第三十七話 残されたもの
「ありがとうございます」
ミリシャの答えを受けて、テルアはわずかに表情を緩めた。
聞きたくない、聞く必要はない、と突っぱねられるかもしれないと思っていたのかもしれない。
気の強さを知られているようで、ほんの少し居心地が悪い。
だけど、テルアの和らいだ表情はキリアンに似ていると思った。
そんな彼の表情は、強張ったままより、少しでも穏やかな方がミリシャとしてもうれしい。
「まずキリアンですが、婚約解消の書類と離籍届を父に提出したあと、すぐに家を出ました。
弟がどこへ向かったのか、私たちにはすぐには分かりませんでした。北方辺境伯から急便が届き、それで判明したくらいです。
キリアンが辺境伯にオレアとの婚姻を打診するとは、父も祖父も思っていなかったようです」
テルアの声が、淡々と事実を伝えていく。
「オレアの結婚相手――つまり、どの家門がルテル領の後ろ盾となるかを考えるとき、父と祖父はポートルより格下の家を望んでいました。指示系統を円滑にするためです。
ルテル男爵に求められるのは、決断力ではなく判断力だと、二人は常々言っていました。
自ら方針を決めるのではなく、ポートルの指示を正しく理解し、それに従ってほしい。
辺境で育った者たちは、皆、普段から自分で決断することを求められている。
そういう考えから、北と東、どちらの辺境伯にもオレアのことを相談したことはありません」
辺境伯の子息、あるいは親戚の誰かをオレアの結婚相手とする。
または、辺境伯を通じて誰かを紹介してもらう。
それ自体が、想定外だったらしい。
「これは、ポートルが北と東、二つの辺境領に隣接しているためです。
オレアはポートルの血縁ではありませんが、王家の指示で長年世話をしてきました。
そのオレアを、どちらか一方の辺境と縁づかせれば、そちらとポートルの縁が深まることにもなる。
平時なら些細なこととして気にも留めないようなことが、有事になった途端、領地間の火種になりかねません」
だから、辺境伯の関係者は除外する。
この考えは、王家とも共通していたらしい。
「しかし正直に言うと、手詰まりでもあったんです。
ポートルとの関係が中立で、国の北東部の地理や情勢に詳しく、さらに格下。
そういう家にはすでに打診していましたし、オレアのキリアンへの想いも知られています。
婿候補に選ばれそうな者たちは、皆、急いで婚約者を作りました」
当たり前ですよねと、テルアは呟いた。
国の南部や西部にまで範囲を広げれば、まだ候補者はいるかもしれない。
だけど、そうすると、万が一近いうちに災害や有事が起きた場合、ルテル男爵領の対応はかなり後手に回るのではないか。
それを懸念し、打診できずにいたのだとテルアは語る。
「しかしキリアンは北方辺境伯と交渉し、あちらも受け入れた。
また、オレアはキリアンがいなくなってすぐに塞ぎ込み、案の定、食事もとらなくなりました。
しかし、いつもなら慰めてくれるキリアンは近くにいない。
ずっと食べないようなら病院に預けるしかない。そう考え、数日様子を見ました。
そうしたら――」
テルアはうっすらと笑った。
「食べましたよ。三日目の晩――というか、夜中にこっそり厨房に入って」
ミリシャは、何とも言えない気持ちになった。
「つまり、変にキリアンに慰めさせたりせず、放っておけばよかったんだ。
そうしておけば、キリアンへの想いも、もっと早い段階で諦めがついたかもしれない。
そうすれば、婿候補の誰かとの縁を真剣に考えることもできたかもしれない。
そうなっていれば、北方辺境領の関係者がルテル男爵になる必要もなかった。
祖母の『オレアがかわいそう』という感情を優先し続けた結果が、これです」
テルアの表情から、笑みが消えた。
「父と祖父は、ルテル当主に判断力を求めた。
ですが、そもそもポートル当主に判断力も決断力もなかった。そのことが、はっきりと露呈しました」
テルアの表情に、影が差した。
前当主と現当主の行動の結果を、ここまで低く評さなければならない。
それは、テルアが次期当主として教え込まれてきたことそのものを、これから疑っていかなければならないということでもある。
二人の背中を目標にしていただろうテルアにとっては、身内だからという以上につらいだろう。
言わずに済むのなら、触れずにおきたかったはずだ。
それでも包み隠さずウェザレル家に話すことに、テルアの覚悟を感じた。
「ポートル一門全体から、責任の所在をはっきりさせるよう求められ、父と祖父の今後についてもさまざまな意見が出ました。
しかし恥ずかしながら、この二人をすぐに引退させられるほど、ポートルも人脈がそろっているわけではありません。
祖父は今年いっぱい、父は数年をめどに、引退に向けて調整していきます」
テルアは一度言葉を切った。
「それと、祖母は彼女の実家に戻ることになりました。
祖父と離縁するわけではないようです。祖父の引退後に、改めて住む場所を決めるのかもしれませんが、とりあえずは実家へ。
そしてオレアも、すでに北方辺境伯のタウンハウスへ移る算段がついています。
今もふさぎ込んではいますが、食べてはいるので、それでよしとしています」
そこでテルアは、わずかに息をついた。
「そして、最後にキリアンなのですが――」
そう言って、ミリシャを見た。
「弟が、記入済みの婚約解消の書類と、無記入の離籍届を父に渡して家を出たのは、先ほど申し上げた通りなのですが……」
どこか、その先を言いづらそうなのはなぜだろう。
テルアの口元が、もぞもぞと奇妙な動きをした。
「その、婚約解消の書類を……」
少しの間のあと、テルアの膝に置かれた両手が、ぐっとこぶしになった。
「父が……まだ、提出していないのです」
なんとか押し出すようにして発せられた言葉に、ミリシャは目を見開いた。
……提出していない。
……婚約解消の書類を。
一度、まばたきをした。
ゆっくりと。
それはいったい、どういうことだろう?




