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第4節 ― 片方の硝子靴

 翌朝、王都はひとつの噂で目を覚ました。


 夜明けの鐘がまだ三つしか鳴らないうちから、城下の市場ではパン職人が窯の前でその話をし、井戸端では水を汲む娘たちが声を潜め、仕立屋の窓辺では針子たちが昨夜の舞踏会の光景を身振りで語り合っていた。


 灰のような銀の衣をまとった娘がいたのだという。


 どこの家の娘か、誰も知らない。


 名簿官が家名を尋ねても、彼女は名乗らなかった。


 けれど、城の硝子床は彼女を拒まなかった。


 王子ユリウスが、ただ一度ならず、何度もその娘と踊った。


 十二鐘が鳴ると同時に娘は消え、階段には片方の硝子靴だけが残された。


 噂は、朝の霧よりも早く広がった。


 人々は好き勝手に話を飾った。遠国の姫だという者もいた。亡国の血筋だという者もいた。妖精の国から来たのだと囁く者も、王家の古い予言に現れる名なき花嫁だと信じる者もいた。


 だが、城の中でその硝子靴を前にしていた者たちは、噂ほど甘やかな気持ちではいられなかった。


 王城の記録室には、朝から名簿官たちが集められていた。


 長い机の上には、昨夜の到着名簿が広げられている。家名、紋章、到着時刻、同伴者、仮面の色、衣装の特徴。几帳面な文字で埋め尽くされたそれらの記録の中に、ひとつだけ奇妙な記載があった。


 灰下残名の姫君。


 名簿官長は、その一行を睨むように見下ろしていた。


「これは正式な家名ではありません」


 年老いた名簿官長は、乾いた声で言った。


「無論、存じております」


 昨夜、エラを通した名簿官が深く頭を下げる。


「ですが、硝子床が反応いたしました。拒絶ではなく、受理の光でした」


「受理?」


「少なくとも、偽名の反応ではありませんでした」


 記録室の空気が重くなる。


 ユリウスは、机の端に置かれた硝子靴を見つめていた。


 片方だけの靴。


 見た目は繊細だった。薄い硝子を削り出したように透明で、踵には小さな灰色の花紋が浮かんでいる。だが、ただの飾り物ではない。靴の内側には、昨夜からずっと小さな火種のような光が灯り続けていた。


