前口上 ― 海は声を忘れない
海は、声を忘れません。
いいえ、波がいつまでも同じ歌を繰り返している、というだけの話ではないのです。
海は、落とされた声を覚えています。沈められた呼び名を、砕けた貝殻の内側にしまっておくことがあります。誰にも届かないまま消えた祈りを、潮の底で幾夜も幾年も、静かに揺らしていることがあります。
人は、海辺で波音を聞きます。
寄せては返すだけの音だと思います。
けれど、耳を澄ませたことのある者なら知っているでしょう。
波は、ときどき誰かを呼んでいます。
帰りなさい、と。
忘れないで、と。
まだ、あなたの名は沈みきっていない、と。
後の世では、この夜の物語は、もっと美しく、もっと悲しく語られるでしょう。
海の底に住む姫がいた。
その姫は陸の若者に恋をした。
彼に会うため、美しい声を魔女へ渡し、人の足を得た。
けれど想いは届かず、夜明けとともに泡になった。
そう語れば、たしかに物語はわかりやすくなります。
声は歌声となり、恋は涙となり、泡は消滅のしるしとなる。
けれど、ほんとうは。
声とは、ただ美しく歌うためだけのものではありませんでした。
声とは、誰かを呼ぶための潮路でした。
誰かに呼ばれるための灯でした。
自分がどこから来て、どこへ還るのかを、世界に知らせるための小さな波紋でした。
海の民にとって、名は陸の文字ではありません。
血に刻まれるだけのものでも、家の戸口に吊るされるだけのものでもありません。
名は、潮に乗ります。
歌に宿ります。
貝の内側で眠り、泡のひとつひとつにほどけ、月の夜には沖から岸へと還ってくる。
だから、海の娘が声を失うということは、ただ沈黙することではありません。
帰る潮を見失うこと。
自分を呼ぶ波から、少しずつ遠ざかること。
誰かの前に立っていても、「私はここにいる」と告げる道を失うこと。
それは、とても静かな迷子です。
森には、名を喰う狼がいました。
赤い布を裂き、祖母の声を着て、呼び名を呑み込もうとする獣がいました。
けれど海には、別のものがいます。
名を無理やり喰らうのではなく、やさしい契約の形で差し出させるもの。
望みを叶えるふりをして、帰るための声を貝殻へ閉じるもの。
奪ったのではない、あなたが預けたのだと囁くもの。
森の狼は牙で迫ります。
海の魔女は微笑んで待ちます。
どちらが恐ろしいかは、夜によって違うでしょう。
さて、今宵の頁を開きましょう。
これは、泡になって消えた姫の話ではありません。
声を失い、陸に立ち、誰にも本当の名を呼ばれなかった娘の話です。
そして最後に、誰かの名を奪うことを選ばなかったために、泡ではなく潮へ還った名の話です。
海は、声を忘れません。
ならば今夜は、海が覚えていたひとつの潮名を、ここに掬い上げることにいたしましょう。




