第八話 持ち帰ったもの
ミリシャたちは応接室へ戻った。
「三人で楽しめたようでよかったわ」
「えぇ、楽しかったわ。でも体が冷えてしまったみたい」
ポートル前侯爵夫人の言葉に、答えたのはオレアだった。
その言葉を受けて、新たに紅茶がふるまわれた。
ミリシャの身体も冷えていたので、温かい紅茶はありがたかった。
部屋の暖かさも相まって、こわばっていた身体が緩んでいく。
「あぁ、あったまるわ。ねぇミリシャ」
オレアの朗らかな声は、部屋の空気になじむ。
ミリシャは、ちらりとキリアンを見た。
キリアンは、表情を見る限り、まだほぐれ切らない何かを抱えているように見えた。
ミリシャも似たような気持ちだったけれど、両親に心配をかけたくなくて
「えぇ」
と微笑んだ。
頬にしっかりと力を入れ、口角がきちんと上向くように。
それを見たキリアンの顔が一瞬下がって、すぐに元に戻った。
戻ったあとには、きれいな貴族の笑顔があった。
彼の表情は、その後一切揺らがなかった。
その後しばらくして、ウェザレル一家はポートル家を後にした。
馬車に乗ってしばらくは全員無言だった。
ガラガラと回る車輪の音と、馬の蹄が石畳を蹴る音。御者の掛け声。
普段はほとんど気にならない、わずかに革がきしむ音や、カーテンの金具がチリンと鳴る音、誰かが身じろぎした際の衣擦れの音すらも聞こえてくる。
そういう音を聞きながら、ミリシャは窓の外をぼんやりと眺めていた。
ポートル家からウェザレル家までの道は何度も見てきた。
だけど、今日はどこか知らない街を見ているようだった。
「大丈夫そうか?」
つと、向かいに座る父が語りかけてきた。
大丈夫なのだろうか。
ミリシャは、先ほどのポートル家での出来事を思い返す。
前ポートル侯爵夫妻は、いつもと変わらず優しかった、と思う。
キリアンも。
ウェザレル家に比べると、ポートル家はかなり格上だ。
それにもかかわらず、ウェザレル家全員に対して、とても丁寧に接してくれた。
オレアも。
たぶん、彼女なりにミリシャの緊張を和らげるために色々と気を配ってくれたのだろう。
だけど、オレアの言動を思い返すたび、違和感と微かな不快感が胸をよぎる。
前侯爵夫人の言動にも、同じような感情がつきまとう。
キリアンに対しては、もっと複雑だった。
彼が庭園で見せた、苛立ちを抑えた顔や、泣きそうな笑顔。
その後の応接室での、感情を閉じ込めた笑顔。
そういう表情を思い出すと、ミリシャはどうすればいいか分からなくなる。
ミリシャは太ももの上で重ねた手の下側の親指で、そっとペリースの生地をなでた。
外出用のペリースは上質で、ミリシャの身体に寄り添い、心地よい暖かさを与えてくれるのに、心の中にあるうすら寒さまでは防ぎ切れていない。
だけど、とも思う。
もしかしたら婚約したてというのは、誰でもこういう気持ちになるのかもしれない。
いつもなら気にならないようなことが気になるのは、今日が大切な日でとても緊張していたからなのかも。
ミリシャは、知らずのうちに込めていた力をふっと抜いて微笑んだ。
肩の位置がわずかに下がったなと思いながら
「大丈夫です。今日はずっと緊張していましたから、少し疲れたようです」
瞼に力を込めながら、父の目を見て言う。
なぜか、逸らしてはいけない気がしたから。
父であるウェザレル伯爵は、しばらく娘を見つめた。
そして、
「そうか。家に帰ったら、少し寛ごう」
言葉はそれだけだった。
父の隣で、母の口元が少し動いたけれど、結局言葉は出てこなかった。
そのまま静かに、馬車の揺れに身を任せ、ウェザレル邸へと帰宅した。
ミリシャは自室に戻ると、メイドに手伝ってもらい、在宅用のドレスに着替えた。
帽子や手袋を外していくにつれ、少しずつ息がしやすくなる。
今日は、いつもよりほんの少しコルセットをきつめにしてもらっていたので、それも緩めてもらい、ドレスの素材もやわらかめのものを選んでもらった。
ミリシャがソファに深く座り、背もたれに身を預けたのを見て、メイドがハーブティを用意してくれた。
鼻の奥にとどまる甘いフローラルの香りと、スッと通り抜ける爽やかな香りを吸い込むたび、全身の緊張がほぐれていくのを感じる。
ふと、キリアンのことを考えた。
彼も今頃、少しはリラックスできているだろうか。
できれば、温かいお茶でも飲んで、肩の力が抜けているといい。
まだ始まったばかりの関係なのに、こんなことを思うのは図々しいだろうか。
だけど、そう願わずにはいられない。
オレアの笑顔。
それが浮かんだ途端、薄いブルーグレーの靄が心にかかった。
ブルーグレーは、オレアの瞳の色だ。
その色の靄を心に感じていることに、罪悪感めいたものを感じたけれど、なぜそんなものがかかるのか、ミリシャにも分からない。
自分の心を捉えきれない心許なさが、その靄をさらに濃くしていくようだった。




