【 訪れるもの 】
アウグスタとケニードのラフイラストの公開許可をもらいましたので、http://ncode.syosetu.com/n7006f/1/に貼らせていただきました。
ラフイラストは、完全原稿が届きましたらそちらと変換になります。
朝は一杯の山羊乳から始まる。
日の出と共に起き出し、まず手に取るのがなみなみと乳の注がれた銀製の器。
円形筒型のソレはたぶん鍋の一種だと思うのだが、丁度あたしが持ちやすい位置に可愛い猫足の取っ手がついていたり、あたしが飲みやすい場所に注ぎ口のような吸い口がついていたり、上から中身がぶちまけられないように固定具のある蓋がついていたりと、一風変わった作りになっている。
大きさはあたしの体がすっぽり入ってしまう程度。
なんか今まで見たこともない形だが、たぶん、どこかにはフツーに売ってる品なんだろう。鍋の一種として。
……なんで吸い口がついてるのかは不明だけど。
しかし、この鍋もどきは大変飲みやすい。
今日も鍋一杯の山羊乳を最後までチューチューと飲み干して、あたしは「けぷぅ」と満足の吐息を吐いた。
レメクに拾われたその日から、山羊乳は毎朝の日課となっていた。
毎日長屋のおじーちゃん達が持ってきてくれる絞りたては、朝ごはんをほとんど食べないレメクの主食みたいなものだ。もちろんその大半はあたしの胃袋に消えるのだが、前にお寝坊したレメクと一緒に朝食を摂った時は、コップ一杯の山羊乳を飲んでいた。
(なんかすんごい『義務で飲んでます』みたいな無表情で飲んでたけど……)
こんなに美味しいものなのに、笑顔にならないとはどういうことだろうか。
さすがに心配になったあたしは、その次の機会にもっと美味しいものや元気になるものを入れてあげることにした。蜂蜜と卵黄とチョコレートとジンジャーを山盛りだ。どういうわけか無の境地に達したみたいな顔で飲まれてしまったが。
……体にイイモノなのに、ニコニコしてくれないのはどうしてだろう?
ちなみに、レメクが山羊乳 (時々は牛乳も!)をあたしに与えてくれるのは、あたしの体に必要な栄養がそこにいっぱい入っているからだった。熱を出すたびにミルク粥やらミルク煮やらミルクジュースやらを作ってくれるのも、『体が元気になるための栄養』をとらせるためである。
(ああ! 今日の朝ごはんは何かな!?)
口の周りについたミルクをぺろぺろと未練がましくなめ落とし、あたしはテーブル脇にセットされている洗顔セットで簡単に顔を洗った。
フェリ姫はかなり念入りに洗顔をするらしいけど、あたしはチョイチョイパッパで終わってしまう。かわりに髪を念入りに梳くのだが、根性の入ったあたしの寝癖は、そう簡単に服従してはくれなかった。
……あたしの髪のくせに生意気だ!
とりあえず数分間戦って、頭の上に跳ねてる一房以外を平伏させる。時間経過とともに頭を上げやがるヤツもいるが、もうそんなのにかまってたら一時間たっても下に降りられない。あたしは下でご飯が食べたいのです!
着替えと身だしなみを簡単に整え、あたしは飲み干した鍋もどきをヨイショと担いで歩き出した。
飲んだ後はお片づけ。
生活の基本である。
※ ※ ※
暖かな陽光の差し込む廊下を渡り、階段をえっちらおっちらと下りるあたしの名前はベル。
今年の四月に九歳になった、愛と度胸の女の子である。
あたしの愛は常に『レメク』という名のすンばらしい旦那様に一点集中しているのだが、ご飯とかご飯とかご飯とかにも深い愛を抱いている。
アレです。世界は愛で満ちているのです。
そんなレメクの次に愛する『ご飯』が用意されているのが、クラウドール邸の誇る紋様術使いまくりの厨房。所謂、台所である。
御貴族様の出であるケニード曰く、
「普通はグレート・ホールで食事するんだけどね……」
ということなのだが、同じく御貴族様であるクラウドール家のグレート・ホールとやらは、現在埃に埋まっていた。
なにしろ我が愛するおじ様ときたら、自分が生活するのに必要な場所以外は全く掃除をしない人なのである。
全てにおいて完璧そうな外見をしているというのに、生活圏外の惨状は「詐欺だ!」と言いたくなる内容だった。……だがそこがイイ!
そんなレメクをこよなく愛するあたしには、唯一無二の年の離れた盟友がいた。
名をケニード・なんとか・かんとか・アロック。
王都随一と誉れ高かった元宝飾技師で、若草色の瞳と暖かな笑顔が印象的な、非常に目に嬉しい金髪美形である。
黙って立っていれば一国の王女様だって恋に落ちそうな美形なのだが、残念なことに彼の頭の大半はレメクとメリディス族への愛で占められている。
その愛溢れる言動は万人に『マニア』と認められる位であり、彼の盟友にしてレメク愛に生きるあたしにしても、そのマニアぶりを超えることはできない。
ちなみに『マニア』とは、狂気にも似た愛と熱意を持つ人のことであり、世界のどこかにあるという『世界マニア同盟』なるものに正式認定されると、世界中のマニアから敬意を払われ、あらゆる場所で優遇されるらしい。
あくまでも噂としてK・A氏が語ってくれたところによると、貴金属の輸出入に関する優遇をはじめ、大陸間を越えた様々な情報提供など、多岐にわたる恩恵に与れるという。
……てゆか、世界規模だったのか『マニア』って……
一大陸に留まらないのかー、というのが初めて聞いた時の正直な感想だったのだが、ケニードとレメクマニア同盟を結んでいるあたしは、その世界規模の同盟には参加できない。
なぜならば、必須参加条件の一つに『十六歳以上』という厳しい現実があるのである。
(あんまりだ!)
今にミテイロ!!
