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第5節 ― 仮名を脱ぐ灰かぶり

 鍵は、すぐには開かなかった。


 ユリウスの命令が廊下に落ちたあとも、灰冠の屋敷の者たちは誰ひとり動かなかった。使用人たちは互いの顔を見合わせ、名簿官たちは沈黙し、ドロシアは苛立ちを隠せない顔で扉を睨んでいた。


 ベルティナだけが、青ざめた唇を震わせていた。


 マルヴィナは、まだ微笑もうとしていた。


 だが、その微笑みはもう、ひびの入った陶器のようだった。薄く、美しく、けれど指先で触れれば崩れ落ちるものに見えた。


「殿下」


 彼女は低く言った。


「あの部屋にいるのは、ただの下働きです。煤にまみれ、礼儀も知らず、昨夜の御令嬢とは何の関わりもございません」


「それを確かめるために、扉を開けるのです」


 ユリウスは答えた。


 声は静かだった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


「いま名乗った者がいます。私は、その名を聞きました」


「名乗ったからといって、名があるとは限りません」


 マルヴィナの声が鋭くなる。


「この世には、自分を高く見せるために、ありもしない名を口にする者もおります。灰をまとった下女が、姫君の真似事をしただけかもしれません」


 その瞬間、応接間に置かれた硝子靴が、かすかに鳴った。


 ちりん、と。


 硝子が触れ合うような、遠い鐘のような音だった。


 マルヴィナは視線だけをそちらへ向けた。


 靴の内側で、小さな火が揺れている。


 まるで、嘘を聞き分けているかのように。


 ユリウスは一歩も退かなかった。


「夫人。鍵を」


 短い言葉だった。


 それでも、広間の空気が揺れた。


 マルヴィナは、しばらくユリウスを見つめていた。やがて、薄い吐息をこぼし、腰の鍵束に手を伸ばす。


 鍵が鳴った。


 冷たい金属音。


 屋敷中の使用人たちが、その音を聞いていた。いつもなら、鍵はマルヴィナの支配の音だった。母の部屋を閉じる音。記録棚を封じる音。エラを台所の奥へ追いやる音。


 けれど今、その音は違っていた。


 隠していたものを開かされる音だった。


 マルヴィナは廊下を歩く。


 ユリウスが続き、名簿官たちが続き、ドロシアとベルティナも遅れてついてくる。応接間に残された硝子靴は、侍従が硝子箱ごと抱え直した。


 台所へ続く廊下は、広間とはまるで別の屋敷のようだった。


 磨かれた玄関石も、花の香りもない。壁には古い煤が染みつき、床板の隙間には小麦粉と灰が入り込んでいる。夕刻の光はここまで届かず、炉辺の赤い残り火だけが、奥から低く明滅していた。


 ユリウスは、その廊下の暗さに眉を寄せた。


 昨夜、硝子の床の上で踊った娘。


 灰の下に残った名の者です、と名乗った娘。


 その彼女が、この暗い廊下の奥に閉じ込められていた。


 扉の前で、マルヴィナが立ち止まる。


「申し上げておきますが」


 彼女は振り返らずに言った。


「あの子は、よく物語を作ります。母親譲りで、夢見がちなところがあるのです」


 ユリウスは何も答えなかった。


 マルヴィナの指が鍵穴へ触れる。


 そのとき、扉の向こうから、もう一度声がした。


「私はここにいます」


 先ほどよりも、はっきりとしていた。


 まだ若い娘の声。


 疲れていて、乾いていて、けれど折れていない声。


「灰かぶりではありません」


 廊下にいた使用人のひとりが、小さく息を呑んだ。


 ずっと昔、その娘を別の名で呼んだことがある者だった。旦那様が存命だったころ、小さな金髪の娘が母の裾をつかんで屋敷の廊下を歩いていたころ。彼女は確かに、灰かぶりなどとは呼ばれていなかった。


