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あの日の続きを  作者: くぎのりクロボ


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第二十六話 信頼できないのです

玄関先に現れたキリアンは、乱れていた。


髪も、服装も。


乗馬服ではないのに、全身が砂埃にまみれている。


かなり急いで駆けつけたのだろう。


息もまだ整っていなかった。


荒い呼吸を繰り返しながら、それでもミリシャに問いかける。


「婚約……解消の書類を、送ったと……聞いて――」


ミリシャは視線を落とした。


やっぱり知らなかったのだ。


そう思ったことを、悟られたくなくて。


「応接室へ参りませんか」


視線を逃がすように執事へ顔を向ける。


執事は静かにうなずき、


「ご用意してまいります」


と言って、その場を離れた。


そのやり取りのおかげで、少し気持ちを切り替えられた。


ミリシャは改めてキリアンを見る。


「しかし……」


彼は、自分の姿を気にしているらしかった。


見たところ、汚れは砂埃だけだ。


メイドに払ってもらえば済む程度だった。


そう伝えると、キリアンも素直にうなずいた。


立ち話で済ませる話ではない。


彼もそう思ったのだろう。


きっと、婚約解消の書類を送ったと聞き、そのまま馬に飛び乗って駆けつけたのだ。


だから髪も服も乱れている。


そんなことが、こんな時なのに嬉しかった。


『会ってください』


そう手紙を書こうとした。


だけど、書けなかった。


もう会えないまま、この関係は終わるのだと思っていた。


たぶん、これが最後になる。


それでも、会えてよかった。


会わずに終わるより、ずっといい。


キリアンを見ると、メイドが砂埃を払っているところだった。


そうしているうちに荒かった呼吸も落ち着き、少しずついつもの彼に戻っていく。


けれど、落ち着きを取り戻すほどに、その表情には影が差した。


これから何を聞かされるのか。


何を話さなければならないのか。


そんなことを考えているのかもしれない。


ほどなくして執事が戻り、そのまま応接室へ案内された。


席に着くと、メイドが紅茶と焼き菓子を運んでくる。


馥郁とした紅茶の香り。


焼き菓子の甘く香ばしい匂い。


それだけで少し気持ちが和らぐ。


けれど今は、口をつける気にはなれなかった。


執事は、この部屋を用意すると同時に、先ほどミリシャが書き終えた婚約解消の書類も運ばせていたらしい。


銀のトレイの上に、その書類が置かれる。


ミリシャは封筒にも入れず、そのままキリアンへ差し出した。


キリアンの視線は、真っ先に署名欄へ向かった。


自分の欄だけが空いている、その場所へ。


「名前を……お書きになったのですね」


書類から目を離さないまま、独り言のように呟いた。


「はい」


ミリシャは素直に答えた。


そして、そのまま自分の気持ちも伝えようと思った。


もう会えなくなるのなら、胸にしまったまま終わらせたくなかった。


自分が何を思っていたのかだけは、知っておいてほしかった。


勇気はいる。


それでも、このままではキリアンは、ミリシャが怒ったまま婚約を終わらせようとしていると思ってしまう。


それだけは違うと伝えたかった。


「キリアン様。


私は、あなたをお慕いしておりました。


第一夜会の件では腹を立てました。


それでも、好きという気持ちは消えませんでした」


キリアンが顔を上げた。


驚いたような表情だった。


「だったら――」


何か言いかける。


けれどミリシャは、その続きを待たずに話を続けた。


「ですが、信頼できないのです。


それは……たぶん、これからも」


――オレアがいる限り。


その言葉だけは飲み込んだ。


「好きという気持ちがあっても、信頼がなければ、いつか関係は冷え込む。


私は、そう思います。


それなら、関係を解消しやすいうちに縁を切った方がいい。


そう考えました」


ミリシャを見つめるキリアンの表情が、ゆっくりと歪んでいく。


痛みに耐えているような。


それとも、涙を堪えているような。


「あなたの信頼を裏切った自覚はあります。しかし――」


「あなたを責めたいのではありません」


ミリシャは静かに遮った。


「詳しいことは分かりません。


ですが、何か事情があるのだろうということは察しています。


あなたが私に寄り添おうとしてくださったことも、分かっています。


ですが、私に寄り添おうとすればするほど、あなたは意に添わないことまで求められるのではありませんか」


その問いかけに、キリアンは再び俯いた。


それが答えなのだと思った。


ミリシャに誠実であろうとすれば、オレアが揺れる。


ミリシャを気遣えば、それ以上にオレアを気遣わなければならなくなる。


そんなキリアンを、もう見たくなかった。


キリアンのためにも。


そして、自分のためにも。


「オレアは、婿を取ります。


ポートルではない人間を。


それは絶対です」


小さな声だった。


それが最後の希望だとでもいうように。


切実さが滲む声だった。


「ですが、あなたのおばあさまは、オレアの恋を応援していらっしゃるように思えます」


「あれは恋なんかじゃない!」


思わずというように、キリアンが声を荒らげた。


その表情は、大きく歪んでいた。


先ほどまでの、泣き出しそうな顔ではない。


怒りとも、憎しみともつかない感情が噴き出している。


悲しみではなく、怒りで赤く染まった目。


ミリシャは、その赤い瞳を見つめることしかできなかった。

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