そんな復讐心に燃えるあたしに怯えたのか、厨房に入ったあたしを迎えてくれたケニードは、こちらを見て一瞬ビクッと硬直した。
あたしは鍋を担いだいつもの格好で、挨拶をしようと口を開く。
「お」
「あはははははははは!?」
爆笑!?
「あは! アハハハハ!」
あまりにも唐突な爆笑に、あたしは鍋を担いだ格好のまま愕然と立ち尽くした。しかし笑いの発作に襲われたケニードは、こちらに注意を払うどころではない。腹を抱えて笑う彼の手から、美味しそうなキッシュが皿ごと落っこちる有様だ。
(なんと!?)
瞬時に落下地点にダイビング、華麗にキャッチ、一瞬でキッシュを胃袋に収納したあたしは、空になった皿と鍋を両手にテンテンと足踏みをした。
「ひどいケニード! オトコのカザカミにもおけない所行よ!?」
「ご、ごめ……あはははははは!」
謝罪の途中であたしを見てさらに爆笑するマニアに、あたしは両手を空にしてから「えいやっ」と飛びかかった。そのまましゃかしゃかと肩まで登るのだが、ケニードは笑いすぎてガクガクと床に崩れてしまった。必死に息をしようとしているのだが、笑いが酷すぎて吐くばかりのようだ。
……そこまで笑うか……てゆかケニードが死にそうなんだが……
「ベ……ベりゅ……」
なんです。
「か、か……か……」
か?
竈?
神様に祈れ?
「顔……かがみ、映して、きて……!」
「?」
どうやら笑いの原因はあたしの顔にあるらしい。
確かにあたしの顔はビミョーだろう。だけど、そんなの前からだったはずだ。今更改めて笑われるのも変だから、いつもと違う模様とかがはいっているのかもしれない。縦縞とか、横縞とか。
……無かったら一日ふて寝するが。
疑問でイッパイなままケニードの肩から飛び降り、あたしは厨房の片隅に鎮座している鏡の前に向かって、椅子を引きずって走った。
よろよろのケニードが後からついてくるが、未だに呼吸困難な様子である。
……どんだけオカシナ顔になってんだろーかあたし。見るの怖くなるじゃないか。
嫌な予感を堪え、椅子に這い上がってからのぞきこんだ鏡の中には、やや寝癖のついた髪の、金色の目の、立派なダンディ口髭の女の子が映っていた。
……。
…………。
口髭!?
「なにこれーっ!?」
「あはははははははは!」
初めてソレを見たあたしの悲鳴に、ケニードがまた限界突破の爆笑をする。
てゆか、髭!? なんで髭!?
洗顔してたときにこんなのあったっけ!?
「な、これ……これ触れないッ!」
あたしはパタパタと手で髭のある部分をまさぐる。
鏡に映っている内容を見るに、淡い茶色の、左右にポワンポワンと跳ねた、大きさ的にはあたしの親指ぐらいしかない、触ればふわっとした感触がしそうなダンディ髭である。
しかし、そのダンディ髭は、何故か全く手で触ることができなかった。髭がある場所を触っても、なんの感触も無いのだ。
それはつまり──『取り除く』ことができないということでもある。
「ケニード! これ、触れない! 取れないよ!?」
「……ッ……ッ……ッッ」
「呼吸困難起こすぐらい笑うなーッ!!」
床にうずくまり、先程にも増して息も絶え絶えになっている美男子に、あたしは遠慮無く飛び乗った。
えぇい! お馬さんにしてやる!
「なんでこんなのついてるの!? 触れないのに、鏡には映ってるなんて……! なんなのコレなんなのコレーッ!」
うずくまる背中に馬乗り状態。そのまま足をバタバタさせるあたしに、ケニードは必死に呼吸を整えながら言った。
「ぼ、僕にも、何が、なんだか……! で、でも、そんな明らかに普通じゃないコト、出来るヒトなんて、ヒトリしかいないと、思うよ!?」
「ポテトさんーッ!!」
あたしは怒りを込めてその名を呼んだ。
常にそこらへんの床からニョキッと生えてくる人外レベルの超絶美形は、しかし、怒れるあたしの呼び声に答えてはくれなかった。
ごく最近まで小さな赤ちゃん猫の姿であたしやケニードの頭の上に乗っていたというのに、である。
(……そーいや、今日は朝から見かけてないな……)
ハタと気づいて身動きを止めたあたしの下で、お馬さんになっていたケニードが笑いを堪えながらそろそろと上体を起こす。
滑るようにしてその背から床に降りたあたしは、口 (というか、髭)を手で隠しながら、抗議を込めてケニードを見上げた。
「ごめんよ、ベル。何の覚悟もなく見ちゃったから、堪えきれなくて」
あたしの眼差しに非常に素直に白状する彼の顔は、まだ少しばかり笑いの余韻を残している。
しかし、綺麗な瞳にはちゃんと申し訳なさそうな色があった。
ならば許すのがイイオンナというやつである。
「……もういいの。ちょっぴりあたしのオトメゴコロは傷ついたけど、悪いのはポテトおとーさまだもん」
「まぁ……クラウドール卿がこんなことするはずないから、必然的にあのヒトが犯人になっちゃうんだろうけど……にしても、どうやってあんなのくっつけたのかなぁ……」
言いながら、ケニードはスーッとあたしから視線を逸らした。その唇が少しだけピクピクしている。
……今、思い出し笑いしかけたな?
「触れないのに、目に見えてるって、どーゆーこと?」
「うーん……幻覚系の魔術なのかなぁ……あのヒトの場合、魔術じゃなくて魔法なんだっけ」
口を手で覆い隠してるあたしを抱き上げて、ケニードは不思議そうに首を傾げた。
「手で触れないんだよね?」
「うん。試してみる?」
「……いや、見た瞬間また笑っちゃいそうだから、やめておくよ。それより、口を覆い隠すものを用意しよう。ずっと手で覆ってるのは疲れちゃうだろう?」
そう言ってあたしをテーブル近くの椅子に設置した彼は、探してる間にご飯食べておいて、と言い残して厨房を去っていった。
相変わらずお母さんのように世話を焼いてくれるイイ人である。
(このお礼はポテトさんへのお礼参りが終わったらしっかりしなくては!)
