第三十九話 何を選ぶべきかーーキリアン視点
キリアンは北方辺境領から戻った。
約一か月半。
たったそれだけの間に、ポートル家は大きく揺らいでいた。
家を出た。そして、オレアの婚約者候補について北方辺境伯に打診した。
キリアンがしたことは、それだけだ。
なのに、これまでため込んでいた問題が一気に噴出した。
その結果、当主交代などという事態にまで発展するとは、思ってもみなかった。
もっと早い段階で、オレアに自分の立場をきちんと分からせ、前侯爵夫人の干渉にも強く抗議しておけば、こんな事態には陥らなかったはずだ。
すでに、この件は社交界でも噂になりつつある。
もともと、オレアの婚約問題を先延ばしにしているポートル家に対して、生ぬるい視線を向けている貴族家も多かったらしい。
「平時だから、あの当主でも成り立っていた」
北方辺境伯から、父親であるポートル侯爵への評価を聞いた時、キリアンは愕然とした。
北方辺境伯も当然、オレアがポートル家預かりになった当初は、彼女の今後について注目していた。
だから、婚約者選定の段になってオレアがごねたことも知っていた。
十歳にも満たない子が、自分に優しくしてくれた身近な異性に淡い恋心を抱く気持ちも理解できた。
だが、いずれは適当な家と縁づかせるのだろうと思っていたのに、いつまで経ってもそんな話は出てこない。
とはいえ、表には出ていないだけで、ポートル家内部では動いているのだろうと思っていたという。
「辺境にルテル家との婚姻を打診したくないというポートルの事情は汲み取れたから、こちらとしては他人事として気に留めることも忘れていたが、まさか何も決まっていなかったとはなぁ」
呆れていることを隠しもせず、北方辺境伯からそう言われ、キリアンは地中に埋まってしまいたい心境にかられた。
しかし、この問題にはキリアンも深く関わっている。
自分がもっとはっきりと、オレアのなだめ役になるのは嫌だと言っていたら。
そんな思いが浮かんだ。
テルアも最初の頃は、オレアを諫めたり、祖母に苦言を呈したりしてくれていた。
だが、まだ年若い孫の意見に祖母が耳を傾けるはずもなく、キリアン同様、テルアも諦めの境地に達したのだと思う。
テルアがまだ学園に入学する前。
兄弟が同じ屋敷で生活していた頃。
オレアの部屋へ慰めに向かうキリアンに、テルアだけは、
「お前にばかり任せてしまってすまない」
と言ってくれていた。
なぜ自分ばかりがこんなことをしなければならないのか。
そんな思いは、その言葉で多少なりとも慰められた。そんな思いは、その言葉で多少なりとも慰められた。
それに。
キリアンが家を出るとき。
執事から「テルア様からです」と言って、金の入った袋を手渡された。
テルアが不在の時に、キリアンが家を出るようなら、渡しておいてほしいと頼まれていたらしい。
そのテルアが、あと数年でポートル家当主となる。
当初の予定より、ずいぶん早い。
テルアからは、できればポートルに残ってほしいと言われた。
「無理にとは言わない。もうこれ以上、自分を犠牲にしてほしいわけじゃない。ただ、もし、万が一、ポートルに残ってもお前が幸せになる道があるのなら……って、やっぱりこれは私のわがままだな」
最後は、ため息と一緒に呟かれた。
テルアの気持ちも分かる。
不安なのだと思う。
父が先延ばしにしていた問題は、オレアのことだけではないかもしれない。
そんな状態のポートルをテルア一人に任せて、自分は平民となって、本当に平気でいられるのか。
キリアンは自問自答した。
ミリシャとの将来を考え、ポートル家から離れた後は王宮文官を目指すつもりだった。
それなら、平民の身分となっても、ミリシャへ求婚する資格はあると思った。
覚悟をもって書いた婚約解消届が、父の失態によって提出されておらず、いまだ婚約関係が続いているなど、キリアンにとっても想定外もいいところだった。
キリアンは、ミリシャから贈られたハンカチを手に取った。
ポートルの家名も家紋もない。
キリアンの名前と、南方の花だけが銀糸で刺繍されたハンカチ。
キリアンは、その刺繍を指でなぞった。
一針一針に、ミリシャの想いが宿っている。
そんな気がした。
この刺繍を施していた時、ミリシャの心はポートルへの不満と不信に満ちていただろう。
オレアと祖母がポートルから出ていったからといって、ポートル家への不信がすぐに消えるとは思えない。
キリアン自身も、
『好きだけど信頼できない』
とはっきり言われている。
それなのに、ポートルに残ると言えば、〝好き〟という気持ちそのものも失わせてしまうかもしれない。
自分のことだけを考えるなら。
ポートルから離れた方がいい。
それが、ミリシャへの誠意にもつながるとさえ思う。
そう思うのに。
心の中に、わだかまりが残る。
今までは、誰かの意に添う人生だった。
ここに来て初めて、自分自身の決断を迫られている。
ミリシャを想う気持ちは、少しも薄れていない。
だけど、ポートルも見捨てきれない。
こんなにも優柔不断だったとは。
キリアンは、自分に呆れるしかなかった。
ミリシャの顔が浮かぶ。
自分の気持ちをはっきりと伝えてくれた、あの時の顔。
彼女の強さは、自分の我を押し通すための強さではない。
誰かを思いやり、何かをよくしたいという願いから生まれる強さだ。
彼女の強さを見習わねばと思ったはずだ。
自分にも心の強さがあるとすれば、何を選ぶべきか。
近いうちに、ミリシャへ自分の進退を伝えなければならない。




