第十六話 社交性
控室で待っていると、ワルツの調べが聞こえてきた。
ダンスが始まったのだろう。
それなのに、ミリシャは控室にいる。
控室は広間ほど暖房が効いていない。
侍女がショールを掛けてくれたものの、寒さは少しずつ身体の奥まで染み込んできた。
帰りたい。
そう思った。
今日は、幼い頃から夢にまで見た日だった。
白いドレスをまとい、ティアラを戴き、婚約者と最初のダンスを踊る。
白いドレスは着た。
ティアラもつけている。
婚約者から贈られたコサージュも胸元にある。
だけど。
ダンスだけは踊れなかった。
一生に一度しかない、デビューの日のダンスを。
視線を落とす。
目の端に映るのは、紺。
白の中に咲く紺。
もらった時は。
胸元に飾ったばかりの時は。
とてもきれいな色だと思った。
それなのに今は、色あせて見える。
何の価値もないもののように思えた。
外してしまおうか。
そう思った時だった。
母が様子を見に来た。
ダンスの輪の中に娘の姿がないことに気づいてくれたのだろう。
「何があったの?」
静かに気遣う声。
その一言で、必死にこらえていた涙があふれた。
泣いてはいけない。
そう思うのに。
涙が、ぽたりと床へ落ちる。
「……帰りたい」
かすれた声で、それだけを言った。
詳しい事情は分からなくても、娘が涙を流すほどのことがあった。
母には、それだけで十分だったのだろう。
「待っていて。馬車を手配してくるわ」
何も聞かず、その場を離れてくれた母に感謝しながら、ミリシャは帰り支度を始めた。
キリアンが迎えに来てくれるかもしれない。
そんな期待は抱かなかった。
もう十分に打ちひしがれていた。
仮に迎えに来てくれたとしても、広間へ戻る気にはなれなかった。
夜会としてはまだ早い時間だった。
帰る者もほとんどおらず、馬車の手配はすぐについた。
母も一緒に帰ってくれるという。
第一夜会は、社交シーズンの始まりを告げる特別な夜会だ。
普段はあまり社交へ出ない辺境伯家の者たちまで顔を揃える。
だからこそ、貴族にとっては欠かせない催しだった。
それなのに。
自分のために母まで帰ることになってしまった。
申し訳ない。
そう思う気持ちと。
今はただ、誰かの愛情に包まれていたい。
その思いが胸の中でせめぎ合う。
馬車へ乗り込み、母の向かいへ腰を下ろす。
俯いたまま、
「申し訳ありません」
と謝った。
「気にしなくていいわ。寒くはない?」
母は身を寄せるようにして、ミリシャの顔を覗き込んだ。
少しでも娘の様子を知ろうとする気持ちが、その仕草から伝わってくる。
気遣ってくれている。
今までは当たり前だと思っていた。
なのに今は、その優しさが何よりもありがたかった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「家に着くまで、まだ少しかかるわ。目を閉じて休んでいなさい」
「はい」
もしかしたら母は、あの後、誰かから事情を聞いたのかもしれない。
詳しくでなくても。
キリアンが傍にいないことだけで、何かを察したのかもしれない。
いつかは話さなければならない。
けれど、それが今ではないことに救われた。
言われた通り目を閉じる。
涙は、もう乾いていた。
けれど、その乾きが、瞳も心もひりつかせる。
そういえば。
以前も母と馬車に乗ったことがあった。
あの時は父も一緒だった。
あの時も。
馬車の空気は今日によく似ていた。
そして、あの時も。
キリアンとオレアがいた。
あの時は分からなかった。
でも今は分かる。
あの二人に関わると、ミリシャは傷つく。
キリアンは気遣ってくれる。
オレアは自分の望みを通そうとする。
キリアンは止めようとしてくれる。
だけど結局。
オレアの思い通りになる。
そのたびに。
ミリシャの心だけが置き去りになる。
ふと、婚約の決め手が「社交性」だったことを思い出した。
つまり。
こういう場面でも我慢し、何事もなかったように振る舞える。
そう思われたということなのだろうか。
そのための婚約だったのだろうか。
その考えは、いつまでも頭から離れなかった。