一概に同じ『お礼』と言っても、これほど種類の違う『お礼』もなかなか無い。
さて、それにしても、どうやってポテトさんに復讐しようか。それよりも前に、この幻ダンディ髭はいつになったら消えてくれるのだろうか、とうんうん唸るあたしの食欲は、心に受けたショックのおかげでいつもより二割近く少なかった。
大皿三十皿も食べられないほどである。
(……ぅぅ……このお礼もポテトさんにしてやるんだからっ!)
しっかりと食後の山羊乳第二弾も飲み干して、あたしは食べ終わった食器を片づけるべく椅子と洗い場を往復した。
洗い物の途中で戸口を振り返り、覆い布を取ってきてくれたケニードとまともに顔をあわせて吹き出されたのは、それからわずか数十秒後のことである。
……オボエテロ……
……女心はセンサイで怨念深いんだからね!?
※ ※ ※
四月も後半になると、もう日中は暑いぐらいに暖かい。
この頃になると咲き誇る花の種類はますます増え、五月の花の祝日前に花が咲き尽くしちゃうんじゃなかろーかと思われるほどだった。
クラウドール邸の屋敷周辺も同様に、あちらこちらで花がその顔をほころばせる。大樹が多いせいで木々の下には苔しか生えていないが、日の当たる屋敷の周りはなかなか見事な花園となっていた。
……まぁ、無秩序な野草の群れなんだけどね。
そんな自由で美しい景色の中、不穏な空気をまき散らしながら、あたしはせっせと洗濯物を干していた。
使用人を屋敷内に置いていないクラウドール邸では、衣食住の全てを住人 (現在二名)で行わなければならない。
治療兼愛で手伝いに来てくれているケニードや、ひやかし兼時間つぶしに来ているバルバロッサ卿がいなければ、とてもじゃないがこなせない仕事量である。
もっともレメクからは、そんな雑役婦のようなことをしなくてもいい、と再三言われているのだが……
養って貰っている以上、ちゃんとその分のお返しをしないといけないのである!
したがって、あたしは自分で出来る範囲の洗濯と掃除をする。これはあたしの仕事だと心に決めているのだが、何故かいつもレメクの下着は洗濯物の中に入っていなかった。
……無念である。残念を通りこして無念である!
未だに彼の脱ぎたて下着という至宝を手に入れることが出来ていない。洗濯仕上がった後の下着はかろうじて手に入れていたのだが、とある事件の途中で隠し場所を把握されてしまったため、気づいた時にはお宝置き場からぱんちゅだけ消えていた。
他のお宝──レメクの匂いのついた櫛や、もらったハンカチ等──はそのまま残されていた分、レメクもあたしのオトメゴコロに多少は配慮してくれたのだろう。だが、一番大切な宝物が消えてしまったショックはデカかった。熱が下がった直後にこの事実を知ったあたしは、危うくもう一度高熱を出してしまいそうになったほどだった。
しかし、奪い返されてしまったものはしょうがない。
この悲しみをバネにして、次は脱ぎたてぱんちゅをゲットするという、崇高な使命を達成するのである!
そんな風に意気込みを新たにしつつ、あたしは洗濯用の椅子によじ登った。全身を使ってタオルで「ぱーん」と大気を叩くと、霧のような水滴がパッと散る。
こうすることでシワシワの布がピンッと張るのだが、小さなあたしではご覧の通り、全身運動になってしまう。早くレメクのように「パンッ」とカッコ良くやりたいものだが、身長の伸び率を考えるになかなか難しい問題だった。
(……てゆか、あたし、栄養いっぱいもらってるのに、全然縦に成長してない気がするんだけど……)
レメクに拾われ、二ヶ月以上も大量の食料を与えられているのに、あたしの目線は二ヶ月前から全くと言っていいほど変わっていない。
元々同じ孤児仲間の中でも群を抜いて背の小さかったあたしだから、栄養あるモノを食べればさぞかしグングン育つだろうとこっそり期待していたというのに……!
(おかしいわ……ちゃんと栄養は体に行き渡ってるはずなのに!)
そう。栄養はちゃんと蓄積されているのである。
なにせ骨に皮が巻かれただけのようだったかつてに比べ、今のあたしはあのレメクに『樽のようです』と微笑まれる体格になっていた。てゆか樽って! 樽って……!!
(ん? ……まてよ?)
まさかとは思うが──
(……あたしの体、縦に伸びずに横に伸びてるんじゃ……!?)
かつて宿のおねーちゃんが言っていた。
世の中には、『横型成長』と恐れられる、非常に恐ろしい成長型があるらしい、と!
偏った栄養摂取などにより縦に伸びるべき成長期に横に伸びてしまい、理想の体型になるのに恐ろしい労力が必要になるというソレは、摂取した栄養が、日々の運動と体に必要な栄養量よりも増大した時に陥りやすいのだそうだ。
(……って……ソレまさにあたしなんじゃ……!?)
あたしはガーンッと固まった。
今初めて思い至った衝撃の事実! これは今から『だいえっと』とかいう、世の中の裕福な乙女がするというカリキュラムをこなさなくてはならないのでは……!?
(嗚呼! しかし!!)
あたしにはその『だいえっと』というヤツの内容が分からない!
とりあえず『全身運動』で運動量を増やしておこう!
「そぃやーっ」
意気込みも新たに「ぱーんッ」とやっていると、少し離れた場所で大物を干してくれていたケニードが「ふぅ」と満足そうなため息をついた。
どうやら彼の分は終わったらしい。
あたしの身長ではどうやっても地面についちゃう大きな洗濯物が、木と木の間に張られたロープの上で翻っている。風にはためくそれらをチラ見してから、あたしも最後の洗濯物を「ぱーん」と勢いよく叩き、干した。
よし。これで洗濯物は終了である!
