第十四話 境界線
「コサージュを外しなさい」
キリアンの声は静かだった。
静かだからこそ、有無を言わせない迫力があった。
隣で聞いているミリシャの身まで縮こまるほどに。
けれど、オレアは怯まなかった。
むしろ、目つきが鋭くなる。
「だったら、お兄様もそのピンを外して」
「なぜ」
「さっきも言ったでしょう。それ、似合っていないもの」
眉間にしわを寄せ、憎々しさを隠そうともせず言い返す。
「これはミリシャがくれたものだ。私は気に入っている。それに──」
「ミリシャ。なんでこんなものをお兄様にあげたの? 全然似合っていないじゃない」
最後まで言わせず、オレアはミリシャへ向き直った。
その視線にも、言葉にも棘がある。
オレアは、それに気づいていないのだろうか。
それとも、気づいたうえで言っているのだろうか。
ミリシャは、ちらりとキリアンの胸元を見た。
深い緑色。
キリアンが普段あまり身につけない色。
――ミリシャの色。
本当なら、もっと淡い色だ。
けれど、キリアンにはこの深い色の方が似合うと思った。
それに、自分の瞳そのままの色を贈るのは、まだ少し気恥ずかしかった。
だから、この色を選んだ。
ミリシャなりに、キリアンに一番似合うと思うものを。
それなのに。
どうして、ここまで言われなければならないのだろう。
胸の奥で、本来の気の強さが頭をもたげる。
コサージュから手を離し、首元へ添えた。
余計なことは言わない。
場を乱さない。
挑発には乗らない。
幼い頃から、何度も言い聞かされてきた言葉を思い出す。
左右の鎖骨が交わるくぼみへ、人差し指をそっと押し当てた。
喉に伝わる圧迫感が、理性を呼び戻してくれる。
ゆっくり息を吸う。
怒りは消えない。
それでも。
「これは私の瞳の色よ。本当はもっと淡いけれど、キリアン様には、この色の方が似合うと思ったから選んだの。婚約者として」
静かな声だった。
オレアは目を丸くした。
何に驚いているのか、ミリシャには分からない。
似合わないと認めると思ったのか。
謝ると思ったのか。
それとも、自分が婚約者なのだと、ミリシャがはっきり口にするとは思っていなかったのか。
分からなかった。
オレアのことが。
婚約者でもないのに、コサージュをつけてきたことも。
それが、ミリシャとまったく同じものだったことも。
ミリシャが贈ったクラバットピンを、似合わないと言い切ったことも。
それが、どれほど失礼なことなのか気づいていないことも。
友人だと思っていた。
数年後には、義理とはいえ姉妹になる。
だから、仲良くしていこうと思っていた。
人との関係を円滑に保つことは、貴族として当然の務めだ。
だけど。
ミリシャの中に、一本の線が引かれた。
オレアとの間に。
もう、越えることのない線が。




