第三十二話 待っていてくれとは言わない
「ごめんなさい。私は、あなたを待ちません」
ミリシャは、自分で口にした言葉に泣きそうになった。
下がりそうになる視線を、必死でキリアンへ向ける。
彼の打ちひしがれたような表情を見ていると、「うそです。待ちます」と言いたくなる。
だけど、だめなのだ。
性格的に。
「キリアン様を慕う気持ちは本気です。
そして、キリアン様にも事情があったことは理解しました。
だけど、デビューを台無しにされたと思う気持ちは、まだ消えていません。
仕方のないことだったと割り切れるほど、私は強くもありません」
キリアンは何も言わず、ミリシャの言葉を聞いている。
「そういう気持ちが残っているのに、待つと約束してしまったら、些細なことで不安になる気がします。
不安になれば、疑う気持ちが出てくるかもしれない。
ずっと変わらぬ気持ちでいられる自信が、私にはありません」
そこでいったん口をつぐんだ。
けれど、すぐに続きを口にする。
「それに、キリアン様にとっても、この約束が足かせになるかもしれません」
キリアンの目が、大きく見開かれた。
そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「オレアからのクラバットピン。
あなたは、ずっとつけるとオレアに約束した。その時は、軽い気持ちで。
だけど、その約束がどんどん重たいものに変わっていった。
つけたくはないけれど、つけなくてはいけないものになった。
私との約束だって、そうならないとは限らないでしょう?」
「なりません!」
たまらず、といった様子でキリアンが声を荒らげた。
すぐに否定してくれたことが、ミリシャは嬉しかった。
だけど。
「なってほしくはありません。だけど、絶対にならないと思えるほどの信頼が、今の私にはありません」
ひどいことを言っていると思う。
腿の上に置いた左手を、右手でぎゅっと握った。
好きな人を傷つけていると思うと、自分も傷つく。
だけど、好きという気持ちだけで乗り越えられるとは、どうしても思えない。
この話し合いの最初に言ったこと。
信頼できない。
結局、そこへ行きつく。
そして信頼だけは、一朝一夕でどうにかなるものではないのだろう。
「だから、私は待ちません。だけど――」
一度、言葉を切る。
右手に、さらに力を込めた。
左手の指の付け根が、ぎゅっと寄せられる。
その感覚が、言い出したことは最後まで言えと、自分を励ましてくれているような気がした。
「私たちの間に何かしらの結びつきがあるのなら、あなたが抱えている問題を解決した時、また新たな状態で向き合えるのではないかと思っています。
そうなるといいな、とも思っています。
だから、今は何の約束もいたしません」
思っていることは、伝えられたと思う。
だけど、ミリシャは不安だった。
キリアンはいつの間にか俯いてしまっていて、何を考えているのか分からない。
何を訳の分からないことを言っているんだと、思われていないだろうか。
そんなに自分のことが信用できないのかと、怒ってはいないだろうか。
こんな屁理屈を言う人間だとは思わなかったと、呆れてはいないだろうか。
そう思われても仕方がない。
だけど、まだ信頼という保護膜ができあがっていないうちに、お互いを約束という鎖でつなぎ合わせるのは、とても怖い。
ミリシャは気が強い。
だけど、臆病でもある。
今のキリアンの沈黙だって、怖い。
それでも、この怖さには耐えなければならない。
この怖さの先にあるものを、見極めなければならないのだから。
やがてキリアンが、意を決したように顔を上げた。
そこに、先ほどまでの悲壮さはなかった。
むしろ、どこか晴れ晴れとしている。
その表情を見て、ミリシャはかえって不安になった。
こんな訳の分からない人間には付き合いきれないと、見切りをつけられたのではないか。
何かもう少し、言葉を付け足した方がいいだろうか。
でも、なんて?
ミリシャが内心おろおろしていると、
「私は、あなたのそういう強さに憧れます」
キリアンは晴れやかな笑顔でそう言った。
ミリシャは目を丸くした。
同時に思う。
強くなんてないのに。
今だって、こんなにおろおろしている。
いったい、どこが強いというのだろう。
「もっと耳当たりのいい言葉で、本心をごまかすこともできたはずです。
『約束します』ととりあえず言っておいて、そのうちうやむやにしてしまってもいい。
多分、そうする人の方が多いでしょう。特に貴族は。
だけど、あなたはこちらが誤解する隙間もないほど、はっきりとした言葉で、自分の気持ちを打ち明けてくださった。
それは強さだと思います」
そうだろうか。
ミリシャが自分の気持ちをすべて打ち明けてしまうのは、未熟だからだと思っている。
もっと柔らかな言葉に変えて、相手が傷つかないように伝えるべきなのに、思ったことをそのまま口にしてしまう。
強さとは、少し違うような気がする。
そう思うのに、キリアンの優しい瞳に見つめられると、このはっきりと言いすぎてしまう性格も、悪くないのかもしれないと思えてくる。
単純だな、とミリシャは心の中で苦笑した。
やっぱり、自分はまだまだ大人になりきれていない。
そんなふうに心の中で反省しているミリシャにかまわず、キリアンは続けた。
「あなたの言うとおりだと思います。
正直、オレアのことも、祖母のことも、自分のことも、こうしたいと思うことはあっても、本当に思ったとおりになるかは分かりません。
もちろん、どんなことをしてでもやり遂げるつもりです。
ですが、どのくらいの時間がかかるのかも分からない。
そんな曖昧な状態なのに、待っていてくれという方が不誠実です」
キリアンは一度、息をついた。
「また私は、甘い見通しで動こうとしていました。
だから、もう待っていてくれとは言いません。
だけど、すべてのことが解決した時、胸を張ってあなたに会いに行きます。
その時、きちんと向き合ってもらえる男になっているよう、これからたくさん努力します。
諦めるのではなく、こうなりたい、こうしたいと思う気持ちを持てたことに、感謝しています」
キリアンは、ミリシャの強さに憧れると言ってくれた。
だけどミリシャは、彼の懐の深さに憧れる。
ミリシャの言い分など、ただのわがままだと否定されてもおかしくない。
それなのに彼は、受け入れるだけでなく、前向きに捉えてくれた。
この人を好きになってよかった。
ミリシャは、改めてそう思った。