キラリと労働の汗を煌めかせ、あたしは勢いよく椅子から飛び降りた。
さぁ次の全身運動だ!
するとケニードが笑ってその椅子を持ち運んでくれる。
あっ! 運動量減らされた!!
「いつものスケジュールなら、お昼まで掃除だよね? 今日はどこの掃除をする?」
紳士の嗜みとして重い物を持っていってくれるケニードの周りをちょろちょろしていたあたしは、その朗らかな笑顔を仰ぎ見てハッとなった。
「それより、ケニードはお歌を聴く仕事があると思うの!」
「うん。それはすごく楽しみにしてる」
あたしの声に、ケニードはそれはそれは嬉しそうな顔になった。
『横型成長』に意識をとられて危うく忘れかけたが、あたし達には大事なお仕事があったのだ。
それがケニードの『歌を聴くお仕事』──つまり、メリディス族の『呪歌』による治療だった。
とある事件で重症を負った彼は、宝飾技師としては致命的なダメージをその手に残してしまった。その損傷を少しでも和らげるため、メリディス族のもつ不思議な歌の力を使おうという試みなのだが、歌うのがメリディス族として半人前以下のあたしであるため、効果の程は確かではなかった。
(……せめてお母さんがいてくれたらな……)
思わずそんな弱音を心の中で吐いてしまう。
メリディス族の森で生まれ育った母なら、きっと文献にあるような『呪歌』を歌うことができたのだろう。けれど何の訓練もうけていないあたしの歌は、半分がただの『歌』になっていた。
……呪歌と普通の歌との境界線がよく分からないのだ。
(……ケニードの手……ちゃんと良くなっていってるのかな……)
宝飾技師としての依頼を全て断っているというケニードは、今は機能回復訓練時しか作業場に向かわないのだという。彼の屋敷で働くナナリーに教えてもらったところによると、その訓練もあまり上手くはいっていないらしい。
ケニードはそういったことをあたし達の前では決して出さない。ナナリーも心配でこっそり様子を見守っていたから、ケニードの不調を目の当たりにすることができたけれど、そうでなければケニードのことだ、いつも通りの笑顔ではぐらかしていたことだろう。
ケニードもレメクも、自分の辛い部分をあたし達の目から隠そうとする。
それはきっと大人としての配慮なのだろうし、男の人の矜持でもあるのだろう。
けれどあたし達はいつだって心配なのだ。辛いとか苦しいとかに、大人も子供も無いと思うから。
(そういうの、見せてくれればいいのにな……)
あの勝ち気なナナリーだって、涙目になるほど心配しているのだから。
あたしは小さく唇を噛み、意を決してケニードを見上げる。
ふいに黙ったあたしを不思議そうに見下ろしていたケニードは、あたしの顔つきに真面目な話を悟ったのだろう、笑みを消して大真面目な顔になった。
あたしは「あのね」と喋りかけ──
──強い視線を感じてバッと空を仰ぎ見た。
「……え?」
空の一点に、茶褐色の塊が見えた。
それは恐ろしい勢いでこちらに向かって直進してくる。ほとんど落下に近い勢いでやってくるそれは、大きな翼の、嘴の頑丈そうな──
(鷹!?)
あたしの目が極限まで開かれた。
かつてレメクに読み書きを教わった初期の頃、教材にと持ってきてくれた『生き物図鑑』に載っていた鳥が、今! まさに!! 獲物を見つけた狩人の如き勢であたしに向かって落下してくる!!
(ひきゃああああああああッ!!)
あたしは声を上げる間もなく脱兎の勢いで逃げ出した。
凄まじい危機感に、ケニードのことすら頭の中からすっぽ抜ける。
「ベル!?」
びっくりした声が聞こえてきたけど、もちろんそんなの頭の中には届かなくて──
「とぅ!」
ぽーん、と前の地面に飛び込む勢いでダイビング。
間一髪のタイミングで、直前まであたしがいた空間を巨大な塊がブワッと凪いでいった。
後ろの方でケニードの「うわっ!?」という声が聞こえたが、振り返る余裕はあたしには無い!
何故ならば、理由は不明だが──あのデカイ鷹はあからさまにあたしを狙っているのである!
「なんでーッ!?」
頭に感じるものすごいガン見の視線に、あたしは悲鳴を上げながら逃げまくった。
なんだこの獲物ロックオンみたいなスゴイ視線は! アレか。あたしを小動物か何かと間違えているのか!
(失敬なッ!!)
あたしは猛ダッシュで走っていた体勢から急停止。靴と地面との間に盛大な土埃を巻き上げながら空を睨み上げ──
(無理!!)
本能に従って再度逃走を開始した。
空から来る襲撃者に、どうやって立ち向かえっつーんだっていうか鳥デカかった! デカすぎた!!
あたしの背後でまたもや力強い羽ばたきが響く。背中に感じる恐ろしいほどの風圧。しかし、おかしい! レメクに見せてもらった『生き物図鑑』では、鷹ってあたしよりも胴体の小さな生き物だったのに!! なんかあきらかにあたしより大きいんですけど!?
「ほにょぉっ!」
右斜め前方に飛び込んだあたしの後方で、ブワッサァッ! という風と音。
ひたすら本能で掴みかかり攻撃を避けるあたしは、本能ゆえにただひたすら全力で安全地を求めて驀進した。
あたしにとっての安全地。
それはとりもなおさず、我が愛するレメクの腕の中のことである!
「とぅぉっ!」
ブワッサーッ!
「んのぉっ!」
バササササッ!