 呼んではならないと命じられてから、誰も呼ばなくなっただけだ。


 マルヴィナは鍵を回した。


 扉が開く。


 暗い貯蔵部屋の中から、エラが現れた。


 彼女は、昨夜の姫君ではなかった。


 銀灰のドレスもない。


 淡い金の光もまとっていない。


 粗末な働き着は煤と灰で汚れ、袖口はほつれ、裾には小麦粉がついていた。髪は乱れ、頬には灰が薄くこびりついている。手のひらは黒ずみ、指先には細かな傷があった。


 だが、彼女は俯いていなかった。


 胸元には、焦げ残った小さな刺繍布を抱いている。


 布の端は焼け、糸はほつれ、そこに縫われていた名の多くは失われていた。それでも、かすかに残る文字があった。


 エラ。


 ルミナ。


 それは、絹の刺繍ではなかった。


 灰の中で燃え残った祈りだった。


 ドロシアが、最初に笑った。


「まあ」


 その声には、安堵と侮蔑が混じっていた。


「見て、ベルティナ。本当に灰まみれじゃない。こんな子が、昨夜の姫君のはずがないわ」


 ベルティナは笑わなかった。


 彼女はエラを見つめたまま、唇を結んでいた。視線は、エラの顔と、胸元の刺繍布と、応接間から運ばれてきた硝子靴のあいだを揺れている。


 ドロシアはなおも続けた。


「殿下、どうかお許しください。この子は時々、自分がこの家の娘だったような顔をするのです。でも、見ての通りですわ。ただの灰かぶりです」


「そうです」


 マルヴィナが静かに言った。


 その声は、先ほどまでより落ち着いていた。


 開き直った者の冷たさがあった。


「この子は灰かぶりです。我が家の娘ではありません」


 その言葉に、エラの肩がわずかに震えた。


 何度も聞いた言葉だった。


 台所で。


 炉辺で。


 義姉たちの靴を磨きながら。


 父の部屋が閉じられた日の廊下で。


 母の首飾りを奪われた夜に。


 何度も何度も、その名をかぶせられてきた。


 灰かぶり。


 灰かぶり。


 灰かぶり。


 最初は怒りだった。


 次に、屈辱になった。


 それから、命令への返事になった。


 食事をもらうための合図になった。


 罰を避けるための沈黙になった。


 そしていつしか、それは屋敷の中で彼女を縛る仮名になっていた。


 けれど今、エラはその名を聞いても、振り向かなかった。


 彼女はマルヴィナの目を正面から見た。


「それは」


 声が震えた。


 けれど、止まらなかった。


「あなたが私にかぶせた名です」


 廊下の空気が変わった。


 それは大声ではなかった。


 叫びでもなかった。


 だが、炉辺の灰が一斉に息を吹き返すような言葉だった。


 マルヴィナの目が細くなる。


「何ですって」


「灰かぶりは、私の名ではありません」


 エラは一歩前へ出た。


 足元に灰が落ちる。


 粗末な靴の先が、廊下の床をこすった。


「私が炉辺で働いていたから、あなたはそう呼びました。私の服を奪って、母の部屋を閉じて、父の記録を燃やして、屋敷の者に私の名を呼ばせなくして」


 彼女は、息を吸った。


 今度は、はっきりと。


「でも、それで私の名がなくなったわけではありません」


 ドロシアが顔を歪める。


「何を偉そうに――」


「黙りなさい、ドロシア」


 言ったのはユリウスだった。


 静かな声だったが、ドロシアは反射的に口を閉じた。


 侍従が硝子箱を前へ運ぶ。


 片方の硝子靴が、エラの前に置かれた。


