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あの日の続きを  作者: くぎのりクロボ


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第三十四話 今度は自分で決めるーーキリアン視点

約二か月前。


この家で、婚約した。


あの時、ミリシャはここの応接室で署名した。


少し顔を赤らめ、緊張した面持ちで、丁寧に自分の名前を書いていた。


彼女の署名が終わり、必要なものがすべてそろった瞬間。


部屋の空気が澄み渡り、陽の光が一段階も二段階も明るくなったような気がした。


オレアが当たり前の顔をして隣に座っていることさえ気にならないくらい、気持ちが高揚した。


それなのに、たった二か月で。


自分は今、婚約解消の書類を手にしている。


キリアンの名前だけが、まだ書かれていない書類を。


ミリシャの名前は、すでに書かれている。


彼女は、どんな気持ちでこの書類に名前を書いたのだろう。


好きだけれど、信頼できないと言われた。


信頼どころか、関係の土台を作る時間すらなかった。


ミリシャは、キリアンを待たない。


キリアンが立ち止まってしまったら、ミリシャはどんどん先へ行くだろう。


すでにできてしまった距離は、自分で縮めるしかない。


今できることは、まず現実を受け入れること。


空欄の白さに、未練を感じた。


書きたくないとごねる頭の中の自分を宥め、キリアンは名前を書いた。


もう一枚、引き出しに入れておいた別の書類を取り出す。


そちらには、まだ何も記入していない。


二枚の書類を持って、父の執務室を訪れた。


事前に面会の予約は入れておいた。


数日待たされたが、こちらもいろいろと準備することがあったので、それでよしとした。


執務室に入ると、キリアンは父――ポートル侯爵の机に二枚の書類を置いた。


父は、それぞれに目をやった。


そのうちの一枚を手に取る。


「こっちは離籍届か」


「はい」


「まだ署名していないようだが?」


「それを出すのは、今ではありません。出す時期は自分で決めます」


キリアンは淡々と答えた。


「許さんと言ったら?」


「時期が来たら、この家を出ます。その時に貴族籍に名前があるかどうかは、私には関係ありません。

どちらかといえば、籍は残っている方が助かります。

しかし、私が籍を置いたまま何らかの問題を起こせば、ポートルが責任を取らなければならなくなる。

離籍届は私のためではなく、ポートルへの最後の恩義だと思ったまでです」


「ならば、今すぐ出て行けと言ったら?」


「それでもかまいません」


ミリシャには、オレアの行く末を見届けると言ったし、そのつもりだった。


だが、当主がすぐに出て行けと言うのなら、素直に従うつもりだ。


ずっと貴族として生きていくつもりだった自分が、いきなり平民となれば、思ってもみない苦労があるのだろう。


それでも、ここで怯んではいられない。


それに、あの日。


婚約解消の書類を手渡された日。


ミリシャとの話を終え、帰ろうとした時。


玄関先で、ウェザレル伯爵と会った。


今回の婚約騒動は、ウェザレル家にとっても許しがたいものだっただろう。


自分だけの謝罪で済むとは思わない。


それでも、顔を合わせることができたのなら、きちんと謝っておきたかった。


「ウェザレル伯爵。この度の婚約に関しては、最初から最後まで不愉快な思いをさせてしまいました。すべて私の短慮が招いたことです。本当に申し訳ありませんでした」


キリアンは深く頭を下げた。


「ミリシャとは話ができたかい?」


「はい」


自分の気持ちを余すところなく話せたかと聞かれれば、自信はない。


けれど、ミリシャの気持ちは十分に伝えてもらった。


彼女の気持ちをしっかり聞けただけでも、ありがたかった。


「ミリシャは、子供の頃から気が強くてね」


ウェザレル伯爵は、そう話し始めた。


「物言いもはっきりしていて。

それが将来、あの子自身を傷つけてしまうのではないかと心配していた。

だけど、デビューの日のことを、あの子があれだけはっきりと『傷ついた』と示さなければ、君はあの子の傷の深さまで分からないままだったかもしれない」


キリアンは黙って耳を傾ける。


「婚約解消の提案にも、自分の感情ではなく、家同士の利害や体裁を気にして同意せずにいれば、あの子はずっと『不愉快だ』という感情を後回しにしなければならなかっただろう。

その先に必ず幸せが待っていて、我慢したことが報われるのなら、それも勉強だったと思える。

だが、人生なんてそんなにうまくはできていない。

そう考えると、あの気の強さは、あの子自身をちゃんと守っているのかもしれない。そう思うようになった。

教え諭すのが親の役目だと思っていたけれど、今更ながら、子供から学ぶことは多いと実感したよ」


キリアンは、ウェザレル伯爵の親心に感じ入った。


けれど同時に、“気が強い”という表現が気になった。


気が強いと聞くと、負けん気の強さを思う。


だが、ミリシャはそうではない。


彼女の強さは――。


「ミリシャは……お嬢さんは、気が強いというより、心が強いのだと思います」


ウェザレル伯爵は、少し意外そうな顔をした。


キリアンは続ける。


「自分の素直な気持ちを相手に伝えるのは、かなり勇気がいります。少なくとも、私にとっては。

だけど彼女は、それを恐れない。

私は、彼女を尊敬します」


そう。


ミリシャは、心が強いのだ。


言葉にすると、改めてそう思う。


「君がそう受け取ってくれたのなら、あの子も報われるかな。

本人はかなり気にしているから」


ウェザレル伯爵の声には、ミリシャの心を思いやる親心があふれていた。


「彼女が強さを見せてくれたから、私も見習いたいと、見習わなければならないと思いました。

ミリシャ嬢にとっては、不愉快なことの多い婚約だったでしょう。

ですが今日、彼女としっかり話ができたことは、私にとって大きな意味がありました。

彼女から言われたことは、何一つ忘れません。

そして、またいつか向き合ってもらえるよう、自分のこれからを考えていきます」


自分の決意を、改めて言葉にする。


「いい顔になったな」


ウェザレル伯爵の顔に笑みが浮かんだ。


「ありがとうございます」


キリアンも素直に礼を述べる。


これで話は終わりかと思った。


けれど伯爵は、ついでのような口調で言った。


「ああ、言い忘れるところだった。もし何か困って、誰に頼ればいいか分からなくなったら、私のことも思い出しなさい。ポートルには及ばないが、できることもあるだろうから」


まさか、ウェザレル伯爵からそんなことを言ってもらえるとは思わず、キリアンは目をみはった。


「ありがとうございます」


張りつめていた気持ちが、ふいに緩んだのが分かった。


そのたゆみは涙腺を刺激したが、礼をするために頭を下げたので、気づかれなかったと思う。


「娘の、多分、初恋の相手だからね、君は。恩を売っておくのも悪くない」


キリアンの涙には触れず、目尻にしわを寄せてそう言うと、ウェザレル伯爵はその場を後にした。


もちろん、まずは自分なりの人脈を頼るつもりだ。


それでも、どうしてもの時にはウェザレル伯爵がいる。


そう思えることは、キリアンの力になった。


だから、ここでは怯まない。


やると決めたことをやる。


それだけだ。

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