第5節 ― 鏡に映らない姫
黒森に、春はまだ来ていなかった。
雪は薄くなり、枝の先には水の雫が光っていたが、森の奥に入るほど空気は冬へ戻っていった。踏みしめるたび、凍った落葉がかすかに砕ける。鳥の声は遠く、風の音だけが木々のあいだを渡っていた。
その森へ、ひとりの若者が入ってきた。
名を、レオンハルトと言った。
王都の者ならば、その名を知っている。王家の血を引く者ではない。だが、王家の傍らで古い記録を継ぐ家系の者だった。王が即位するとき、王妃が戴冠するとき、王子が継名するとき、また、王家から誰かの名が消されるとき――その正当性を見届け、記し、時には異議を唱える役を持つ一族である。
レオンハルトは若かった。
けれど、その目は、見たものをただ美しいと褒めるための目ではなかった。紙に残された字と、残されなかった余白。塗りつぶされた署名と、焼け跡に残る筆圧。そうしたものを読むための目だった。
彼が黒森へ来たのは、噂を聞いたからである。
黒森の奥に、硝子の棺で眠る姫がいる。
死んでいるのに腐らず、眠っているのに目覚めず、誰にも呼ばれず、誰にも忘れられない。
人々はその噂を、恐ろしげに、あるいは美しいものを語るように口にした。酒場では、森の呪いだと言う者がいた。市場では、七坑の小人たちが宝石の代わりに姫を隠しているのだと囁く者がいた。城に近い貴族たちは、不吉な話だと眉をひそめ、すぐに別の話題へ移った。
だが、レオンハルトはその噂の中に、不自然な空白を聞いた。
誰も、その姫の名を言わなかった。
姫がいる、とは言う。
雪のように白い、とは言う。
血のように赤い唇、黒檀のような髪、と語る者もいた。
けれど、名だけがない。
それは、美しい噂ではなかった。
記録から名を削られた者の、かすかな悲鳴だった。
レオンハルトは、腰に細い剣を帯び、胸元に小さな記録灯を下げていた。灯の中では、淡い金の火が揺れている。紙を燃やすための火ではない。失われた記録の輪郭に触れると、静かに光る火である。
黒森の奥へ進むにつれ、その灯は何度か瞬いた。
雪の上に残る、古い血の跡。
枝に絡まった、黒い髪の一本。
踏み荒らされた下草。
そして、森の獣のものとは違う、小さな靴跡。
どれも、すでに日を経ていた。普通なら、雪解けとともに消えるものだった。だがそれらは、森の記憶に刺さった棘のように、かすかに残っていた。
レオンハルトは膝をつき、雪の下から赤黒くなった木の葉を拾い上げた。
記録灯が、ほのかに明るくなる。
「……ここを通ったのだな」
誰にともなく、彼は言った。
その声に応えるものはなかった。
ただ、遠くから斧の音が聞こえた。
こん、と、乾いた音。
こん、と、次の音。
それは木を伐る音ではない。石を割る音でもない。鏡鉱を削るときの、硬く澄んだ響きだった。
レオンハルトはその音を追った。
やがて、木々の密度がふいに薄れた。森の奥に、小さな家が見えた。
低い屋根。
煙突から立ちのぼる細い煙。
扉の前には、小さな足跡がいくつも重なっている。窓辺には磨かれた鏡鉱の欠片が吊るされ、朝でもないのに、そこだけ淡い光を返していた。
七坑の家だった。
レオンハルトが近づくと、扉の脇から、小さな影がひとつ飛び出した。
「止まれ」
低い声だった。
小さな身体に不釣り合いなほど大きな斧を持った、小人だった。髭は白く、眉は岩の裂け目のように深い。長老グランである。
その背後には、六つの影が続いた。若い者、年老いた者、丸眼鏡をかけた者、薬瓶を抱えた者。末のリルは、扉の隙間からこちらを覗いている。
「王都の者か」
グランが言った。
その言い方には、客を迎える響きがなかった。石の扉を閉ざす音に似ていた。
「王都から来ました」
レオンハルトは、手を剣から離したまま答えた。
「だが、王妃の使いではありません。私はレオンハルト。記録を継ぐ者です」
「記録を継ぐ者が、こんな森の端まで何をしに来た」
「消された名を探しに」
その言葉で、小人たちの顔色が変わった。
斧を握る手に力が入る。薬瓶を抱えたセラが、かすかに息を呑む。リルは扉を少しだけ開けたが、すぐにまた身を隠した。
グランはしばらくレオンハルトを睨んでいた。
「ここには、王都の記録に差し出すものなどない」
「なら、王都の記録から隠すものはあるのですか」
森の空気が、少し重くなった。
レオンハルトは続けた。
「噂を聞きました。黒森の奥に、硝子の棺で眠る姫がいると。けれど、誰もその名を語らない。死んでいるなら、葬られるべきです。生きているなら、呼ばれるべきです。どちらでもないなら――それは、誰かがその人の記録を止めたということです」
グランの眉が、わずかに動いた。