 粗末な服を着た少女と、王城の階段に残された硝子靴。


 その組み合わせは、普通なら滑稽だったかもしれない。


 灰まみれの手。


 煤けた頬。


 乱れた髪。


 その足に、舞踏会の靴が合うはずがない。


 ドロシアは、ふっと鼻で笑った。


「履いてみればいいわ。どうせ曇るだけよ」


 マルヴィナは何も言わなかった。


 ただ、エラを見ていた。


 エラは硝子靴を見下ろした。


 昨夜、階段に置き去りにしたもの。


 いいえ。


 置き去りにしたのではない。


 あの夜、自分が名を偽らずに歩いた証として、靴が自ら残ったのだ。


 エラは、粗末な靴を脱いだ。


 足は冷えていた。かかとには台所仕事でできた硬い傷があり、爪先には灰がついている。昨夜の舞踏会の足とは思えない。


 けれど、エラは逃げなかった。


 硝子靴へ足を入れる。


 瞬間、靴が光った。


 ぴたり、と合った。


 足の形に合ったのではない。


 もっと深いところで、何かが噛み合った。


 名が、歩みと重なった。


 硝子の内側に、小さな火が灯る。灯った火は、やがて靴全体へ広がり、透明な硝子の中に、昨夜の光景が浮かび上がった。


 最初に映ったのは、炉辺だった。


 灰の中で膝を抱えるエラ。


 その手に握られた、焦げ残りの刺繍布。


 次に、灰の中から立ち上がるシンダ=マールの影。


 老婆とも妖精ともつかぬ姿が、灰の糸で衣を織っている。


 灰名衣シンダー・ドレスが生まれる。


 銀灰の裾が、夜の中で淡い金を帯びる。


 南瓜が馬車という仮名を得る。


 鼠が馬という仮名を得る。


 蜥蜴が従者という仮名を得る。


 そして、王都の城。


 硝子床の上に立つエラ。


 名簿官の問い。


 迷い。


 嘘を名乗らなかった一瞬。


 灰の下に残った名の者です、という声。


 硝子床が彼女を拒まなかった光。


 ユリウスと踊る姿。


 仮面と燭台。


 十二鐘。


 逃げる階段。


 ほどける灰名衣。


 そして、片方の硝子靴が階段に残る瞬間。


 そのすべてが、硝子靴の中に記録として浮かび上がった。


 広間にいた者たちは、誰も声を出せなかった。


 ドロシアの顔から血の気が引いた。


 ベルティナは両手を口元に当て、震えていた。


 使用人たちは、まるで長い夢から覚めたような顔でエラを見つめている。中には、目に涙を浮かべている年老いた侍女もいた。


 名簿官長は、深く息を吐いた。


「これは……」


 彼は硝子靴の光を見つめた。


「歩みの記録です。偽装ではない。仮名術でもない。その夜、その者が、その名を偽らず歩いた証」


 マルヴィナが一歩退いた。


 その指には、ひびの入った銀の指輪がまだ残っている。


 彼女はすぐに顔を引き締めた。


「それでも」


 声が少し掠れていた。


「それでも、この子に家名はありません。ルミナなど、屋敷の記録には残っておりません。父の正式な相続記録にも、この子の名は――」


 言い終える前に、屋敷の奥で音がした。


 ぎしり。


 古い木が軋む音。


 全員が振り返る。


 台所ではない。


 廊下のさらに奥。


 長く閉ざされていた記録棚の部屋からだった。


 父の書類が焼かれたあと、マルヴィナが鍵をかけ、誰にも入らせなかった部屋。エラの母の手紙も、古い家名証も、そこにあったはずだった。だが、マルヴィナはすべて処分したと言っていた。


