第三十八話 切れていなかった縁
婚約解消の書類が提出されていないということは、婚約はまだ解消されていないということだろうか。
「……」
「……」
ミリシャの口からも、父であるウェザレル伯爵の口からも、言葉が出てこない。
「キリアンが書類を父に渡したあと、部屋に戻る途中でオレアと行き会ったらしくて。
その日から、オレアが食べなくなってしまいました。
祖母は祖母で、キリアンを見つけて連れ戻せと騒いでいたので、父は書類どころではなくなっていたようです」
テルアは、恥じ入るように語った。
とはいえオレアは、三日ほどで空腹に耐えかね、こっそり厨房へ行き、残り物を食べているところを見つかった。
それ以来、食事は細々と摂るようになったが、落ち込みは依然として激しく、学園にも通わない。
そのせいで、前侯爵夫人の癇癪は日に日に激しくなっていった。
そんな時に、北方辺境伯からの急便が届いた。
『オレア・ルテルと婚姻を結ばせる人物を紹介できるが、受ける気はあるか』
そこには、北方辺境伯からの婚姻契約締結のための条件も記載されていた。
これまで枠外としていた北方辺境伯家だったが、あちらから親族の誰かとオレアとの婚姻を前向きに考えてもよいと言ってきたのなら、ポートルとしても至急検討しなければならない。
ルテルには、ポートルより格下の家から婿を選びたいという思惑があったとしても、その条件に適う人物は、すでにほとんど残っていないのが現状なのだから。
オレアも社交界デビューを済ませた以上、いつまでもなあなあで先延ばしにしておける問題でもない。
つまりは、受けることを前提に話し合わなければならない。
しかし、北方辺境伯との縁を結ぶのなら、王家からの了承も必要になるし、東方辺境伯にも念のため報告しておかなければならない。
決めなければならないことが、次から次へと出てくる。
そこに、オレアの涙と前侯爵夫人の癇声が加わる。
かなり混沌とした状態だったらしく、キリアンとミリシャの婚約解消の手続きのことなど、思い出す暇もなかったらしい。
実際、思い出したというより、たまっていた未決書類の中から発掘された、という方が近かったようだ。
「思い出したのなら、すぐに提出すればいいではないか、とお思いでしょう。
ですが、オレアの問題がひとまず解決し、彼女も祖母もポートルの外に出ることになりました。
こうなってくると、あなたが婚約解消を決めた時とは、いろいろと状況が変わってきています」
そこでいったん言葉を区切り、テルアは改めてミリシャを見た。
「なので、本当に婚約解消が必要なのか、あなたに聞いてみようと思いました」
言われてみれば、そうかもしれない。
しかし――
「もうひとつ。
キリアンは、貴族籍から抜けるつもりでいます。
ですが、北方辺境伯から出された条件の一つに、今後、北方辺境との連絡役としてキリアンをあててほしい、というものがありました」
テルアは続けた。
「これは、何か役職を与えれば済むことかもしれません。
ですが、私としては、キリアンには籍を抜けず、一緒にポートルを支えてほしい。
弟はまだこちらに戻ってきていないので、このことはキリアンにも伝えられていません。
あくまで、私の希望です。ただ――」
そこで、テルアはわずかに言い淀んだ。
「万が一、この話をキリアンが受けてくれた場合。
そして、あなたがキリアンとの婚約を続けてもいいと思ってくれた場合。
キリアンの決断が、あなたの進路に影響を及ぼすのではないかと心配になりました」
ああ、そういうことか、とミリシャは理解した。
ミリシャは、もうすぐ王立学園の二年生となる。
淑女科は、二年時から進路が分かれる。
一つは、卒業後、貴族夫人となる者たちのための社交統治科。
もう一つは、侍女や上級メイド、家庭教師といった、他家に仕えるための専門知識を学ぶ実務奉仕科。
ミリシャは本来、実務奉仕科を希望していたが、キリアンとの婚約に伴い、社交統治科を選択していた。
しかし、婚約は解消されたと思っていたので、再び実務奉仕科へ変更している。
だが、書類の提出忘れという不備のため、婚約はまだ継続されている。
今後の話し合いで、キリアンも貴族に残ると決めたら、再び進路変更を申し出なくてはならなくなるかもしれない。
すでに三月も後半となっており、新学年まで間がない。
テルアは、そのことを心配してくれたのだ。
先ほどの説明を聞く限り、ポートル内部はいまだ混乱のさなかにある。
テルア自身も、さまざまなことへの対応に追われているだろう。
それでも、ミリシャの進路のことにまで思い至り、心配してくれている。
それは素直にうれしかった。
とはいえ、すぐに答えが出せるような話でもない。
「話は分かりました」
返事をしたのは、父であるウェザレル伯爵だった。
「すぐに決められることではないし、どちらにしろ、キリアン殿の考えがはっきりしてからの方がいい。
進路に関しては、二年に上がってからでも、学園に相談すればなんとかなるんじゃないかな。
その辺りのことも含め、我が家でもきちんと話し合いましょう」
父のその言葉に、テルアの肩がほっとしたように緩んだ。
「キリアンが絶対に貴族籍から抜けると言ったとしても、私はできる範囲であいつを支えると約束します。
なので、あいつとのことを、前向きに考えてやってください」
テルアは最後にそう言って、再び深々と頭を下げてから帰っていった。
ミリシャは、キリアンを待たないと言った。
何の約束もしていない。
――つもりだった。
だけど、一番大きな約束事が、まだ切れていなかった。
これも、ご縁というのかしら?
複雑な気持ちではある。
それでも、いくつも織り交ざった感情の中に、まだつながっていてうれしい、という思いもあった。
キリアンがどの道を選ぶのかは、まだ分からない。
それでもミリシャは、ミリシャなりに。
もう一度、キリアンとのことを考えてみよう。
そう思った。




