から離れていくのをイメージする。
「いいぞ、上手だ。ううん? 待って、少し調整しよう。そのまま口を開けて上を向くんだ。今から何滴か薬を垂らすから、そのまま唾と一緒に飲み込むように」
口を開けると、舌の上に甘苦い薬のような味のする薬が垂らされる。飲み込むと、身体が熱くなり、水の流れが早くなったような気がした。
「ゆっくり、ゆっくりでいい。そう、良い子だ。次は逆流させるぞ。杖を離すな」
エイリカに支えられながら、杖の上下を逆さまにする。
すると、今まで順調に流れ出ていた水がせき止められ、川の水が全て身体に向かって押し寄せてくるような感触を覚える。思わず手を話しかけたが、エイリカの手に押さえられていてそれも出来ない。目がけいれんし、胃が引きつる。酷い不快感だった。
「エイ、リカ、さん、これ、少しどころじゃ」
「我慢したまえ。男の子だろう」
横暴だとわめきたかったが、身体が言うことを効かない。再現なく行われる責め苦のような苦しさに耐えていると、エイリカは首をひねり出した。
「んんー……適正は、まあ、下の上といったところだ」
「下の上……」
「悲観するのは早いよ。成長に伴って目覚める場合もある。今はその程度だということさ……だが、それよりもキミ、強化印を持ってるじゃないか」
「え?」
「見えないかね?」
目を開くと、うっすらと四肢が光っている。
はっきりと神秘的な模様を形作るエイリカのものと異なり、何本かの途切れた線のようにしか見えないが、それは確かに強化印のようではあった。
「ホントだ……でも、そんなはずないです。オレ、印を刻んでもらったことなんかありません」
「ふむ。そうすると、ご両親や祖父母にスコッパーはいるかい?」
「いえ、みんな普通の農民の出のはずです」
父も母もアージェント近郊の農村地帯の出で、祖父母もそうだと聞いていた。どこからか流れてきたスコッパーが居ついて、それが祖先だった、などという話はありえない。
「ふーん? そうすると、ご先祖の誰かにスコッパーか貴族がいたんだろう。よく見れば、紋の形状がかなり古い。骨董品だね。北部にはこんな印が残っているのか……非常に珍しい事例だよ」
「印に古いとか、新しいとか、あるんですか?」
「あるとも。原型刻印を研究して作り出されたのが強化印といったろ? 原型刻印を再現する為には模写から始められたが、それでは起動しなかった。必要な機能を絞り、あるいはバイパスして機能を強化することで進化収斂していったのが強化印の歴史さ」
浮き出た印を指でそっとなぞりながら、エイリカは語る。
「小さな家を作るのに、大男の身体ほどの太さの柱は必要無いだろう? 同じ機能を実現する為にも、本来不要な形状を重ねてたりするんだ。なにぶん人の身体に刻まれるものだから、人体実験でもしない限りはその正誤は短い期間ではわからない。一度入れてしまえば簡単に消すことはできない。だから進歩は遅く、何十何百年とかけてきたんだが、これはかなり古い形だ。本当に珍しい先祖返りだね」
「じゃ、オレも強化印を使えるんですね……! 師匠や、イズラハ様みたいに!」
ユーリはその言葉を聞いて浮きたつ。ずっと自分に劣等感を抱えてきた。
ただの農民の子供の自分が、実は先祖にスコッパーか貴族がいて、実は強化印持ちだった。おとぎ話のような話だ。
目を輝かせるユーリだったが、少年の希望を断ち切るように、エイリカは首を振った。
「いや、残念だがそうはならない。パターンが完全に埋没してしまっていて、機能してないんだね。今、君の身体は杖と薬のおかげで、身体の神経が起こされ、とても第五元素に対して敏感な状態だ。その状態でようやく知覚できたということは、これまで全く起動できていないということ。印自体がうまく遺伝できなかった、ということだろう。このままでは起動できないし、修繕もできるような状態じゃあない。稀ではあるが、そういった話は聞く」
「そんな……」
実にあっさりと少年の夢が否定され、ユーリは気を落とした。世の中は不条理だ。生まれたその時からこの力があるものもいるというのに、自分にはなぜそんな力は無いのだろう。
