第三十三話 諦めは何も生まないーーキリアン視点
キリアンは、ウェザレル邸を後にした。
婚約解消は覆せなかった。
だけど今は、新たな決意と、それに伴う充足感が胸を占めている。
オレアがキリアンのことを好きだと言い出した時、その想いは家の都合だけでなく、キリアン自身の感情としても受け入れられなかった。
しかし、彼女の感情を否定してはいけないと言われた。
オレアが食べなくなるから。
兄妹として接する。
その約束も、いつしか曖昧なものになっていった。
ただひたすら、オレアに正式な結婚相手が見つかるまで、と辛抱した。
辛抱は、やがて諦めを生んだ。
諦めながら生きている自分は、被害者だと思っていた。
いや。
そう思っていることにすら、気づいていなかった。
ミリシャがオレアの友人となり、ポートル家を訪れるようになった。
そして彼女に、どうしようもなく惹かれた。
どういう奇跡か、婚約までできた。
幸せにしたいと思っていた。
それなのに。
長年染みついた諦めと、オレアの機嫌を取らなければならないという惰性が、ミリシャの夢を台無しにした。
『昨日を返して』
あの言葉が、今も頭から離れない。
ミリシャに――いや、ウェザレル家にとって、自分は加害者になった。
どんな時でも、ミリシャを優先する。
そんな当たり前のことすら、できなかった。
謝罪の言葉さえ、彼女を傷つけた。
どうすればいいのか分からなくなった。
それでも、ミリシャのことだけは諦めきれなかった。
花を贈るくらいのことしか、思いつかなかった。
せめて彼女の領地近郊に咲く花を、と思った。
花を贈り続けるうちに、自分はまだミリシャに対する想いすら、きちんと伝えていないことに気づいた。
花は受け取ってくれている。
だったら、いつか。
もう一度、話をする機会をもらえるだろうか。
許す気にはなれなくても、自分が彼女をどう想っているのかだけは知っておいてほしい。
そんな期待は、オレアの気まぐれによってつぶされた。
夕食の席で、
「やっぱりミリシャとキリアンの婚約は受け入れられない」
と、オレアが言い出したのだ。
キリアンは、ふざけるなと怒った。
兄のテルアも、
「婚約は家同士の契約でもあるから、簡単に解消はできない」
と諭していた。
案の定、オレアはふさぎ込んだ。
しかし、キリアンは慰めに行かなかった。
それなのに翌日、オレアは普通に部屋から出てきた。
さすがに、自分の感情だけで動かせることではないと理解したのだと思った。
まさか祖母が、
『ミリシャから同意を得られれば、何とかなる』
と助言していたとは、思いもしなかった。
その言葉に従って、オレアはミリシャに婚約を解消してほしいと頼み、彼女はそれを受け入れた。
キリアンがその事実を知ったのは、祖父の名で婚約解消に関する書類をウェザレル家へ送った後だった。
駆けつけた時にはすでに、ウェザレル伯爵もミリシャも署名を終えていた。
応接室で話をして、
『詳しいことは分からないけれど、何か事情があるのは察している』
そう言われて、初めて気づいた。
自分は、オレアとの関係も。
ポートル家の事情も。
自分の口からは、何一つ伝えていなかった。
それなのに、婚約を申し込んだ。
ただ、自分の感情だけを優先して。
ミリシャは、婚約解消を決めた理由を、
『キリアンへの信頼がないから』
と言った。
当たり前だと思った。
婚約前に何度か会話はした。
けれど、当たり障りのない話しかしていない。
婚約してからは、ほとんど話す機会のないままになってしまった。
それでもミリシャは、何度もキリアンのことをまだ好きだと言ってくれた。
その気持ちは消えていない、と。
それならば。
今、自分が抱えている問題――オレアと祖母のことをきちんと解決できれば、何とかなるのではないか。
そう期待した。
だけど彼女は、それまで待つという約束はしないと言った。
やはり、
『信頼がない』
という理由で。
強いと思った。
好きという気持ちも。
信頼がないという思いも。
彼女は耳触りのいい言葉に置き換えたりせず、はっきりと口にした。
約束が期待を生み、それが果たされなければ失望となり、不信が増すかもしれない、と。
さらに、キリアンにとっても、その約束が足かせになりかねないとまで言った。
感情に任せて、
『そんなことにはならない』
と言った。
だけど、オレアからのクラバットピンのことを持ち出されたら、何も言えなくなった。
たしかにあの時は、深く考えもせず、
『そのくらいなら』
と思った。
だけど、オレアに対してだんだんと忌避に近い感情を抱くようになるにつれ、その約束を守ることが苦痛になった。
ミリシャへの想いが、オレアに対してのようにマイナスへ振れるとは思えない。
それでも、約束という鎖に縛られる感覚を、キリアンは知っている。
今だけの感情で判断しようとする、自分の見通しの甘さ。
彼女は、それをはっきりと指摘した。
彼女への恋慕に、尊敬が加わった。
なぜ、自分がこれほどミリシャに惹かれるのか。
ようやく分かった気がした。
本人は、その強さを未熟さの表れだと恥じているようだけれど、キリアンからすれば美点でしかない。
自分の中にある感情を、誤解を恐れず相手に伝えることのできる強さ。
キリアンは長年、“嫌だ”という感情を受け入れてもらえず、諦めてきた。
だけど。
諦めは何も生み出さない。
それどころか、大事な人を傷つけた。
今度は、ミリシャを見習おう。
嫌なものは嫌だと言える強さを持とう。
そして、仕方がないと受け入れてきたオレアとの関係も、それを良しとしてきた祖母との関係も、正当な手段で断ち切ろう。
そうやって、長い年月の中で歪んでしまったものを、きちんと元に戻す。
そして今度こそ。
胸を張って、ミリシャに会いに行こう。




