第三十話 好ましく感じました
「ポートルを出る?」
あまりの話の飛躍に、ミリシャは戸惑いを隠せなかった。
自分の目がくるくると動いているのが分かる。
どこに視線を定めればいいのか分からなくなったような、妙な落ち着かなさを感じた。
その戸惑いが表情にも出ていたのだろう。
キリアンは少し悲しそうな、諦めたような笑みを浮かべた。
「すぐにできることではありません。
少なくとも、オレアの婚約者のことがきちんと片付くまでは、見届けたいので」
その言葉に、ミリシャは思わず笑った。
キリアンには、その理由が分からなかったらしい。
「えっ……と?」
今度はキリアンの顔に戸惑いが浮かぶ。
ミリシャは少し俯き、曲げた人差し指を上唇に当てた。
笑みをごまかそうとしたけれど、どうやらごまかしきれなかったようだ。
仕方なく、理由を話す。
「責任感が強いのだなぁと思って。それを好ましく感じました」
“好ましく感じた”という言葉に、キリアンはわずかに頬を赤らめた。
それでも、まだよく分からないらしい。
「普通だったら――少なくとも私だったら、オレアのことは放っておいて、自分のことだけを考えます。
だけど、あなたはオレアの行く末も気になるのだなと思いました」
それが好ましいのだと、続けようとした。
けれど、その前にキリアンの顔がさっと青ざめた。
「ほかの女性を気にかけることは、あなたに対して失礼でしたか?」
不安そうに問うキリアンに、ミリシャは少しだけ呆れた。
同時に、切なくなった。
さっき自分は、そういうところが好ましいと言ったのに。
だけど、“ほかの女性を気にかけることは失礼なのではないか”という考えは、オレアによって植え付けられたものなのだろう。
そういう考えで、ずっとがんじがらめにされてきた。
キリアンの心の傷の深さを、垣間見たような気がした。
だけど今、ようやくその鎖を、自分の意志で断ち切ろうとしている。
それは、ミリシャのためでもある。
そのことを嬉しいと思う自分がいた。
けれど実際にポートル家を離れるとなれば、簡単なことではないだろう。
そこでふと、あるものを思い出した。
ミリシャはメイドに、それを持ってきてほしいと頼んだ。
メイドに声をかけたあと、キリアンへ視線を戻す。
彼はまだ、不安そうな顔をしていた。
そこでようやく、ミリシャは彼の問いにまだ答えていなかったことを思い出した。
少し背筋を伸ばし、居住まいを正す。
自分の考えが、きちんとキリアンに伝わるように。
「私は、キリアン様がオレアの行く末を気にすることは、大事なことだと思います。
さっきは、責任感が強いのだなと思い、それを好ましく感じました。
だけど――」
一度、言葉を切る。
「それだけではなく、あなたがオレアの行く末を見届けることは、とても必要なことのようにも感じました。
あなたにとってオレアが鎖だったのなら、その鎖がきちんと断ち切られ、もう自分に絡みつかないことを確認したいと思うのは、当たり前のことだと思います。
だから、オレアの行く末を気にすることが、私にとって失礼だということはありません」
どうか、どうか、伝わりますように。
その思いを込めて、ミリシャはキリアンの瞳を見つめた。
キリアンもまた、まっすぐにミリシャを見つめ返す。
今ミリシャが言ったことを、一言も聞き漏らすまいとするかのように。
二人が見つめ合っているところへ、先ほど頼み事をしたメイドが戻ってきた。
その手にあるものを見て、ミリシャは小さく息をつく。
それは――
ミリシャが、キリアンの名前を刺繍したハンカチだった。