「じゃあ、今のこれを消して、新しく強化印を刻むことは出来ないんでしょうか……」
「まず無理といっていい」
エイリカの言葉はどこまでも無常だった。
「印は、人の身体ならどこにでも刻めるという訳ではなくてね。強化印は脳や臓器が近いと、悪影響を与えやすい。心臓、頭、肺といった内臓の活動を邪魔しないよう、四肢に刻まれるのが普通なんだ。君の場合、四肢にびっちりと刻まれてしまっている上に、定着が強すぎる。血管や神経と融着してしまっているように見える」
「そんな……」
「うーん、まあ、手が無い訳ではないが……いや、少し、考えよう。イズラハとも相談したい。服を着たまえ」
ユーリはがっくりと肩を落としながら上着を手に取る。
そんな少年の背中を叩き、エイリカは慰めた。
「なに、気落ちすることはない。手もやりようもまだまだある。君にあったやり方を探していくとしよう。いまの適正では魔道具を動かすのは難しいが、もっと君が大人になれば、やれることも増える筈だ。街を案内してくれた礼に、強化印がなくとも何かすごいものを考えてやるとも」
「はあ、お願いします」
強化印の有無も、方便に過ぎない。
師匠に、お前は大丈夫だ、お前はすごい才能を秘めたやつだ、と言ってほしかったのだ。まだ数週間ではあるが、なかなか結果として感じ取れてはいない。少しばかり筋肉がついて、背が伸びても、今のままでは師に追いつくことはできない。
どこまでいっても、自分はただの人だった。その事実がユーリの背中にのしかかる。
(結局、自分は――――)
凛々しい立ち姿を思い出す。
刀を寝かせながら上段に構え、地面を光のような速さで蹴りぬき、敵を切り飛ばす鮮やかな一刀を。
つないだ手の熱を思い出す。
外套をはためかせながら地に降り立つ、炎の槍で瞬く間に敵を屠る気高い姿を。
自分は、主や、師匠のような選ばれた人とは、違うのだ。
その事実をすぐ受け止めきるには、まだ時間が必要だった。
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落胆は大きかったのだろう。
しょんぼりと肩を落としながら、離れを出ていくユーリの後ろ姿を見送る。
「うーん」
エイリカとしては、あそこまでがっかりされるとは思っていなかった。
強化印というのは、実際のところ制約事項も多い。ダンジョンの中で何時間も起動しておけるようなものではないし、強化の度合に応じて代償も必要となる。手慣れた武人になればなるほど、身体の使い方や足さばき、通常通りの筋肉の使い方を重視すると効く。
魔法ではあるが、万能ではないのだ。そのあたりを上手く伝えてやれれば良いのだが、武芸からはほど遠いエイリカでは、何の説得力も無いだろう。
「ミラ君にも報告しておくべきだろうなぁ」
少年の血筋も気になるところだ。遺伝に失敗しているとはいえ、あれほど全身に広がるような強化印を入れている例は珍しい。術者の寿命にさえ影響したことだろう。いったい何を源流とした印なのかは調べておきたかった。
己も離れから出て、本館に向かう。裏庭側にとぼとぼと歩いていく少年を見やりながら、本館の扉を開けると、ちょうど平服に着替えたミラが二階に上がっていく途中だった。
「エイリカ様。もう検査の方は終わられたので?」
「おお、ちょうど良かった。ミラ君、あのわんこ君のことなのだが」
「……? ユーリが飼っている白い子犬のことでしょうか」
「違う違う、そのユーリわんこ君のことだよ」
何事かを考えた後、納得したようにミラは頷く。その手には、山のような本が積み重なって彼女の口元にまで迫っていた。
「彼がどうかしましたか? ……あっ」
「おっと」
少しだけ身体が傾いた瞬間に、するっと一番上の本が滑り落ちた。階段に落ちたそれを拾い上げると、シンプルでわかりやすい題名が目に飛び込んでくる。
「……ん? なになに、”新版・頼れる先生の基本 出来る教師は会話が九割”?」
「あ、ああ」
階上で、あわあわと焦りだす声が聞こえる。エイリカは、よくよくミラが手に持つ書籍に目を向け、背表紙の題名を読み上げる。