 それは、誰かを待っている光だった。


「殿下」


 名簿官長が慎重に声をかけた。


「靴の持ち主探しをなさるおつもりですか」


「する」


 ユリウスは短く答えた。


「ただし、花嫁探しとしてではない」


 名簿官たちは顔を見合わせた。


 ユリウスは硝子靴へ手を伸ばした。指先が触れると、靴の内側の光がわずかに強くなった。まるで昨夜の階段を、いまも記憶しているかのように。


「あの人は、偽の家名を名乗らなかった」


 彼は静かに言った。


「名乗れなかったのかもしれない。だが、偽らなかった。城の記録も、彼女を拒まなかった」


「では、消された家名の者であると?」


「可能性はある」


 ユリウスは顔を上げた。


「王都の名簿に載っていないのに、王城の硝子床が受け入れた。ならば、彼女は名を持たぬ者ではない。誰かに記録から外された者だ」


 その言葉に、名簿官長の皺深い顔が険しくなった。


 記録から外された者。


 その意味は重い。


 王国において家名は、単なる誇りではない。相続の証であり、保護の証であり、責任の証でもある。そこから誰かを外すことは、その人間の居場所を奪うことに等しい。


 ユリウスは続けた。


「昨夜、彼女はこう言った。まだ取り戻しきれていない、と」


 彼の声には、舞踏会の熱に浮かされた若者の響きはなかった。


 むしろ、継名者としての冷静さがあった。


「あの言葉を、私は軽く扱わない」


 その日の昼までに、王子の一行は城を出た。


 先頭には王家の紋章を掲げる騎士。続いて、名簿官、靴を納めた硝子箱を持つ侍従、そしてユリウス自身。


 訪ねるのは、昨夜戴名舞踏会に出席した家々だった。


 最初の屋敷では、年若い令嬢が期待に頬を染めて硝子靴へ足を差し入れた。足の大きさは近かった。だが、靴は冷たく曇り、内側の火種は消えかけた。


 次の屋敷では、娘の母親が「昨夜は具合が悪くて早く戻っただけ」と言い張った。しかし靴は足を受け入れず、踵の花紋が白く凍ったようになった。


 また別の屋敷では、令嬢が涙ぐみながら足を押し込もうとした。侍女が後ろから支え、母親が「もう少しです」と囁く。だが硝子靴は割れも伸びもせず、ただ静かに拒んだ。


 それは、足の大きさを測る道具ではなかった。


 昨夜、その名で歩いた者を探している。


 誰もが、次第にそのことを理解しはじめていた。


 そして夕刻近く。


 王子の一行は、灰冠の屋敷へ着いた。


 門扉は磨き上げられていた。


 昨日まで煤けていたはずの玄関石も、水を打たれている。窓辺には新しい布が垂らされ、応接間には急ごしらえの花が活けられていた。屋敷は、まるで最初から格式ある家だったかのように装っている。