「ほんぬらぁっ!」
バッサッサー。
時に飛び退き、時に横っ飛び、時に前方へ飛び込んで一回転後に走り出すという命がけの逃走をしているあたしの周囲で、逃走劇に巻き込まれた一般都民の驚愕の声が上がりまくる。
全力で逃げるあたしは、土煙をまきあげるほどの勢いでクラウドール邸の大敷地を突破、北区の通路すら踏破して、現在南区の大通りを驀進していた。
ちょうど人の少ない時間帯だったらしく、つい数日前までと比べて人の出は少なかったが、それでもやはりさすがは大通り。道には何人もの通行人が歩いていた。
そんな中を空からの襲撃をかいくぐりながら驀進するのである。当然、時には運悪く踏み台にしちゃったり股の下をくぐりぬけさせてもらったりという事態も発生した。
「きゃああッ!」
シャーッと地面を滑って可憐なおねーさんのスカート下をくぐりぬけたあたしの周囲から、何故か時ならぬ拍手と歓声があがる。空からは猛禽が急降下と急上昇を繰り返してきているというのに、どーして王都の住民ってゆーのは危機感が足りないのか!
てゆか、もしかして、襲われてるのがあたし限定だから見物に回っちゃってる!?
ハタと気づけば、いつのまにか大通りの中央はガランとしていた。かわりに道の左右に人が固まっている。
なにその『貴女のための舞台です』みたいな状態は!?
あたしは目をビカッと光らせ、ちょうど頭上に迫っていた危険を横っ飛びで回避して、道の左端に進路を変更した!
「うわぁあああ!?」「ひっ!? こっち来んな!」「ちょ……鳥でけぇ!」「誰か警備兵を!」「とりーっ!」
途端に沸き上がる黄色い声ならぬ青い声。
やっぱり他人事だと思って見物してやがったな!!
あたしは逃げまどう人を吹っ飛ばす勢いで建物側を走った。よく考えれば鳥が狙いやすい道の中央じゃなく、最初から障害物のある建物の壁際を走ればよかったのだが、こちら側にはたいてい露店の商品が飛び出していたり、荷物が置かれていたりして真っ直ぐに走れないのだ。
「ぬひ!」
っと、余計なこと考えたらあやうく髪の毛掴まれかけましたよ!
「ぅぅううううッ!」
頭のすぐ後ろあたりを掠めていった足に、あたしはさらに走る速度を上げた。
ありがたいことに風は海から吹いてくる。向かい風は走るのにはむかないが、匂いを運んでくるという点においてはこのうえなく優秀だ!
本能と匂いと愛でレメクの位置を察知したあたしは、ただひたすらそれだけを頼りに行き先すら知らない相手の元へと走る。匂いの強さからして、もうそろそろどこかの建物にたどり着くはず!!
あたしはポーンッ! と前方に飛んで二回転。ゴロゴロスポーンッ! ともう一度飛んでから駆け出し、港区にさしかかった直後、大通りの角にあった大きな店に飛び込んだ。
「へ!?」
ちょうどテーブルの上を片づけていたらしい小柄な店員が──どっかで見た顔だぞ? ──ぎょっとした顔でこっちを見てきたが、そんなことはどうでもいい!
あたしの愛が叫んでいる! ここのどこかにレメクが居ると!!
驚いてこちらを見るその他一般客には一切目もくれず、あたしは一瞬の逡巡も挟まず店の奥へ──階段へと走る!
「あ! お、お客……メリディス!?」
厨房の方からぽっちゃり系のおっちゃんが声を上げたけど、そんなのも無視だ!
あたしは速攻で駆け上がった階段の上で一瞬立ち止まる。
ふんふんふん!
(確認完了!!)
向かう先は匂いと愛が指し示す場所!
奥の角部屋!!
「おじさまーッ!」
ズバドゴンッ!!
物凄い音がして、全力の体当たりで開けた扉がそのさらに前にあった扉を吹っ飛ばした。
あ、あれ? なんで扉が二枚も?
目をぱちくりさせたあたしは、きょとんとした顔で部屋の中を見る。
数人で一つのテーブルを囲むような、そこそこ大きな部屋だった。
部屋の中には美味しそうな食べ物が乗った六人ぐらいが囲めそうな円形テーブル。簡素な椅子に座ったレメクと、こちらの背を向けている熊さん。壁際にはカウチがあり、そこには唖然とした顔の黒髪妖艶美女と、同じく唖然とした顔の神殿の熊さんが……
あ、あれ? 熊さんが二人いる??
あたしはぽかんとした顔で周囲を再度見渡し、大きく目を見開いてこちらを見ているレメクへと視線を戻した。
その瞬間、
「!?」
がたゴゴッドガゴッ!
レメクがひっくり返った!!
「えぇーッ!?」
思わず悲鳴をあげつつ、あたしは脳内に先程の衝撃映像を再生させた。
目があった瞬間に何故か仰天した顔で後方に下がろうとして椅子に座ったままだったのでそのまま椅子ごとひっくり返った、というのを一瞬で行われたのだ。全員の視線がレメクに集中したのは言うまでもない。
「レ、レメク!?」
「お、ぉぉ、これは……」
「あらまぁ~」
巨熊、ムッチリ王妃、見知らぬ熊の背中、の声を聞きながら、あたしは慌ててレメクの元に走り寄る。
しかし! 何故だ!!
なんかレメクが床を這うような姿勢であたしから遠ざかる!
あたしよりも先に駆けつけた巨熊ことバルバロッサ卿の腕の中に逃げ込むようにして床を這ったレメクは、どういうわけかあたしから必死に顔を背けている。片手で口を覆ってしまっているうえ深く俯いてしまっているその体は、何を堪えているのかブルブルと震えていた。
(なにが起きたの!?)
なんだろう、その、恐怖のあまり震えて逃げるような有様は!
あたしは愕然とした。
ややあってその原因を探して部屋を見渡し、ビカッと目を光らせる!!