「”一週間で結果が出る! 図解入門・最新コーチング技術の基本と応用”、”仙人の弟子から絶賛の声 師匠としての心構え・実践編”……なんだ、わんこ君への教え方に悩んでいたのかね、ミラ君」
「か、返してください」
頬を真っ赤に染めて取り返しにくるミラだったが、山のように本を抱えている為、手が使えない。
エイリカも当初は誤解していたが、既に数年の付き合いの中でわかってきたことがある。この澄まし顔の秘書官殿は案外、攻められると弱いタイプだ。その分、叩くと良い音がする。にやりと口を歪めてエイリカはからかった。
「なにもそんなに恥ずかしがることもないだろう。良い先生じゃないか、こんなにたくさんコーチング術の本を買って」
「その……私は、口下手なので……」
恥じらっている様が実にかわいらしい。エイリカにとっては誠に眼福な面白い見世物だった。
「はっはっは! うーん、何だか君たちは姉と弟のように似ているね! 髪も目の色も違うが、やはり北部人だからかな?」
「似ている? 私とあの子がですが?」
「真面目ぶっているときのイズラハと君も、少し似ているが。やはり似たもの同士が意気投合して集まった会社なのだろうねえ、ここは」
同志だな、麗しいことだ! とエイリカは声を上げる。
「……その、ユーリにはご内密に」
「何をそんなに悩んでいるのかね。お姉さんに相談してみなさい。でないと、この本は返さないぞ」
少しの逡巡の後、ミラは重い口を開いた。
「……どうも、期待をかけすぎているせいか、最近上手く意思疎通が取れないのです。強く叱り過ぎたせいか、私の前だと肩が強張ってしまうようで」
「ふーん。ちなみに、訓練はいつもどこで?」
「この都市の中央洞窟です」
「いつもそこで?」
「はい……何か問題でも?」
「たまには違う環境で訓練してみればいいのではないかな」
玄関脇の窓からこちらをじっと見つめている大鷲が、なぜか翼をばっと立てた気がしたが、気のせいだろう。
「社会的認知理論、という言葉がある。その書籍の中に書いているだろうが、人の修練の成果は、環境による影響を必ず受けるものだ。君に叱り飛ばされた環境でずっとやり続けると、わんこ君のメンタルに悪影響を与えている可能性もあるだろう。考え・メンタルと、環境、行動、この三つが良い相関を生んで、初めて良い結果を生む」
目を丸くして傾聴するミラに気を良くし、エイリカは説明を続ける。
「環境を変える、というのは合理的な訓練方法なのだ。彼の言葉の端々からは、君への深い憧憬が伺える。君は良い先生なのだ。自信を持ちたまえよ、ミラ君」
「その……ええ、そうであればよいのですが。エイリカ様は、何だか今日は非常に大人びておられるように見えます」
「うーん、久々に学究の徒らしく、先生らしいことをしたからね。そんな気分なのかもしれんな!」
エイリカは腰に手を当てる。
「ここがアージェントなら、たしか近くに”層流の森”があっただろう。行ってくればよいのではないか? 良い気分転換になるだろう。私の方は心配せずともよい、しばらく研究室の準備にかかるから」
「なるほど、確かに……エイリカ様、ご助言、ありがとうございます」
「いいんだとも。我々は同じ会社の仲間なのだろう? 助け合わねばな」
エイリカは背伸びをして、ミラが持つ本の山の上に本を載せた。
実際、飽きっぽい自分なら何日も同じダンジョンに籠るのは嫌だな、という感想にそれっぽい理論を付け足しただけなのだが、どうやら誤魔化せたようだった。
「その、繰り返しますが、この事はユーリにはご内密に」
「まあまあ、わかったとも。私は秘密を守れる大人の女だからな!」
礼を言うミラを背に、気分よくエイリカは歩き出す。
実に良いことをした。やはり引き籠っているだけでは知性は役立てない。実社会に出て、己が持つ見識を役立てる日が来たのだと思った。
意気揚々と離れに戻り、そういえば、とエイリカは思い出す。
彼の身体と、謎の強化印の話をし忘れてしまった。
まあいっか、とエイリカは忘れ、部屋を自分好みに作り変えることに熱中した。
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