第五話 消えた微笑み
婚姻に関する細やかな条件などは、当主同士での話し合いで決まっていった。
正確に言うならば、ポートル家は前当主だったけれど。
ミリシャ個人は、ポートル家独自のしきたりや作法を学ぶために、時々ポートル家を訪れるよう求められたくらいだった。
婚姻の時期は、ミリシャの卒業を待って、というくらいで、あとは追々と言われた。
家同士の取り決めなども大方決まり、あとは本人が書類にサインするだけ。
11月の半ば、ミリシャは両親と一緒にポートル家を訪れた。
実は、婚約の打診が来てからポートル家を訪ねるのははじめてだった。
曖昧な状態でキリアンと顔を合わせても、何を話せばよいか分からなかったし、そもそもオレアからも誘われなかった。
今日、書類にサインすればミリシャはキリアンの正式な婚約者となる。
それなのに、まだどこか他人事のような気分のまま、ミリシャはポートル家の門をくぐった。
顔なじみの執事に案内してもらい、第一応接室へ入った。
そこには、ポートル家前当主夫妻とキリアン。
そして、なぜかオレアもいた。キリアンのすぐ横に。
オレアはミリシャと目が合うと、胸の前で小さく手を振った。
ミリシャは戸惑った。
今日は婚約という契約を結ぶための集まりだ。
その場に、キリアンの妹でミリシャとも仲が良いとはいえ、オレアが同席する必要はあるのだろうか。
その戸惑いが、オレアへの対応を数秒遅らせたが、ミリシャはなんとか微笑んだ。
だけど、体の内側に薄い膜が貼られたような違和感は消えなかった。
それぞれの挨拶を済ませ、ミリシャは両親に挟まれる形で三人掛けのソファに座った。
ミリシャたちが座ったのを見て、ポートル家の面々もそれぞれの席に座る。
ミリシャの正面にはキリアン。そしてその隣にオレア。
二人の祖母である、前ポートル侯爵夫人は一人掛けの椅子に腰かけた。
全員の目の高さがそろった時、ミリシャはキリアンを見た。
キリアンもミリシャを見て。
微笑んでくれた。
ミリシャが微笑みを返そうとした時。
オレアがキリアンの袖を引いた。
キリアンは、袖を引かれたせいで反射的にオレアを見た。
小声でオレアが話しかける。
キリアンは聞こえなかったのか、ほんのわずか、オレアの方に体を傾けた。
ミリシャの微笑みはこわばり、ぎこちなく消えていった。
書類に不備がないかを確認したあと、それぞれが直筆でサインした。
ミリシャが最後だった。
自分が書く欄の上に、すでに書かれたキリアンの名前がある。
丁寧さの中に、男らしさも感じられる筆跡だった。
ミリシャは、ペンを手にした。
いつもより重みを感じた。
手に力が入った。
その力みを抜こうと、細く息をはいた。
ペンの硬質な冷たさが、手の熱を自覚させる。
文字が乱れないよう、インクをこぼさないよう、跳ねないよう、細心の注意を払って自分の名前を書く。
書きなれたはずの自分の名前が、見たことのない文字の羅列のような気がして。
いつもより、ちょっとだけぎこちない文字になったような気がする。
だけど間違わなかった。
それが精いっぱいだった。
書き終わり、ペンを置く。
右手をぷらぷらと振りたい衝動にかられたが、我慢して。
書類を父に渡す。
父が確認してポートル前侯爵へ手渡す。
前侯爵も確認し、頷いた。
応接室の空気が、ほのかに緩んだ。
「さぁ、これで手続きは完了だな」
ポートル前侯爵が、全員の気持ちを代弁してくれた。
脇に控えていた家令が、書類を盆にのせ部屋を出る。
それを合図に、メイドたちが紅茶と焼き菓子が乗ったワゴンを運んできた。
紅茶の爽やかな香りと、焼き菓子の甘い香りが部屋の中へ漂うと、場の空気が一気にほぐれた。
みんなの背中が椅子の背もたれに近づく。
オレアは、しっかりと背もたれに寄りかかり、置いてあったクッションを、いつの間にか両腕で抱え込んでいた。
「見てるだけだったけど、私まで緊張したわ」
「だから、同席しなくてもいいと言っただろう?」
キリアンが、困ったような、少しだけ苛立ったような顔で答える。
「えー、だって見てみたかったんだもの。ミリシャも私がいる方が心強かったでしょ?」
ミリシャの背中がわずかに強張り、背もたれから遠のいた。
「えぇ」
そう言うのがやっとだった。
本当は、オレアがこの場にいることに違和感がある。
婚約とは、家同士の契約だが、二人だけの約束でもあるはずだ。
すべての手続きが終わったあとで顔を見せるのならともかく、今この場にオレアが同席する必要があるのか。
それを良しとするのか。
ポートル家の考えが分からなかった。
もちろん、そうとは言えないけれど。
「ほらぁ」
オレアが嬉しそうに笑う。
「オレアは優しい子だから」
祖母である前侯爵夫人も、目を細める。
孫娘が可愛くて仕方ないらしい。
しかし、見間違いでなければ、オレアと前侯爵夫人以外の笑顔は、どこかぎこちない。
そのことに気付かないまま、オレアは明るい話題を振りまく。
答えるのは、ほとんど前侯爵夫人。
他愛のない、孫と祖母の会話。
しかし、やはりどこか異質な感じがする。
ミリシャは、口元の微笑みだけは絶やさなかった。
だけど。
胸の奥に貼りついた違和感は、最後まではがれなかった。




