第十九話 胸に刻む
「だったら、私の昨日を返してよ!」
ミリシャの言葉に、ただでさえ悪かったキリアンの顔色がさらに青ざめた。
その変化すら腹立たしい。
スカートを握りしめていた右手を、今度は左手で強く握る。
右手の甲へ爪が食い込むほどに。
唇もきつく噛みしめた。
そうしていなければ、もっとひどい言葉をぶつけてしまいそうだった。
それはいけない。
そう教え込まれてきた貴族としての矜持を、痛みで必死につなぎ止める。
「ミリシャ」
父――ウェザレル伯爵の手が、ミリシャの手へそっと重ねられた。
その温もりと、少しだけ乾いた手の感触に、石のように固まっていた身体からほんの少し力が抜けた。
「謝罪は、私が受け取ろう」
娘の手を包み込んだまま、ウェザレル伯爵は静かに言った。
「しかし、娘だけでなく、私たちも非常に残念に思っている。
彼女のデビュタントダンスを見られなかったことを。
娘にとって昨日は、幼い頃から夢に描いてきた一日だった。
そのことだけは、どうか君の胸へ深く刻んでおいてほしい」
穏やかな口調だった。
だからこそ、その一言一言が胸へ染み込む。
もうこれ以上、娘を傷つけたくない。
そんな父親の願いが込められているようだった。
キリアンは深く俯いていた。
膝の上で握りしめた手は、小さく震えている。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
その声だけで、彼の中にも消えないものが残ってしまったのだと分かる。
父の手の温もりで少しずつ冷静さを取り戻したミリシャは、そんなキリアンを見つめた。
けれど。
その苦しみに寄り添う気持ちには、まだなれなかった。
「謝罪は、もうけっこうです」
そう言うのが精いっぱいだった。
これ以上ここにいても、お互いのためにはならない。
そう判断したのだろう。
ウェザレル伯爵はキリアンへ退席を勧めた。
キリアンも、もう謝罪以外の言葉は持っていない。
静かに立ち上がり、ウェザレル家を後にした。
応接室には、ミリシャと父だけが残る。
暖炉から、ときおり熾火のはぜる音が聞こえた。
薪が小さく動く音もする。
火にくべられた薪は、燃えながら形を変えていく。
ミリシャの感情も同じだった。
少しの刺激で、すぐ炎が燃え上がる。
燃料は怒りかもしれない。
やるせなさかもしれない。
燃え尽きた時、その感情は消えてしまうのだろうか。
それとも。
形を変えて残るのだろうか。
今は、まだ分からない。
「お父様。さっきはごめんなさい」
言うつもりはなかった言葉を口にしてしまった。
ミリシャは父へ頭を下げる。
キリアンを責める気持ちがあったとしても。
それを包み隠すのが貴族だ。
幼い頃から何度も教えられてきた。
それなのに、できなかった。
そんな自分の未熟さが、悔しかった。
「ミリシャ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
いつの間にか、また俯いていたらしい。
父の表情は穏やかだった。
叱る顔ではない。
だからこそ、自分がまだ子どもなのだと思い知らされる。
また下唇を噛んだ。
「人には、どうしたって許せないことがある。
そういう時に感情的になることもある。
どれだけ大人になっても、感情をうまく抑えられなくなることもある。
今度のことは、お前にとってそういう出来事だった。
気にするなとは言わん。
だが、気にしすぎなくていい」
気にはするだろう。
これからも。
昨日が戻らないのと同じように。
さっき口にした言葉も、もう戻らない。
キリアンも、あの言葉を胸に残し続けるのだろう。
互いに消えないわだかまりを抱えたまま。
これから、どんな関係を築いていけばいいのか。
ミリシャには、まだ何も分からなかった。