「おじちゃんね!? おじ様に何かしたの!」
あたしが睨む相手は、ちょうど部屋に入った時に背中しか見えてなかった新熊。もとい、ものすごい男前の新顔さんだった。
レメクのような『美形』的男前ではなく、なんというかこう、やたらと漢くさい男前。
彫りの深い顔立ちは実に凛々しく、鋭い眼光には覇気の強さがにじみ出る。がっしりとした体躯は(バルバロッサ卿よりは一回り小さいが)これこそまさに『漢!』と言いたくなる素晴らしさ。はちきれんばかりの筋肉を革製の簡素な服で包んでいるのだが、割れた腹筋とがっちりした胸筋が薄い皮布越しにガン見できた。
まさに男の中の男。スケールがデカすぎて男の中の巨熊としか言いようのないバルバロッサ卿とは違う、誰もが惚れ惚れと見惚れるような人間の男前だった。
(も、もちろんバルバロッサ卿だってオットコマエだと思うけど!!)
しかし! 常に超クールなレメクが身を震わせながら床を這って逃げるなどという、この世の物とも思えない光景を見させられた以上、見知らぬ男前さんを警戒せずにはいられない!
(レメクはあたしが守るのです!!)
熱が放出されてそうなほどのムキムキ筋肉を睨み上げつつ、あたしはテーンッと両足を踏ん張って対峙した。男は驚いた表情で床のレメクを見ていたが、あたしに視線を向け、なにやらひどくしみじみとした仕草で頷く。
なるほど、と力一杯言いたげな表情だ。
──なにを納得されているのかは不明だが。
いや、それよりも──
「あたしが来た以上、おじ様には──」
「ベル! 無事……ぉああああああああああなにやってるんですかバルバロッサきょーッ!!」
意を決し、相手に向かってカッと決め台詞を吐こうとしたあたしの声は、凄まじい勢いで飛び込んできた金髪美形の絶叫にかき消された。
あ! ケニード!!
「クラウドール卿! いったいなにが……って、羨ましい! 羨ましい!! 羨ましいですよバルバロッサ卿!!」
「落ち着け。頼むから落ち着け。てゆかかわってやるから落ち着いてくれ」
「はい!」
そのケニードはあたしや他一同は完全スルーで、速攻レメクの傍らに走り、即座にバルバロッサ卿と役割交代。相手が誰になろうともうどうでもいいのか、レメクは未だに半ばうずくまるような格好でブルブルしている。
(……なんか……)
「……のぅ、末の義妹や……」
(……あたし……)
「妾のこともちっとは構ってほしいのじゃが……」
(……真面目に身構えたのが、すンごい馬鹿馬鹿しいことの気がしてきたんだけど……)
笑いを堪えるような妖艶美女は、このうえない大好物がここにある、と言わんばかりの表情であたしを見ている。
あたしは困ったような顔で知り合いの王妃様を見上げ、ちょっぴり唇を尖らせた。
「おじ様がプルプルしてるのです」
「そうじゃのぅ……妾も初めて見たのぅ……こんな奇行というか……ぷっ」
吹き出した!
慌てて口元を手で覆い、なぜか肉厚王妃もあたしから目を逸らしてプルプル震える。
なんかプルプルが伝播してる!?
「まぁ……なんつーか……別にそこの御仁は今のレメクの現状に関係ないんだが……つーか元凶は明らかに嬢ちゃんなんだが」
脱力しているバルバロッサ卿の声にそちらを向けば、なぜか熊さんもあたしから必死に視線を逸らしていた。空とぼけたような表情で部屋の隅っこを見つめてから、何か言い訳を思いついた子供のような顔でいそいそとドアに向かった。
「おおいかんせっかくの扉が壊れちまってるじゃねーか」
……なんだその棒読みの台詞は。
ジトーッと扉を直すバルバロッサ卿の後ろ姿を見つめていると、後ろの方で「……くっ」というレメクの苦しげな呻き声が。
なんか呼吸困難をおこしかけてる気配がするのだが、レメクを確保しているケニードはといえば、恍惚の表情をしているばかりで介抱をしようとはしなかった。
……なんでだ?
「のぅ、我が愛しき妹や。ぷっ。妾、先程から気になって、くっ、どうにもならぬのじゃが」
笑いを間に挟みながら、むっちり王妃がむちむちと体をよじりながらあたしに問いかける。
「おぬしの、その、口髭は、なんぞ?」
あたしはその声に、大きく目を見開いた。
く ち ひ げ?
「あーッ!!」
「あっはっはっは!!」
そういえばと思い出して悲鳴をあげた途端、レメクが文字通り爆笑した。
なんということだろう!
慌てて手をあてれば、幻ダンディ髭を隠すための布がいつのまにかどこかに行ってしまっている。洗濯干し中には確かにあったのだから、デカ鷹来襲で逃げている間にどこかにいってしまったのだろう。
ってああああああプルプルしてたのはそのためかーッ!!
「ひどいおじ様! ひどいっ! ひどいーッ!!」
もはや堪えようがないとばかりに笑いまくるレメクにかきつかれて、ケニードは「もう僕ここで死んでもいい」と言わんばかりの表情だ。爆笑するレメクなんて正直あたしでも初耳ならぬ初目なよーなそーでもないよーな気がするのだが、ここまで力一杯の大爆笑は紛れもなく初めてだと思う。うん。
てゆかおじ様! 笑いすぎだ!!