セラが小声で言った。
「……長老」
グランは答えなかった。
長い沈黙のあと、彼はようやく斧を下ろした。
「入れ」
家の中は、外から見たよりも広かった。
七つの椅子。
七つの器。
七つの寝台。
暖炉には火が入り、その上で薬草の匂いを含んだ湯が揺れている。壁には、鏡鉱を磨いた小さな板がいくつも掛けられていた。しかしそれらは、王妃の記録鏡とは違った。人を裁くような冷たい光ではなく、忘れられないように置かれた小さな灯のようだった。
部屋の奥に、硝子の棺があった。
レオンハルトは、そこで足を止めた。
棺は、ただ透明な箱ではなかった。
鏡鉱を薄く削り、何層にも重ねて作られている。角度によって、雪のように白くも、月光のように青くも見えた。蓋の縁には小人たちの細かな刻印が彫られている。死者を封じる呪ではない。外から押し寄せる改竄を拒み、中に残る生の記録を守るためのものだった。
その中で、姫が眠っていた。
肌は雪のように白かった。
唇は、血のように赤かった。
髪は、黒檀を削った糸のように深く、棺の内側で静かに広がっていた。
レオンハルトは、息を呑んだ。
噂は嘘ではなかった。
美しい、と思った。
だが、その思いはすぐに消えた。
美しさの奥に、もっと深い違和感があった。彼女は死んでいない。死んだ者の静けさではなかった。眠っている者の安らぎでもなかった。まるで、息をすることを世界に禁じられ、目覚めることを記録に拒まれているようだった。
レオンハルトは棺に近づいた。
グランが言った。
「触れるな。下手に触れば、硝子の内側に残した記録が乱れる」
「乱れているのは、棺ではありません」
レオンハルトは、胸元の記録灯を手に取った。
金の火が、棺の表面に近づく。
その瞬間、硝子の内側に白い筋が走った。
ひとつ。
また、ひとつ。
それは亀裂ではなかった。
文字の傷だった。
削られた名。
塗りつぶされた血統。
薄くされた母の光名。
王城の名簿から剥がされた署名。
姫の肖像の下にあったはずの銘。
ニヴェア、という音の前半だけが残り、後半が白く濁っている記録。
アルバ、という名が、何度も何度も上から白い筆でなぞられ、消されかけている跡。
レオンハルトの顔から、血の気が引いた。
「これは……」
セラが、棺の反対側から静かに言った。
「毒林檎だった。けれど、身体を殺す毒ではなかった」
「生きている記録を止める毒」
「そうだ」
グランが低く言った。
「呼吸は残っている。血も止まってはおらん。だが、この子が生きていると記そうとすると、文字が白く曇る。死んだと書けば、きっと簡単だったろう。だから書かなんだ」
「埋めなかったのですね」
「死んでおらん者を土には返せん」
グランの声は、硬かった。
けれど、その硬さの奥には、長い疲労があった。守ってきた者の疲れだった。
「ここは王妃の鏡が届かん。だが、届かんということは、外の記録からも遠いということだ。わしらが名を呼び続けても、森の内側で反響するだけでは、いずれ薄れる。だから、棺を作った。忘れないために。死なせないために」
レオンハルトは棺の中の姫を見た。
彼女の睫毛は、雪の縁に落ちた影のようだった。唇には、毒林檎の赤がまだ残っている。その喉の奥に、何か小さなものが引っかかっていた。赤と白の境目のような、林檎の欠片。
レオンハルトは、小人たちを振り返った。
「この姫の名は?」
その問いに、家の中の火が小さく鳴った。
ぱちり、と。
誰もすぐには答えなかった。
セラは唇を結んだ。グランは、斧を持たない手を固く握った。ほかの小人たちは顔を見合わせる。
名は知っている。
知っていたはずだった。
毎日、棺の硝子を磨くときに呼んでいた。薬湯を取り替えるときに呼んでいた。森の外から悪い噂が来ないよう、扉を閉めるたびに呼んでいた。
それなのに、いざ問われると、音が舌の上でほどけそうになった。
王妃の改竄は、城の中だけで終わっていなかった。
鏡に映らない場所へ逃げても、記録を削る力は、ゆっくりと森の端まで染みてきていた。
長老グランが、苦しげに眉を寄せる。
「ニ……」
声が掠れた。
セラが続けようとして、言葉を失う。
「ニヴ……」
暖炉の火が揺れる。
棺の硝子が、白く曇りかける。
そのとき、扉のそばにいた末子リルが、両手を握りしめて一歩前に出た。
小さな声だった。
けれど、消えなかった。
「ニヴェア」
硝子の曇りが止まった。
リルは怯えたように肩をすくめ、それでももう一度言った。
「ニヴェア=アルバ」
棺の内側に、淡い光が走った。
それは、外から差し込んだ光ではなかった。眠る姫の胸の奥から、かすかに灯ったものだった。
レオンハルトは膝をついた。
