前口上 ― 眠りは物語を閉じない
前口上 ― 眠りは物語を閉じない
後の世では、こう語られるでしょう。
ある王国に、美しい姫がおりました。
姫は呪いを受け、紡ぎ針に触れて眠りにつきます。
城も、人々も、時計も、庭の噴水も、すべてが百年の眠りに沈みました。
やがて茨を越えて王子が訪れ、姫に口づけをすると、王国は目を覚ましたのです――と。
ええ。
その語りは、まことに美しい。
眠る姫。
閉ざされた城。
茨の森。
百年を越えて届く愛。
けれど、物語というものは、綺麗に語られるほど、多くのものを落としていくものです。
眠りとは、死ではありません。
死ではないからこそ、苦しいのです。
止まった者は、失われたわけではない。
けれど、進むこともできない。
呼ばれれば応えたいのに、声は喉の奥で凍りつく。
手を伸ばしたいのに、指先は昨日の形のまま眠っている。
笑いかけた相手の名を、次の瞬間に呼ぶはずだったのに、その“次”だけが来ない。
王国の広間には、踊りかけの靴音が残っていました。
厨房には、焼き上がるはずだったパンの香りが閉じ込められていました。
庭には、咲ききれなかった薔薇が蕾のまま時を抱いていました。
書庫には、最後の一行を書かれなかった年代記が開かれていました。
百年とは、ただ長い時間のことではありません。
百年、誰の名も新しく記されなかったということ。
百年、子が生まれず、老いもせず、別れも告げられなかったということ。
百年、悲しみさえ終わることを許されなかったということ。
それは守りだったのでしょうか。
それとも、奪われた未来だったのでしょうか。
呪いを受けた姫は、ただ眠っていたのではありません。
王国そのものが、一冊の本の途中で閉じられていたのです。
ページのあいだには、声が挟まっていました。
祈りが挟まっていました。
名が挟まっていました。
続きを待つ者たちの、息をひそめた気配が挟まっていました。
今夜語るのは、百年眠った姫の話。
いいえ。
百年、続きを書けなかった王国の話です。




