第十話 今日中に
あと数日で、王宮での第一夜会が開かれるという日。
キリアンから、「少し遅い時間になるが訪問したい」と連絡が入った。
両親に尋ねると構わないとのことだったので、その旨を使者へ伝えた。
夕食も終わり、普段ならそろそろ寝衣に着替えようかという頃になって、キリアンはやって来た。
旅装姿だった。
社交シーズンが始まる前に一度領地へ戻ると、以前の手紙に書かれていた。
おそらく、その帰りなのだろう。
服にはうっすらと砂ぼこりが残っていた。
馬を駆けてきたのかもしれない。
応接室へ案内しようとすると、キリアンは首を横に振った。
「砂ぼこりで汚れているから、ここで。どうしても今日中に渡しておきたくて」
そう言って差し出されたのは、コサージュだった。
花びらは、キリアンの瞳を思わせる紺色の繊細なレースが幾重にも重なり、まるで薔薇が咲いているようだった。
中心には小ぶりなパールがあしらわれ、銀糸で編まれた葉とリボンレースは、彼の髪色を思わせる。
白いデビュタントドレスにも、小ぶりなティアラにもよく映える色合い。
そして何より、キリアンの色だった。
胸が熱くなる。
正直、不安だった。
コサージュのことを何も聞いていなかったから。
社交シーズンまでには帰って来ると分かっていても、この時期に領地へ戻ると言われたこと。
婚約前は何度か話したことがあっても、それはいつもオレアが一緒だったこと。
婚約してからは、ほとんど言葉を交わせないまま今日を迎えてしまったこと。
このまま第一夜会まで会えないのではないか。
もしかしたら、エスコートさえしてもらえないのではないか。
そんな不安は、湿った重たい塊になって、少しずつ胸に積もっていた。
だけど今、その手の中にはコサージュがある。
第一夜会まではまだ数日ある。
それなのに旅支度も解かず、この時間に駆けつけてくれた。
自分が不安に思っていることを、キリアンも察してくれていたのだろうか。
少しでも早く安心させたい。
そう思って来てくれたのだとしたら、その砂ぼこりさえ愛おしかった。
「ありがとうございます」
自分でも分かるほど、声に涙が混じっていた。
ここで泣いてしまったら、きっとキリアンを困らせる。
必死にこらえる。
その代わり、コサージュの箱を持つ手のひらが汗ばんできた。
どうしても涙の代わりを務めたいらしい。
箱を傷めてはいけないと思い、そばにいた執事へ預ける。
「本当に申し訳ない。一緒に見立てられたらよかったんだけど、急がないと間に合わなくなりそうだったから、勝手に注文してしまっていたんだ。
予定外に領地へ戻ったりして、不手際だらけで。本当に申し訳ない」
見上げると、キリアンは心配そうにミリシャを見つめていた。
最初と最後に口にした「本当に申し訳ない」。
その言葉が、彼の本心なのだと思った。
こらえていた涙が、また込み上げる。
ミリシャは俯き、小さく首を横に振ることしかできなかった。
こほん。
咳払いが聞こえた。
見ると、執事が先ほどとは別の箱を手にしている。
そうだった。
ミリシャはその箱を受け取り、キリアンへ差し出した。
キリアンは、そっと受け取る。
「開けてもいいかな?」
「はい」
中には、クラバットピンが収められていた。
男性からはコサージュを。
その返礼として、女性はクラバットピンを贈る。
ピン本体には、ミリシャの髪色に似た柔らかな色味のくすみゴールド。
先端には、深い緑色のエメラルドをあしらった。
本当なら、自分の瞳のような薄い緑に金や茶が溶け込んだ色を選びたかった。
けれど、それではあまりにも自分を意識させすぎる気がして、少し落ち着いた色にした。
ところが、キリアンが贈ってくれたコサージュは、迷いなく彼自身の色だった。
もう少し、自分らしい色を選んでもよかったのかもしれない。
そんな後悔が胸をよぎる。
しかも、キリアンはクラバットピンを見つめたまま、何も言わない。
気に入ってもらえなかったのだろうか。
新たな不安が芽を出しかけた、その時だった。
「ありがとう」
キリアンの声は、少し震えていた。
そっとうかがうと、俯いたままで表情は見えない。
「正直、色々幻滅させたと思っていたから……こんな素敵なものをもらえるとは思っていなくて」
最後は消え入るような声だった。
彼も、不安だったのだ。
幻滅した覚えなどない。
けれど、人との距離は近くなるほど、かえって相手の気持ちが見えなくなることもある。
まして二人は婚約したというのに、彼の都合でほとんど会えない日々が続いていた。
そんな状況なら、キリアンが不安を抱えていても不思議ではない。
相手も同じように不安だった。
そう知ると、自分だけではなかったのだという安堵が、胸の奥でふわりと広がった。