 扉の隙間から、灰が漏れ出していた。


 ただの煤ではない。


 薄い金の光を帯びた灰だった。


 灰は廊下を流れ、応接間へ、広間へ、エラの足元へと集まってくる。風もないのに舞い上がり、まるで読まれることを待っていた文字のように、空中で形を取りはじめた。


 焼けた紙片。


 半分だけ残った封蝋。


 母の筆跡。


 父の署名。


 ルミナ家の小さな紋章。


 燃やされたはずの記録の灰が、消滅ではなく、証として立ち上がっていた。


 名簿官長が驚愕に目を見開く。


「灰記録……」


 彼は呟いた。


「燃やされた記録が、名の祈りを失わず残っている」


 マルヴィナの顔が、初めて明確に歪んだ。


「ありえない」


 彼女は低く言った。


「焼いたのよ。すべて。封蝋も、署名も、家名証も。残るはずが――」


 そこで、彼女は自分が何を口にしたのかに気づいた。


 広間にいた全員が、彼女を見た。


 ドロシアでさえ、母を見た。


 ベルティナは小さく「お母さま」と呟いた。


 マルヴィナは唇を閉ざす。


 だが、もう遅かった。


 灰は空中で静かに回り、やがて一枚の見えない書状の形を取った。


 そこに、淡い光の文字が浮かぶ。


 エラ=ルミナ。


 灰冠の屋敷、先代当主の娘。


 母方ルミナの光名を継ぐ者。


 屋敷の相続記録に名を持つ者。


 その文字を見た瞬間、エラの胸の奥で何かがほどけた。


 ずっと固く結ばれていたもの。


 泣くことすら忘れるほど、深く押し込めていたもの。


 父が自分の頭を撫でた手。


 母が炉辺で刺繍布を縫っていた夜。


 エラ、と呼ぶ声。


 ルミナの子、と笑う声。


 そのすべてが、灰の中から戻ってきた。


 エラは目を伏せた。


 涙が落ちた。


 涙は硝子靴の上に落ち、透明な靴の中で小さな光になった。


 マルヴィナは、最後の抵抗のように言った。


「殿下。これは屋敷内の問題です。たとえ古い記録が残っていたとしても、家の管理はわたくしが――」


「管理ではありません」


 エラが言った。


 声はもう震えていなかった。


 彼女は硝子靴を履いたまま、ゆっくりと立ち上がる。


 片方だけの硝子靴。


 もう片方は履いていない。


 服は粗末で、髪は乱れ、手には灰がついている。


 それでも、広間の誰よりもまっすぐに立っていた。


「あなたがしたのは、管理ではありません。私の名を、私から遠ざけたことです」


「恩知らず」


 マルヴィナの声が低くなる。


「誰があなたをこの屋敷に置いてやったと思っているの」


「私の家だからです」


 エラは答えた。


 広間が静まり返る。


「私は、王子の花嫁として見つけられたのではありません」


 その言葉に、ユリウスがエラを見た。


 エラも、彼を見返した。


 昨夜、舞踏会で踊ったときよりも、ずっと近い距離だった。


 美しい衣も、音楽も、燭台の光もない。


 ただ、灰と記録と、取り戻された名があった。


「私は、奪われた名を取り戻すために、ここに立っています」


 ユリウスは、しばらく何も言わなかった。


 それから、深く頷いた。


「聞き届けました」


 彼は名簿官長へ向き直る。


「王国名簿を」


 名簿官長はすぐに革表紙の携帯名簿を開いた。王都で名の確認を行うための公的記録具。白い頁は空白に見えたが、王家の印に触れると、淡い文字が浮かび上がる。


 ユリウスは硝子靴に残る光と、空中に浮かぶ灰記録を見比べた。


「灰冠の屋敷、先代当主の娘。母方ルミナの光名を継ぐ者。エラ=ルミナ」


 彼は一語ずつ、丁寧に読み上げた。


 その名が広間に響くたび、灰の文字が強くなる。


「この者の名は、不正に屋敷記録から外されていた可能性が高い。王国名簿は、暫定ではなく、灰記録および硝子の名靴の歩み証明をもって、彼女の名を復帰させる」


 名簿官長が、王家の小さな印章を頁に押した。


 金の光が走る。