 マルヴィナ=グレイムは、玄関広間で王子を迎えた。


 喪服に似た深灰の礼服。胸元には控えめな銀飾り。顔には、社交界で評判のよい穏やかな微笑みを浮かべている。


「殿下自らお越しくださるとは、光栄にございます」


 彼女は優雅に膝を折った。


 その背後には、ドロシアとベルティナが並んでいた。


 ドロシアは昨夜よりもさらに華やかに着飾っている。首元には、エラの母の首飾りがあった。乳白石は昨日よりも鈍く、どこか曇って見えた。


 ベルティナは落ち着かない様子で、姉と母の顔を交互に見ていた。普段なら王子を前にしてはしゃぐはずなのに、その表情には緊張と不安が入り混じっている。


 ユリウスは形式通りの挨拶を返した。


 だが、彼の視線は屋敷の奥へと一度だけ向かった。


 台所の方から、かすかな灰の匂いがした。


「昨夜の舞踏会に、こちらの御令嬢方もお越しでしたね」


「はい。長女ドロシアと、次女ベルティナが」


 マルヴィナは、滑らかに答えた。


「どちらも、殿下の舞踏会を大変光栄に思っておりました」


 ドロシアが頬を染めて一礼する。


「昨夜の謎の御令嬢の件で、王都は大騒ぎでございますね」


 マルヴィナは笑った。


「不思議なこともあるものです。けれど、靴は持ち主を選ぶのでしょう? 娘たちも、もし殿下のお役に立てるなら、喜んで試させていただきます」


 その言葉は、あまりに自然だった。


 けれど、ユリウスは微かな違和感を覚えた。


 彼女は知っている。


 少なくとも、ただの噂として聞いている者の目ではない。


 硝子箱が開かれた。


 片方の硝子靴が、応接間の中央に置かれる。


 部屋の空気が変わった。


 窓から差す夕光を受けて、靴の内側に火種が灯る。小さく、だが確かに。応接間の磨かれた床に、灰色の花紋が淡く映った。


 ドロシアは一歩前へ出た。


 彼女は微笑んでいたが、その手はわずかに震えていた。


「失礼いたします」


 侍女が膝をつき、ドロシアの靴を脱がせる。白い足が硝子靴へ近づく。サイズだけを見れば、合わなくはなかった。


 だが、つま先が触れた瞬間、硝子の内側が曇った。


 冷たい霧が、靴の中に広がる。


 ドロシアが眉を寄せた。


「少し、冷えているだけですわ」


 彼女は足を押し込もうとした。


 硝子靴は動かなかった。


 拒むように、硬く、静かにそこにあった。


 火種の光が小さくなり、靴の踵に浮かぶ灰色の花紋が閉じる。


「もう少しです」


 マルヴィナの声が低く響いた。


「落ち着きなさい、ドロシア」


 ドロシアは唇を噛み、さらに足を押した。


 そのとき、靴の内側に白い曇りが走り、ドロシアの足元から細かな霜のようなものが散った。


 侍従が思わず手を伸ばす。


「おやめください。靴が拒んでおります」


 名簿官が厳しい声で言った。


 ドロシアは悔しそうに足を引いた。


 彼女の足には傷ひとつなかった。だが、顔は真っ赤だった。


 次はベルティナだった。


 ベルティナは、椅子に座る前から青ざめていた。


「お母さま、わたし……」


「座りなさい」


 マルヴィナの声は柔らかかった。


 柔らかいが、逆らえない響きがあった。


 ベルティナは仕方なく座る。


 彼女の足はドロシアより少し小さい。靴には入りそうだった。本人もそれを見て、一瞬だけ希望に目を開いた。


 だが、足先が硝子靴の縁に触れた瞬間。


 靴の内側に、灰が舞った。


 どこから入り込んだのかわからない、細かな灰だった。


 それはベルティナの足を汚すのではなく、包むように舞い上がり、やがて小さな渦を作って足先を押し返した。


「きゃっ」


 ベルティナは驚いて足を引く。


 その灰の渦の中に、ほんの一瞬、裂けた刺繍布のような影が見えた。


 ユリウスの目が細くなる。


 マルヴィナの微笑みが、わずかに硬くなった。


「ベルティナ」


 彼女は娘の肩に手を置いた。


「怖がるから、靴も反応するのです。もう一度」


「でも……」


「もう一度」


 ベルティナは泣きそうな顔で首を振った。


「お母さま、この靴、わたしのじゃないわ」


 部屋が静まり返った。


 ドロシアが妹を睨む。


 マルヴィナの手が、ベルティナの肩に食い込む。


「何を言っているの」


「だって……違うもの。昨夜、王子様と踊っていた人は、もっと……」


 ベルティナは言葉を探した。


 羨望か、悔しさか、それとも畏れか。


「もっと、灰みたいに光っていた」


 マルヴィナの顔から、完全に笑みが消えた。


「黙りなさい」


 その声は、社交界の婦人の声ではなかった。


 屋敷の奥で、何度もエラに命じてきた声だった。


 ユリウスは、それを聞き逃さなかった。


「マルヴィナ夫人」


 彼は静かに言った。


「この屋敷に、ほかに娘はいませんか」


 マルヴィナは、即座に微笑みを戻した。


「娘、と呼べる者はこの二人だけでございます」


「娘と呼べる者」


 ユリウスは、その言い回しを繰り返した。


 マルヴィナの目が、一瞬だけ揺れた。


「使用人ならおりますが、舞踏会に出るような者ではございません」


「昨夜の娘も、名簿には正式な家名を残していませんでした」


「殿下」


 マルヴィナは穏やかに遮った。


「まさか、我が家の使用人を疑っておいでですか? そのような者が王城へ入り込めるはずがございません」


「城の硝子床は、彼女を拒まなかった」


「ならば、なおさら使用人ではありませんわ」


 マルヴィナは微笑む。


 その笑みは、美しかった。


 美しいからこそ、冷たい。


「王城の記録が受け入れたのなら、それは名ある御方なのでしょう。わたくしの屋敷で灰にまみれて働く者などでは、決して」


 その瞬間、硝子靴の内側の灰が、ふわりと舞った。


 ユリウスはそれを見た。


 名簿官も見た。


 マルヴィナも見た。


 彼女の目に、苛立ちが走る。


 その苛立ちは、隠しきれないものだった。


 マルヴィナはゆっくりと片手を上げた。


 指には細い銀の指輪がある。家名の仮登録や使用人名簿の修正に用いる、小さな記録具だった。貴族家の女主人が屋敷内の呼称を整えるために持つもの。だが、扱い方によっては、仮名を一時的に上書きすることもできる。