「うっわ、俺、長年つきあってきてコレ初めて見た」
「妾も初めてじゃな……」
「私も初めてだな……どれ、記念撮影はこれぐらいでいいかな」
「「「陛下!?」」」
どこからともなく現れてひっそり混じっていた第三者の声に、熊と王妃と陶酔者がギョッとなって叫ぶ。
いつからそこにいたのか、ムッチリ王妃の胸に重量無視の上向き補正をプラスしたような美巨乳女王は、これまたいつのまに大量撮影したのか不明な写真をごっそりと抱えて言った。
「しかし、いいものが見れるからすぐに飛べと言われてみれば、これはおまえの企みか? ポテト」
「ポテトさん!?」
アウグスタの声に、あたしはコトの元凶であろう相手を探して目をギラッと光らせた。
そのあたしの視界の中、アウグスタの肩から出てきた小さな子猫は、青い目をキラリと光らせながら嬉しそうに髭をニュッと動かす。
そして頭の中に響く『声』。
『まぁ、ちょっとしたお茶目だったんですけどね。レンさんがある種の危機的状況になりそうだったので、お嬢さんに乱入してもらおうかなーと思いまして。けどまぁ、髭幼女というのもたまには可愛くていいんじゃないですかね?』
「可愛くないわよ! 笑われてるだけじゃないのッ!」
あたしはシャーッと力一杯威嚇した。
そんなあたしにアウグスタが朗らかに笑って視線を向け、
「まぁ、おまえのおかげであははははははははは!」
台詞の途中で笑いやがった。
笑いにあわせてドサドサドサッと腕から落ちる大量の写真。
蹲ったレメクの後ろ姿やら超笑顔やらが周囲一帯にまき散らされるのに、気づいた男前さんが静かな表情で手に取った。
──ええ。あたしもちゃっかり三十二枚ほど服の中に収納しましたが。
「のぅ、グレン殿」
その男前に、笑いを堪えながらナザゼル王妃がにじり寄る。
「おぬしの望み通り、断罪官殿は全力の笑顔を見せてくれたぞ。約定は果たすべきであろう? ん?」
グレンと呼ばれた男前さんは、しょんぼり涙目なあたしと呼吸困難をおこしかけているレメクを見比べた後、なかなかに素晴らしい重低音声でこう言った。
「まぁ、自力じゃあないけど、これはこれでアリかしらね」
……ん? なんか発音ちょっと不思議系?
てゆかさっき『かしらね』って言った?
目をパチクリさせたあたしを見下ろして、男前さんはフッと大変男らしい素敵な笑顔を浮かべた。
「可哀想にッ。こんなんに可愛い子にオジサマ髭をつけちゃうだなんて! 可愛いから許しちゃうけど、これってあんまりだと思うのよ?」
(?)
??
? ? ? ?
? ? ? ?
? ? ? ? ?
? ? ? ? ?
? ? ? ?
「!?」
ビクッと数秒遅れて飛び上がったあたしの手をゴツイ手がたおやかに握る。
「でも安心して? あなたはとってもカワイイわ! あたしが嫉妬しちゃうぐらいよ!」
『あたし』!?
「それから、そこ! もぅ! いい男が台無し!! クラウドール卿と言えば紳士と評判だったけど、女の子を泣かせるだなんて最低よ!」
『よ』!?
プリプリと怒る男前の言葉に、未だにケニードの腕の中でブルブルしているレメクが、むしろ彼の方が泣いてるんじゃなかろーかという声でこう言った。
「す、すみま……すみません、ベル……っっ」
……いや……なんだ……
なんか、珍しい鼻声だけで全部オッケーだ。
(てゆか本気で笑い泣きですかおじ様……)
後で涙目姿を脳内保存しておこう。きっとお宝映像になるに違いない。
今は手を捕獲されてるので動けませんが。
「そういえば、おじちゃ……おにー……おねにーちゃんは、おじ様となにか約束してたの?」
男前なお姉兄さんは、あたしの声に「んー」と可愛らしく首を傾げる。
「そうねぇ。約束と言えば約束よね。素敵な笑顔を見せてくれたら、いい情報あげるわよーって……って、これ、この子に言っちゃってもいいの?」
「かまわぬよ」
笑いで息も絶え絶えなアウグスタを介抱しながら、ナザゼル王妃がしっかりと頷く。
「その者は、ほれ、おぬしと妾が対峙した、あの屋敷にも来ておった娘じゃ。おぬしは外におったゆえ、見てはおらなんだやもしれぬが」
「そう……あの屋敷にも来ていたの。……そういえば、確かレメク様が腕に抱いてた子と同じ色の頭ね?」
「「『レメク様』!?」」
聞き慣れない呼称に、あたしと同盟者が即座に反応。
なにやら危険信号をキャッチしたのだが、お姉兄さんはそんなあたし達に「あら」と言いたげな顔で笑った。
「何かおかしかったかしら?」
全てがおかしいと思うのはあたしだけか?
「呼び方は人それぞれであろうよ。万人にわかる敬意が込められておるのじゃ、別に文句を言われることはあるまい。断罪官殿をそう呼ぶ者も少なくない。妾の知己だけで二十はおる」
なんと!? そんなにライバルが!!
あたしはさらなる危機を察してビカッと目を光らせた。
いかん! これからはあたしも「レメクおじ様」と呼び名を変えなければ!!
「それよりも、グレン殿よ。他国人とはいえ、この有名な『メリディス』の特徴を知らぬのか? 音に聞きたるグレン・シュナイダーともあろう者が」
あら、とグレンさんは朗らかに笑う。
「評価してくれるのは嬉しいけど、お仕事でもないことをいちいち勉強するのって面倒なの。誰がどんな特徴をもっていてもどうでもいいでしょ? ……でも、そう言われればこういう髪って珍しいわよね。北方の青みがかった銀髪も美しいけど、珍しさではこちらの方が断然上ね。……なんていうか、不思議な色だわ」
まじまじと髪の毛を観察されて、あたしは唇を尖らせて足踏みした。
両手を捕獲されているので動けないが、あたしは早くレメクの涙目姿を見に行きたいのですよ!
「この色の髪と、その美貌、肌から薫る匂いのせいで、この者の種族はひどい扱いを受けておったのじゃ。今も、身勝手な者共から狙われる一族じゃ。もし、おぬしが他の地でこの者の同族を見かけたならば、気にしてやっておくれ」
「わかったわ。あたしも、人を人として見ない連中って大嫌い! ああいう連中こそぎったんぎったんに切り捨ててあげたいんだけど……悲しいわね、あたしみたいなならず者に依頼してくる人って、むしろあっち側がほとんどなのよねぇ」
「レンフォード公爵のようにな」
まるでそれが本題だと言わんばかりに重い声で告げたのは、いつのまにやら復活していたアウグスタだった。
そちらを向いたお姉兄さんの手が緩み、あたしはパッとその場から離れてレメクの傍に走る。
未だに発作と戦っているレメクの傍らに回り込み、床に直座りになってる二人の間に潜り込んでレメクを下ナメアングルで見上げた。
嗚呼! 嗚呼!! 息も絶え絶えなおじ様が!! おじ様が!!