死者に祈るようにではない。
王族に拝礼するようにでもない。
生きている者へ、届く声を差し出すために。
彼は片手を棺の上へ置いた。硝子は氷のように冷たかった。だが、その奥に、わずかな温度がある。
「ニヴェア=アルバ」
彼は、はっきりと呼んだ。
棺の中で、姫の指先がかすかに震えた。
「あなたは死んでいない」
記録灯が強く光った。
硝子の内側に浮かぶ白い塗りつぶしが、少しずつ剥がれていく。母の名を覆っていた白い膜がひび割れ、その下から古い金の文字が滲む。
「あなたは、消されたのではない」
レオンハルトの声は、森の家の中にまっすぐ響いた。
小人たちは息を止めていた。グランの目は、いつのまにか濡れていた。セラは薬瓶を胸に抱きしめ、リルは扉のそばで震えながら、それでも姫から目を離さなかった。
「ここに、生きていた記録がある」
その言葉が落ちた瞬間、棺の中で白い息が生まれた。
ほんのわずかな息だった。
けれどそれは、硝子を内側から曇らせた。
死者の棺は、内側から曇らない。
グランが、低く呻いた。
「……生きておる」
ニヴェアの唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。
けれど、喉の奥で何かが外れる音がした。
小さな、乾いた音。
毒林檎の欠片が、彼女の唇の端からこぼれ落ちた。
赤と白の皮を持つその欠片は、硝子の床に触れる前に黒く変じた。そこから細い文字のような煙が立ち上る。王妃の筆跡に似た、白く冷たい煙だった。
セラが叫んだ。
「棺を開けろ!」
七坑の小人たちは一斉に動いた。
留め具が外され、鏡鉱の蓋が持ち上がる。冷たい空気が棺の中から流れ出し、暖炉の火が大きく揺れた。
レオンハルトは身を乗り出し、ニヴェアの手を取った。
冷たい。
けれど、そこに脈があった。
弱く、遠く、それでも確かに打っている。
ニヴェアの睫毛が震えた。
長い眠りの底から、彼女はゆっくりと戻ってくる。白い肌に、ほんのわずかに血の色が差した。赤い唇が息を吸う。黒い髪が肩からこぼれ、硝子の縁を滑った。
そして、彼女は目を開いた。
雪のような薄明の瞳だった。
最初に映したのは、天井でも、暖炉でも、見知らぬ若者でもなかった。
彼女の周りで泣きそうな顔をしている、七坑の小人たちだった。
リルが、声を上げる。
「ニヴェア!」
その名に、彼女の目が揺れた。
まるで、自分がまだその名で呼ばれることを信じられないかのように。
レオンハルトは、手を離さずにもう一度言った。
「ニヴェア=アルバ。あなたの名は、まだここにあります」
ニヴェアの唇が震えた。
声はかすれていた。
長いあいだ、記録の奥で凍っていた声だった。
「……わたしは」
その一言だけで、グランが深く息を吐いた。
セラは顔を覆い、リルは泣き出した。
ニヴェアは、ゆっくりと続けた。
「わたしは……眠っていたの?」
「眠らされていたのです」
レオンハルトは答えた。
「けれど、死んではいない。消えてもいない」
ニヴェアは視線を落とした。
硝子の棺。
その内側に残る、自分の呼吸の曇り。
床に落ちた黒い毒林檎の欠片。
そして、棺の表面に浮かぶ、自分の名。
ニヴェア=アルバ。
白く塗りつぶされかけても、まだ消えずに残っている名。
彼女はその文字を見つめ、長いあいだ動かなかった。
やがて、細い指がレオンハルトの手を握り返した。
弱い力だった。
けれど、それは眠る者のものではなかった。
生きている者の力だった。
「……鏡は」
ニヴェアは、かすれた声で言った。
「まだ、わたしを映すの?」
レオンハルトは、少しだけ黙った。
それから、静かに答えた。
「王妃の鏡には、映らないかもしれません」
ニヴェアの瞳が揺れる。
「でも、それはあなたが消えたからではありません」
レオンハルトは、棺の硝子に残る曇りを見た。
そこには、王妃の記録鏡とは違うものが映っていた。
死ななかった姫。
名を呼び続けた小人たち。
消された記録を探しに来た若者。
そして、もう一度動きはじめた生の輪郭。
「鏡に映らなくても、ここに記録があります」
彼は言った。
「あなたが生きていたことを、私が記します」
そのとき、黒森の外で、遠く鐘の音が鳴った。
王城の鐘だった。
白鏡城で、王妃がまた鏡へ問いかけているのかもしれない。
鏡よ、記録よ、この国でもっとも美しい者は誰、と。
だが、その問いに、今度は別の答えが生まれようとしていた。
美しさとは、顔のことではない。
歪められず、奪われず、消されずに残った存在の輪郭。
そして、たとえ一度止められても、誰かに名を呼ばれ、ふたたび動き出す記録のことだった。




