第二十五話 幸せだった日
父の「お前は本当にそれでいいのか?」という問いに、
「はい」
と答えた。
父はしばらくミリシャの顔を見つめていたが、
「分かった。お前がそれでいいなら」
と言ってくれた。
「ご迷惑をおかけします」
ミリシャは頭を下げた。
向こうからの申し出であり、理由もミリシャの社交性を見込んでというものだった。
だから政略ではない。
とはいえ、一度結んだ婚約をこんな短期間で解消すれば、父の立場やウェザレル家に何らかの影響が及ばないか、不安だった。
心配したところで、ミリシャにできることはない。
そんな申し訳なさを込めた謝罪だったが、父はその気持ちを理解してくれたらしい。
「気にしなくていい。
領地は国の北と南で離れているし、派閥も違う。政治的なしがらみは薄い」
父は穏やかに続けた。
「それに、ポートルは重要領地に認定されている。
だからこそ、利己的には動けない。
そういう家の動向は、思っている以上に注視されているんだ。
あちらから申し込んできた婚約を、こちらに非がないまま解消した。
こういう話は、黙っていてもどこからか伝わる。
ポートル家に近い者たちなら、その理由がオレア嬢にあることまで知っていても不思議ではない。
その上で、こちらに非があるよう仕向けようとしてもうまくはいかない。
万が一、何か仕掛けてきても対処する術はある。
だから心配しなくていい」
これだけすらすらと言葉が出てくるということは、父もこの婚約がうまくいかない可能性を、何度か考えたことがあったのかもしれない。
大人の目から見ても、やはり不自然な婚約だったのだろう。
ミリシャは改めてそう思った。
◇◇◇
数日は、何事もなく過ぎた。
学園では、もうオレアとは近しくしていない。
入学以来ずっと仲良くしていた二人が急に距離を置き始めたのだから、周囲に不思議がられるかと思った。
けれど、案外そんなことはなく、クラスメイトたちは今まで通り接してくれた。
オレアは一人でいることが多いようだったが、ミリシャは見て見ぬふりをした。
キリアンからの花束は、変わらず毎日届いていた。
会いたいと言えば、会いに来てくれるだろうか。
二人きりで話をしたのは、第一夜会へ向かう馬車の中くらい。
婚約者らしいことなど、ほとんどしていない。
ほんの少し、一人前のレディとして扱ってもらっただけ。
キリアンにしてみれば、それは礼儀として当然の振る舞いだったのだろう。
それなのに。
たったそれだけで、ミリシャは淡い恋心を抱いた。
婚約を申し込まれて浮き立ち、コサージュを贈られて幸せをかみしめた。
だけど、その幸せはオレアによって壊された。
腹を立て、キリアンにきつい言葉をぶつけた。
それ以来、花束は届き続けているけれど、二人は一度も話していない。
何の進展もないまま、もうすぐ婚約も解消される。
心を残すというほど、二人の心は触れ合ってはいない。
それでも、ミリシャはこの恋の終わりが悲しかった。
悲しい。
けれど、仕方のないことだとも思った。
それでも最後に、一度くらいは話がしたかった。
『会ってください』
そう書いた手紙を送ろうか。
そう思ってはためらい、ためらっては思い直す。
そんなことを繰り返しているうちに、婚約解消の書類が届いた。
ポートル家の署名欄には、前侯爵の名前だけが記されていた。
――あぁ、また。
ミリシャは思った。
また、キリアンは置き去りにされている。
おそらく、こちらが署名して返送したあとで、初めてキリアンに知らされるのだろう。
『ウェザレル家も了承した』
そう告げられて。
推測でしかない。
けれど、間違ってはいない気がした。
そのことが悲しかった。
この恋が終わることよりも。
それでも、書かないわけにはいかない。
誰も幸せになれない関係を続けても、いつか必ず破綻する。
それなら、早い方がいい。
そう思いながら、ミリシャは自分の名前を書いた。
二か月前。
ポートル家の応接室で、自分の名前を書いた日のことを思い出す。
心の震えが文字に表れないよう、ことさら丁寧に書いた。
あまり上手には書けなかった。
だけど、自分の名前の上にはキリアンの名前があった。
そんなことすら気恥ずかしくて。
嬉しくて。
幸せだった。
短かったけれど。
幸せだと思っていた日は、たしかにあった。
そのことも、忘れずにいよう。
今回は、心は震えなかった。
震えなかったけれど、寂しかった。
あの時、心を満たしていたものだけが、静かになくなっていた。
寂しさは、文字には表れない。
自分の名前は、いつもと変わらない字で書けた。
書き終えてペンを置き、そっと息をついた、その時。
キリアンの来訪が告げられた。