 その瞬間、屋敷の空気が変わった。


 使用人たちの記憶にかかっていた薄い靄が晴れるように、彼らは次々と頭を下げた。


「エラお嬢様……」


 誰かが、そう呼んだ。


 それは小さな声だった。


 だが、エラにとっては、舞踏会のどんな音楽よりも大きく聞こえた。


 ドロシアが悔しげに唇を噛む。


 ベルティナは俯き、やがてそっと首飾りを見た。姉の首元で曇っていた乳白石が、今はさらに鈍く沈んでいる。


 ベルティナは、小さく言った。


「それ……返した方がいいわ」


 ドロシアが振り向く。


「何を言って――」


「それは、お姉さまのじゃない」


 ベルティナの声は弱かった。


 けれど、初めて母ではなく、自分の言葉で言っていた。


 ドロシアは怒りに顔を歪めたが、首飾りへ触れた瞬間、乳白石が冷たく曇った。まるで、持ち主でない者の手を拒むように。


 マルヴィナは何も言わなかった。


 言えなかった。


 彼女の指輪は、完全に割れていた。


 仮名をかぶせる力は、灰の記録に焼き切られていた。


 ユリウスは、改めてエラに向き直った。


 彼の表情は、昨夜の舞踏会で見せた柔らかさとは違っていた。


 王子としての敬意があった。


 継名者としての慎重さがあった。


 そして、その奥に、ひとりの青年としての静かな願いがあった。


「エラ=ルミナ」


 彼は、初めてその名で呼んだ。


 エラの胸が小さく震えた。


 その名は、もう灰の中だけに隠れていなかった。


 誰かの前で、正しく呼ばれた。


「あなたの名は、王国の記録へ戻しました」


 ユリウスは言った。


「ですが、それは私があなたを所有するという意味ではありません。王城へ来るか、この屋敷に残るか、ルミナの名をどう継ぐか。決めるのは、あなたです」


 エラは、彼を見つめた。


 昨夜の舞踏会で、彼は彼女に尋ねた。


 その名でここへ来たのか。


 誰かに与えられた名で来たのか。


 今度は、エラが答える番だった。


 ユリウスは、少しだけ息を吸い、穏やかに手を差し出した。


「そのうえで、もう一度だけ尋ねます」


 広間の誰もが見ていた。


 灰の中から名を取り戻した娘と、王家の継名者。


 けれど、そこにあったのは、救済者と被救済者の構図ではなかった。


 選ぶ者と、選び返す者が向き合っていた。


「それでも、あなたは私と踊りますか」


 エラは差し出された手を見た。


 粗末な服。


 灰のついた指。


 片方だけの硝子靴。


 舞踏会の音楽はない。


 十二鐘もない。


 灰名衣もない。


 けれど、いまならわかる。


 あの衣は、彼女を別人にしたのではない。


 灰の下にあったものを、一夜だけ見えるようにしただけだった。


 ならば、今ここに立つ自分もまた、あの夜の自分と同じだ。


 エラは刺繍布を胸元にしまった。


 そして、自分の灰に汚れた手を、ユリウスの手へ重ねた。


「私の名でなら」


 ユリウスは、微かに笑った。


「もちろん」


 彼は、エラの手を取る。


 広間には音楽などなかった。


 けれど、炉辺の灰が静かに舞った。


 それは、かつて燃やされた記録の残りだった。


 失われた家名。


 母の祈り。


 呼ばれなくなった本当の名。


 そのすべてが、灰の中から光になって立ち上がる。


 エラは一歩を踏み出した。


 片方の硝子靴が床を鳴らす。


 もう片方の素足は、冷たい板の上にあった。


 それでも、その歩みは不完全ではなかった。


 硝子靴は、王子に見つけられるためのものではない。


 その名で歩いた者を、記録するためのものだった。


 だからエラは、もう迷わなかった。


 灰かぶりという仮名を脱いだ娘は、灰を払い落としたのではない。


 灰の中に残っていた名を抱いたまま、自分の名で立ったのだ。

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