第十五話 祝福されなかった夜
結局、キリアンはオレアに付き添っていた侍女へ命じ、コサージュを外させた。
オレアは涙目になっていたが、有無を言わせなかった。
ミリシャはキリアンに促され、オレアとは離れた場所で入場を待つことになった。
「ごめん。不愉快な思いをさせて」
「いえ」
交わした言葉は、それだけだった。
先ほどのやり取りで、あのコサージュはキリアンが贈ったものではないこと、そして彼にとっても予想外の出来事だったことは分かった。
その事実には、ひとまず安堵した。
けれど。
彼らの祖母――ポートル前侯爵夫人があのコサージュを用意し、今日この場でオレアが身につけることを咎めなかった。
その事実へのわだかまりは消えなかった。
社交シーズン最初の王宮夜会は、デビューと婚約披露を兼ねる場でもある。
婚約者の証であるコサージュが、どれほど大きな意味を持つかを、ミリシャはよく知っていた。
血のつながった兄妹なのだから、何かの折にコサージュを贈ることはあるのかもしれない。
けれど、デビュタントドレスを飾るコサージュは、普通の贈り物とは意味が違う。
それなのに。
もしかして夫人は、ミリシャがキリアンの婚約者になったことを快く思っていなかったのだろうか。
そう思うと、婚約の日の出来事が脳裏によみがえった。
あの日、オレアの同席を許したのが前侯爵夫人だったのかは分からない。
けれど夫人は、オレアを諫めるどころか、その振る舞いを受け入れているように見えた。
今思えば。
あの時も、オレアの言動はミリシャに対してあまりにも不躾だった。
だからといって、こんなことをすれば、不名誉の矛先はキリアンへ向く。
オレアはキリアンの妹。
ミリシャは婚約者。
その二人が、まったく同じコサージュを身につけていた。
その事実だけが独り歩きし、尾ひれをつけながら社交界を駆け巡ることになっただろう。
長年、社交界の中心にいた人の振る舞いとは思えなかった。
ならば、やはり。
これはミリシャへの、何らかの意思表示なのだろうか。
キリアンに聞いてみようか。
そう思ってそっと彼を見る。
しかし、どこかぼんやりとした様子のキリアンには、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
結局、何も言えないまま入場の時刻を迎えた。
気持ちを切り替えるため、肩を開き、肩甲骨を寄せる。
背骨が身体の中心で真っすぐ伸びていることを意識した。
息を吸う。
そして、ゆっくり吐く。
当たり前の動作を、一つ一つ丁寧に重ねる。
少しずつ、心が落ち着いていく。
係の者に名を呼ばれ、列へ加わった。
キリアンが腕を差し出す。
そこへそっと手を添え、流れに従って歩く。
やがて王族席の前で足を止めた。
国王陛下と王妃陛下が、一人ひとりへ祝いの言葉をかけていく。
ミリシャは列の中ほどで、その様子を見守っていた。
全員に婚約者がいるわけではない。
けれど婚約者のいる者には、それに対する寿ぎの言葉も賜ることになっている。
列が進み、ミリシャたちの番になった。
王族へ向け、深いカーテシーを取る。
隣でキリアンも深く一礼している。
「ミリシャ・ウェザレル。今宵はデビューおめでとう。美しい所作である。今後も精進するように」
「ありがたきお言葉に、感謝申し上げます」
何度も練習したおかげで、緊張しながらも言葉はよどまなかった。
次は。
王妃陛下から婚約への祝いの言葉がある。
そう思った。
だが、口を開いたのは国王陛下だった。
しかも、その視線はキリアンへ向けられていた。
「先ほど、オレアが挨拶に来たが、泣いておったぞ」
「……はい」
「また、食べなくなるのではないか?」
「そう、かもしれません」
苦々しさを滲ませ、キリアンが答える。
国王陛下は、小さくため息をついた。
「気を回すように」
「……御意」
それだけだった。
婚約については、一言も触れられなかった。
礼を解き、その場を下がる。
挨拶を終えた者は、全員の挨拶が終わるまでホールの隅で待機となる。
ミリシャもキリアンも、何も話さなかった。
そこへ、一人の係官が近づいてきた。
城の役人らしい。
小声で交わされる会話は、ミリシャには聞こえない。
やがて、
「分かりました」
というキリアンの声だけが届いた。
係官は一礼して去っていく。
ミリシャはキリアンを見た。
その顔には、苦悩が張りついていた。
「すまない。オレアの様子を少し見に行かなければならなくなった。すぐ戻る。控室で待っていてくれないか」
この後、デビュタントたちはダンスを披露する。
その前に控室へ戻れという。
ここで嫌だと言ったところで、一人ここへ残されるだけだろう。
どちらにしても、人目を集める。
それなら、控室へ戻る方がましだった。
「……分かりました」
やっと、それだけを口にした。
やるせなさが、唇を噛む仕草となって現れる。
香油を塗った唇が内側へ巻き込まれ、ほろ苦い味が口の中へ広がった。
その苦みが、涙を誘う。
泣きたくなかった。
左手で右の二の腕を強く握る。
歯を食いしばる。
俯いたままのミリシャの背に、キリアンはそっと手を添えた。
控室まで送り届けると、
「もう一度、すまない」
そう言い残して部屋を出て行く。
ミリシャは、その背中を見なかった。
ただ足元だけを見つめていた。
その後。
キリアンが迎えに来ることは、なかった。