「靴は、昨夜の歩みを探しているのでしょう」


 彼女は低く言った。


「ならば、歩みを寄せればよいだけのこと」


 名簿官が顔色を変えた。


「夫人、それは――」


 マルヴィナの指輪が光った。


 ドロシアの背後に、淡い文字の輪が浮かぶ。


 灰下残名の姫君。


 昨夜の名簿に記された仮の呼称が、かすかに空中へ現れ、それがドロシアの名へ重ねられようとした。


 ドロシアは息を呑んだ。


「お母さま……?」


「動かないで」


 マルヴィナの声は冷たかった。


「名は、扱い方を知る者の手にあれば従うものよ」


 ユリウスが一歩踏み出す。


「やめなさい」


 だが、マルヴィナは止まらなかった。


 灰下残名の姫君。


 その仮の呼称が、ドロシアの家名の上に薄く覆いかぶさる。


 部屋の空気が歪んだ。


 ベルティナが後ずさる。


 硝子靴の火種が、強く燃えた。


 次の瞬間。


 靴の中から灰が噴き上がった。


 それは煤のように黒くはなく、炉辺の灰のように白く細かかった。灰は空中で渦を巻き、マルヴィナの指輪の光へ叩きつけられる。


 ぱきん、と小さな音がした。


 銀の指輪にひびが入る。


 マルヴィナの顔が歪んだ。


 硝子靴は、ドロシアの足元からわずかに離れた。まるで、触れることすら拒むように。


 名簿官が声を上げた。


「硝子の名靴は、足形を測るものではありません。その夜、その名で歩いた者の記録を照らすものです。仮名の上書きでは、履かせることはできません」


 ユリウスは、マルヴィナを見据えた。


「この屋敷に、まだ試していない者がいるはずです」


「おりません」


「使用人も含めて」


「必要ございません」


「必要があるかどうかは、靴が決めます」


 マルヴィナは微笑んだ。


 だが、その微笑みはもう割れかけていた。


「灰を運ぶ娘に、殿下のお時間を割く価値はございません」


 屋敷の奥で、かすかな音がした。


 こつん。


 扉を叩く音。


 応接間の者たちが、そちらを向いた。


 こつん。


 もう一度。


 今度は、少し強く。


 台所へ続く廊下の奥。


 そこには、普段なら閉じられることのない扉があった。使用人たちが出入りするための扉。だが今は、外側から鍵が掛けられている。


 扉の向こうで、誰かがいる。


 マルヴィナの表情が凍った。


 時間は少し戻る。


 その朝、エラは台所に閉じ込められていた。


 舞踏会から戻ったとき、灰名衣はすでに消えていた。馬車は南瓜に戻り、鼠たちは散り、蜥蜴は壁の隙間へ逃げ込んだ。エラは片方だけ残った硝子靴を胸に抱き、夜明け前に台所へ戻った。


 もう片方の靴は、城に残してきた。


 いや、靴が自ら残った。


 そう思うしかなかった。


 残った片方を、エラは炉辺の灰の中に隠した。母の刺繍布で包み、灰の下にそっと埋めた。


 だが、マルヴィナは気づいていた。


 朝食の前、彼女は何も言わずに台所へ来た。エラの顔を見て、煤で汚れた服を見て、それから炉辺を見た。


「昨夜は、よく眠れたかしら」


 その声を聞いた瞬間、エラは悟った。


 この人は知っている。


 すべてではなくとも、何かを。


 マルヴィナは炉の灰を蹴った。刺繍布までは見つからなかった。だが、灰の中に残る硝子の光を警戒したのだろう。彼女はエラを台所奥の貯蔵部屋へ押し込み、外から鍵をかけた。


