第四十話 それぞれの選択
キリアンがウェザレル邸を訪れた。
ミリシャと顔を合わせると、すぐに深々と頭を下げた。
「本当に、本当に、ポートルのせいであなたを振り回し続けていること、深くお詫び申し上げます」
「お顔を上げてください。届け出の件は、キリアン様のせいではないので」
ミリシャの言葉に、キリアンは顔を上げたが、眉尻は下がったままだった。
「恥ずかしいを通り越して、情けないというのが本心です。だけど、ぼやいたところで現状が変わるわけでもない。今日は、これから自分がどうするつもりなのか、話をしに来ました」
声には、まっすぐな芯が通っていた。
あ、決めたのだな。
ミリシャはそう思った。
自分のことを自分で決めて、それを今からミリシャに伝える。
以前のキリアンにはなかったことだ。
キリアンはいつも優しかった。
物腰もやわらかく、ミリシャを一人前のレディとして扱ってくれた。
もともと優しい性格だったのだと思う。
だけど、オレアや前侯爵夫人に求められ続け、その優しさはいつしか義務に変わってしまったのかもしれない。
キリアンが優しくオレアに寄り添っておけば、ポートル家は円滑だった。
だからキリアンにとって、誰かに優しく振る舞うことは、義務であると同時に、自分の身を守る手立てにもなっていたのかもしれない。
ミリシャは、キリアンの優しさに惹かれた。
でも、その優しさが、いつも誰かを慮ることを求められ続けた結果、作り上げられたものだとしたら。
それはとても悲しいと思った。
優しさそのものは、決して偽物ではないのだろう。
それでも、どこかに虚しさが漂う。
だけど今の彼は、柔和な雰囲気はそのままに、以前にはなかった芯の強さを感じさせる。
その変化が、ミリシャはなんとなく嬉しかった。
まずは、彼の決意を聞こう。
もしかしたら、寄り添えないかもしれない。
それでも。
まずは彼の決意を聞かなければ、何も始まらないのだから。
「はい。お聞きします」
ミリシャは、しっかりとキリアンの目を見て答えた。
キリアンもミリシャを見つめ返し、小さく一つ頷いた。
そして、上着の内ポケットから封筒を取り出し、ミリシャの前に置いた。
「これは?」
ミリシャが尋ねると、
「婚約解消届です。父が出し忘れていた」
なぜ、それをここで差し出されたのか。
意図がつかめない。
キリアンは一瞬視線を下げたが、すぐに戻した。
「私は、ポートルに残ることに決めました」
ミリシャは黙って続きを待った。
「それなのに、あなたとの婚約も、このまま続けたいと思っています。かなりわがままだという自覚はあります」
キリアンは、一度言葉を切った。
「しかし、いろんな問題が露呈したポートルを兄一人に任せて、自分は平民となり、あなたと結婚できる道を模索したとしても、後悔が残る気がしました。ポートルが今の状態になったことには、私にも一因がある。私がもっと毅然とした態度をとっていれば、何かが違っていたかもしれない。そういう思いがあるのに、事後処理を兄一人に任せることはできません。ただ、いくつか条件はつけさせてもらいました」
「条件?」
「はい。本来は、どこかのタイミングでポートルの持つ従属爵位を受け取る予定でした。しかし、それを辞退しました。あくまでポートル家次男として、兄の内務補佐と北方辺境領との連絡役を担います。それと――」
「それと?」
「結婚を機に、家を購入しようと考えています」
「家を?」
「はい。ポートル所有ではなく、あなたが気に入った家を」
私が気に入った家を――。
ミリシャは、心の中でキリアンの言葉を反芻した。
「結婚後は、領地での生活になります。私がポートルを名乗る以上、今回の件はついて回る。評判の落ちた貴族など、格好の噂の種でしょう。私はそれでもいい。だけど、あなたにはできるだけ巻き込まれてほしくない」
キリアンは、ミリシャをまっすぐ見つめた。
「ポートル所有の家に住まわないからといって、どれほどあなたを守れるかは分かりません。それでも、私がポートルに依存しているわけではないということは、示せるのではないかと考えました」
貴族ほど、滑って転んだ者の足を引っ張ることが好きな種族はいない。
以前、父が冗談と嫌悪を混ぜ合わせたような口調で、そんなことを言っていたのを思い出した。
キリアンは、ミリシャとの結婚を諦めていない。
それが伝わる話だと思った。
だったら、なぜ婚約解消届をこの場に持ち出したのだろう。
ミリシャの視線が、書類へ向いた。
キリアンはそれに気づいたのだろう。
「私はポートルに残ります。それなのに、あなたとも結婚したい。だけど、あなたにまで我慢を強いたくはありません。あなたが、ポートルに残る私とは結婚できないというのなら、今日、帰りにこの書類を提出してきます。ただ――」
キリアンの視線が、ミリシャを捉えた。
「まだ少しでも可能性があるのなら、この書類をあなたに預けたい」
「私に?」
「はい。これから、あなたからの信頼を得られるよう、最大限努力します。だけど、あなたから見たら全然だめかもしれない。もし、これからの私があなたの期待に応えられていないと感じたら、その時は、この書類を提出してください」
「かまわないのですか?」
「……かまい……ません」
かなり無理をした発言のようだった。
膝に置かれた手が、固く握られている。
テルアも、婚約解消届がまだ提出されていないことをミリシャたちに伝えた時、膝に置いた手を握りしめていた。
あの時も、和らいだ表情を見て、やっぱりキリアンと似ているなと思った。
キリアンがポートルに残る理由の一つは、テルアなのだろう。
だけど、これまでの自己犠牲とは違う。
兄に求められたから、仕方なく残るのではない。
キリアン自身が、テルアを支えていきたいと思った。
だから、残るのだ。
それならば、ミリシャは――




