第三十五話 その誰かは、もうキリアンではないーーキリアン視点
キリアンは、父親の顔をじっと見つめる。
父であるポートル侯爵は、二枚の書類に目をやっていた。
「オレアのことは、どうするつもりだ?」
それを、まだ自分に聞くのか。
キリアンはそう思った。
「それは本来、私が考えることではありません」
「しかし――」
「オレアは先日、デビューを終えました。つまり、結婚適齢期になったわけです。
だったら、正式な結婚相手を決めても問題ないはず。
彼女は、時期が来たら私のことは諦めて、きちんと結婚すると約束した。
結婚自体は卒業後でしょうが、会ったことも話したこともない相手とすぐに結婚させるより、婚約期間を設けて交流を深めさせる方がよいのではありませんか?」
「食べなくなったらどうする?」
薄い苦みが、キリアンの口の中にじわりと広がった。
そうやって、いつの間にかオレアの問題は、キリアンが対処すべきものになっていった。
そして、それが当たり前になった。
「病院に預ければいい。もっと早いうちに、そうしておくべきだったんだ。
オレアがかわいそうだと言う前侯爵夫人の言い分に、耳を傾けるのではなく」
「それは、そうかもしれんが……」
「ミリシャは――ウェザレル伯爵令嬢は、デビューの日を台無しにされた。
ウェザレル家はポートルからの謝罪を受け入れてくれましたが、だからといって、彼らがあの日をやり直せるわけじゃない」
『昨日を返して』
ミリシャの悲痛な声が蘇った。
あの時、キリアンは俯くことしかできなかった。
その視界には、ミリシャがスカートを握りしめる手が映っていた。
もう片方の手で、それを爪が食い込むほど強く握っていたことも。
そこへ、ウェザレル伯爵が優しく手を重ねたことも。
無念だったのは、ミリシャだけではない。
ウェザレル伯爵も夫人も、娘がデビューの日を迎えるのを、ずっと楽しみにしていたはずだ。
それを台無しにした。
ポートル家全員で。
「オレアが、私がミリシャに贈ったコサージュと同じものを欲しいと言い、それを前侯爵夫人が買い与え、貴族のほとんどが集まる第一夜会につけていくことも許した。
さらに、国王陛下の前であからさまに落ち込むオレアを諫めもしない。
オレアも非常識だが、それを正さない前侯爵夫人はもっと非常識だ。
そして、それを止めきれないポートル家も」
自分だって、その一員だ。
キリアンは苦々しく思う。
「オレアの相手に、あてはあるのか?」
反論が思い浮かばなかったのか、ポートル侯爵は話題を変えた。
「あてと言えるほどではありませんが、頭に浮かんでいる人はいます」
「それは誰だ?」
「言いません。邪魔をされても困るので」
ポートル侯爵の眉間にしわが寄った。
「そこまで信用がないか」
「ありません」
キリアンは言い切った。
父に邪魔をするつもりがなくても、祖母の耳に入れば何をしてくるか分からない。
世代交代が進んでいるとはいえ、ポートル前侯爵夫人はいまだ社交界の重鎮として扱われている。
キリアンが動けば、いずれは知られる。
だが、その日はできるだけ遅い方がいい。
ポートル侯爵は机に肘をつき、組み合わせた両手の親指で目頭を押さえた。
「お前に我慢を強いてきたという自覚はある。しかし――」
「まだ、自分以外の何かを慮れと言うのなら、お断りします」
図星だったのだろう。
ポートル侯爵は、言葉を続けられなかった。
「今日は、許可をもらいに来たのではありません。
今までオレアのことを先延ばしにしてきた結果が、その二枚の書類だということを示しに来ただけです。
私はすぐに家を出ますので、これで失礼します」
一礼し、キリアンは執務室を後にした。
父は引き止めなかった。
何を理由に引き止めればいいのか、分からなかったのかもしれない。
自室へ向かって廊下を歩いていると、向こうからオレアが小走りで近づいてきた。
「キリアンお兄様!」
キリアンは一瞬そちらに目をやったが、足は止めなかった。
そのまま脇を通り過ぎようとする。
「お兄様ったら!」
オレアがキリアンの腕に触れた。
その瞬間、キリアンはとっさに手を払いのけた。
考えるより先に、体が動いていた。
オレアは、払いのけられた手を抱え込むように胸元へ引き寄せた。
その目は、すでに涙ぐんでいる。
申し訳なさよりも、
――またか。
としか思えなかった。
「ひどいわ、お兄様」
涙で光る目で、掬い上げるようにこちらを見る。
オレアへの嫌悪感が募った。
いつも、この涙のせいでがんじがらめにされてきた。
その思いが、キリアンの表情を険しくする。
しかしオレアは、そんなキリアンの表情など気にも留めない。
「私があげたクラバットピン、つけてくださっていないじゃない。約束だったのに」
思わず失笑がこぼれた。
呆れと嫌悪を存分に滲ませたキリアンの表情を見て、オレアの目が大きく見開かれる。
「約束というのなら、私は君を妹としてしか扱わないという約束もあるはずだ」
見開かれた目の縁で盛り上がっていた涙が、ぽろぽろと器用にこぼれ落ちた。
「どこの妹が、兄が婚約者に贈ったコサージュと同じものを、第一夜会につけて現れる。
どこの妹が、兄の婚約者に『婚約を解消してくれ』などと言う。
しかも、ミリシャは大事な友達だと、自分で言っていたくせに」
キリアンはオレアをまっすぐ見据えた。
「約束を守らなかったのは、君の方が先だ」
それだけ言うと、オレアを置いて廊下を進んだ。
オレアは、ずっと同じ場所に佇み、ぽろぽろと泣き続けるのだろう。
誰かが気づいて、声をかけるまで。
その誰かは、もうキリアンではない。




