第九話 数歩の距離
12月に入ると、ルトワー王立学園、とくに淑女科の一年生は浮き立った空気に包まれた。
社交シーズンの始まりは、十二月半ばに王宮で開かれる第一夜会。
この日が、デビュタントのお披露目となる。
どんなドレスを着るのか。
誰にエスコートしてもらうのか。
そんな話題が、教室のあちこちから聞こえてきた。
婚約者がいる人、いない人。
卒業後すぐに結婚することが決まっている人、職業婦人を目指す人。
それぞれが、それぞれの立場でデビューの日を待ちわびていた。
ミリシャも、入学前は職業婦人を目指すつもりだった。
なのに今は、貴族へ嫁ぐ身となった。
それも、ほのかな恋心を抱いていた人のもとへ。
夢のようだった。
けれど、まだ現実味はない。
婚約以来、一度もキリアンに会えていないからだ。
ミリシャの花嫁修業は、年明けから始めると言われていた。
十二月前半は、オレアのデビュー準備で忙しい。
後半になれば、ポートル前侯爵夫人も夜会続きとなる。
さらに、普段は領地にいる当主夫妻と次期当主夫妻も、社交シーズンに合わせて王都へ戻って来るため、タウンハウスの使用人たちも迎え入れの準備に追われる。
もちろん、ミリシャ自身もデビューを控え、慌ただしい毎日を送っていた。
そんな事情が重なり、花嫁修業は年を越してからということになった。
そのため、婚約したあの日以来、ミリシャはポートル家を訪れていない。
キリアンも、この時期は何かと忙しいようだった。
簡単なあいさつ状は何度か届いていたが、そのたびに、会う時間が取れないことへの詫びが添えられていた。
ミリシャは、その忙しさを心配しながらも、一つだけ気がかりなことがあった。
コサージュのことだ。
婚約者がいる場合、男性から女性へコサージュを贈るのが慣例となっている。
礼を欠くような人ではないと思っていても、まだ婚約者らしいやり取りを何一つしていないせいか、どうしても胸の奥が落ち着かなかった。
キリアンの予定を、オレアに聞いてみようか。
そう思いながらも、結局聞けずにいた。
なんとなく、オレアに対してキリアンのことを話題にしづらい。
婚約する前、オレアはよくキリアンの話をしていた。
「お兄様が近くにいるだけで安心するの」
そう笑っていた姿を思い出す。
たしかに、キリアンには人を安心させるような穏やかな雰囲気がある。
だけど。
なんとなく。
その優しさの奥で、何かを押し殺しているようにも見えた。
まだ何も知らないくせに。
そんなことを思うなんて。
そう思うのに。
あの日。
婚約した日。
優しさだけではない、何かがあった。
オレアに対して。
ミリシャの知る感情で一番近いのは、「我慢」だった。
だけど、本当にそうなのかは分からない。
そもそも、我慢しなければならない理由が分からない。
家族で。
しかも、キリアンの方が年上で。
とはいえ、ミリシャがオレアと親しくなったのは、学園に入学してからだ。
高位貴族ともなれば、家族の間にも、外からは見えない事情があるのかもしれない。
少し離れた席に座るオレアが、視界の端に映る。
声をかけようと思えば、すぐに行ける距離だ。
だけど今日は、その数歩が遠かった。
ミリシャは教科書を開き、眺めるふりをしたまま、結局オレアのそばへは行かなかった。