「今日はここにいなさい、灰かぶり」


 その名で呼ばれても、エラは返事をしなかった。


 マルヴィナは扉越しに笑った。


「返事をしなくても、あなたの居場所は変わらないわ」


 扉が閉まる。


 鍵が回る。


 暗い部屋に、エラはひとり残された。


 貯蔵部屋は狭く、冷たかった。干した根菜、古い小麦袋、灯油の匂い。高い窓は小さく、そこから差す光は床まで届かない。


 エラは扉の前に座り込んだ。


 手は震えていた。


 昨夜、あれほどはっきり言えたのに。


 灰かぶりとして来たわけではありません、と。


 なのに今、自分はまた暗い部屋に閉じ込められている。


 また、声を奪われようとしている。


 扉の外では、やがて騒がしい足音が聞こえた。王子の一行が来たのだとわかった。ドロシアの高い声。ベルティナの怯えた声。マルヴィナの滑らかな声。名簿官の厳しい声。


 硝子靴が試されている。


 エラは立ち上がろうとして、膝に力が入らず、床に手をついた。


 そのとき。


 足元の隙間から、灰が流れ込んできた。


 台所の炉から、細い灰の筋が扉の下をくぐり、貯蔵部屋の中へ入ってくる。それは風に吹かれたのではなかった。意志を持つように、床を這い、エラの足元で静かに円を描いた。


 灰の中に、小さな布があった。


 母の刺繍布。


 昨夜、硝子靴を包んでいたはずの布。


 それが、扉の隙間から滑り込んできたのだ。


 エラは息を呑む。


 布は焦げて、端は黒くなっている。それでも、かすかな糸が残っていた。小さな小さな文字のかけら。


 エラ。


 そして、ほとんど消えかけた光名。


 ルミナ。


 エラはその布を両手で包んだ。


 胸の奥で、炉辺の火が揺れた。


 シンダ=マールの声が、どこか遠くから聞こえた気がした。


 鍵を壊すのは、わたしの役目じゃないよ。


 エラは目を閉じる。


 そうだ。


 助けられるのを待っているだけでは、また名を預けることになる。


 王子が来たから救われるのではない。


 硝子靴があるから見つけてもらえるのでもない。


 自分の名で立つと決めたのは、自分だ。


 ならば、自分で言わなければ。


 エラは立ち上がった。


 足は震えていた。煤けた服は昨夜の衣とは違う。髪も乱れ、頬には灰がついている。鏡もない。美しいドレスもない。硝子靴も履いていない。


 それでも、胸の奥の火は消えていなかった。


 エラは扉を叩いた。


 こつん。


 外では、まだ声が続いている。


 聞こえないかもしれない。


 恐怖が、喉を締めつけた。


 言えば、すべてが変わる。


 マルヴィナは怒るだろう。ドロシアは憎むだろう。ベルティナは怯えるだろう。使用人たちは戸惑うだろう。王子も、名簿官も、自分を見る。


 灰かぶりではなく。


 エラとして。


 その視線に耐えられるのか。


 エラは刺繍布を握りしめた。


 もう一度、扉を叩く。


 こつん。


 今度は、強く。


 そして、声を出した。


「私はここにいます」


 最初の声は震えていた。


 けれど、廊下に届いた。


 応接間のざわめきが止まる。


 エラは息を吸った。


 灰の匂いがした。


 炉辺の匂い。母の残した祈りの匂い。燃やされても消えなかった記録の匂い。


「灰かぶりではありません」


 扉の向こうで、誰かが息を呑む音がした。


 エラは最後の言葉を、逃げずに口にした。


「エラ=ルミナです」


 その名が、廊下に落ちた。


 いいえ、落ちたのではなかった。


 灰の上に立った。


 台所の炉が、遠くで小さく鳴った。応接間の硝子靴が、強く光った。灰の渦が床を走り、閉ざされた扉の下から、淡い金の光が漏れた。


 ユリウスは、その声を聞いた。


 昨夜、舞踏会の中で彼女が言えなかった名。


 まだ取り戻しきれていないと告げた名。


 それが今、灰冠の屋敷の奥から、はっきりと呼ばれている。


 ユリウスは迷わず歩き出した。


 マルヴィナが前に立ちはだかる。


「殿下、あれは――」


「聞こえました」


 ユリウスは静かに言った。


 声は荒くない。


 だが、誰も逆らえない強さがあった。


「今、この屋敷で、ひとりの者が自分の名を名乗りました」


 彼は扉の方へ向かう。


 名簿官たちが続く。


 ドロシアは立ち尽くし、ベルティナは母から一歩離れた。


 硝子靴の火種が、応接間で燃えるように輝いた。


 閉ざされた扉の向こうで、エラは刺繍布を胸に抱いていた。


 もう一度、叩く。


 今度は、震えなかった。


「私は、ここにいます」


 ユリウスは扉の前に立った。


 そして、マルヴィナを見ることなく命じた。


「鍵を開けなさい」


 灰冠の屋敷に、長い沈黙が降りた。


 その沈黙の中で、炉辺の灰だけが、春を待つ火種のように静かに光っていた。

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