傷ついたあたしのオトメゴコロが完全回復しそうな勢いだ!
(おじ……いや、レメクおじさまー?)
感動を押し隠して心の中で呼びかけると、おおおおお! うっすらと涙を浮かべた潤み目があたしを見つめるではありませんか!!
グッジョブ! グッジョブ!!
「ベル……申し訳ありません……何の覚悟もなく……見てしまったものですから……」
ええ許しますとも許しますとも。その潤んだ瞳だけでもう充分ってなもんですよ!
「ありがとうベル……ありがとうベル……僕は今日という日を一生忘れないよ……」
しかもなんかケニードから一生レベルの感謝までいただいちゃってますよ、ってほーら正気を取り戻したレメクが無表情に戻って立ち上がっちゃったー。
「……ご迷惑をおかけしました」
「いえもうドンと任せてください! ありがとうございました」
ケニードの返答は意味不明だ。
しかし、これでアウグスタに続いてレメクも元通りになったということに。
ほとんど無意識に抱っこしてくれているレメクの腕に大満足で収まりながら、さてあのお姉兄さんはどうなったのかな、とそちらに視線を向けた。
金と黒のムッチリ魔女と、男前な偉丈夫が真っ向対峙。
パッと見ただけなら、あたし達の前にある光景はそう見える。
それにしても金魔女王様の胸は相も変わらず素晴らしい。もっちりとした胸の下で腕組みしているせいで、いつもより割り増しでボリュームが。
さすがにそこには男の衝動で目がいってしまったのか、グレンさんは御物をガン見して言った。
「……素晴らしいわ。なんて羨ましい胸かしら……どうしてあたしの胸はこうなって、あなたみたいにならないのかしらね……」
……注目の意味が想像と違っていたようだ。
あたしは一瞬だけ遠い目になり、すぐに目を閉じて頭を切り換えた。
(この人は女の人。この人は女の人)
少なくともあたしが感じるこの人の魂は女性のソレだ、うん、間違いない!
(この人は女性だ!!)
カッと目を見開くと、あら不思議! そこにはマッチョ体型になってしまったことに苦しむ乙女の姿がバッチリと!!
「世の中には努力と根性だけではどうしようもないこともある。貴殿の胸はそれはそれで魅力的だと思うが?」
「ありがとう! 貴女みたいな素敵な人に言われると嬉しいわ。……そうねぇ……嬉しいついでに、いろいろ喋っちゃいたいけど」
言って、筋肉乙女はニッコリと素敵な笑顔になった。
「けど、ごめんなさい? 依頼人のことは喋らない、っていうのは、この業界では鉄則なの。ベラベラ喋るような人じゃあ、依頼こなくなっちゃうでしょ?」
「まぁ、信頼で成り立つ職じゃからな」
深い理解を示したのはナザゼル王妃で、アウグスタは何かを考える顔になって言った。
「だが、私の知っているグレン・シュナイダーとは、一流の冒険者であったはずだ。暗殺者では無かったと思うが」
「えぇ、あたしは冒険者よ。でもね、冒険者って、言ってしまえば傭兵みたいなものよ。だって、もう冒険するような新大陸も未知の領域もほとんど無いんだもの。大昔ならともかく、魔物もあんまり見かけないしね。そうなると、ほら、あたし達みたいなのって、ざっくり言っちゃえば『ならず者』よね? 仕事の内容によっては即犯罪者だわ。けどお金ないと生きていけないし、生きるためには依頼受けなきゃいけないしねぇ」
困ったものよね、と乙女の悩みポーズを取る筋肉様に、あたしは深い同情を向けた。
そう、お金が無いのは本当に辛いことなのである。なにしろ精神的にも肉体的にもすごい切迫したものがある。お金が無いとご飯を食べれないのだから。
(あたしも何度となく死にかけたし……)
残飯を漁り、力の無い体をひきずるようにしてゴミ箱を徘徊していた日々を思い出して、あたしは遠い目になった。
慰めるようにあたしの頭を優しく撫でてくれたレメクが、筋肉乙女に向かって声を放つ。
「シュナイダー卿」
「ンもう! グレンでいいって言ってるのにっ!」
「……グレン殿」
何故だろう。レメクの体が微妙に強ばっている。
「先の話に戻りますが、あなたがこの国に来られた時、一番最初に繋ぎをとったのは……『依頼人』では無かったのですね?」
(先の話?)
意味が分からず「?」という顔でレメクの顔を見、次いで筋肉乙女の方を見る。
乙女は「んー」と言葉に迷ってから軽く肩をすくめた。
「そうねぇ、そこは話してもいいかしら。あたし達がこの国に入ったのって、バルディアからなのよね。だから、領地的にはあなたの領がハジメテだったわけ。噂はいろいろ聞いたわ! でも、本人に会ってビックリしちゃった。だって、領地近隣では『美食家で裕福なぽっちゃり系の領主』だって噂だったんだもの」
……えらく本人からかけ離れた想像図だな……
「でもねぇ、フィオナ──仲間ね? その子があなたの名前知ってて、聞けばものすンごい色男だって言うじゃなぁい? じゃあ、ちょっと会ってみようって思ったんだけど、領地にはいないって言うし、じゃあちょっと出稼ぎがてら足伸ばして王都に行こうかってことで来たんだけど……困ったわぁ。この国、えらく治安が良くて道中も全然お仕事が無いんだもの。二十年ぐらい前までは無法地帯みたいなのがいくつもあったっていうのに、すごいじゃない。今の王様、がんばったのねぇ」
今の王様が実に照れくさそうに口をもごもごさせながら部屋の端っこに視線を逃がした。
「新顔が増えちゃったから、ちょっと前の話の繰り返しになるけど、補足で言うわね? あたし達がここに来たのも、どうもここが不穏な気配するから、じゃあちょっと稼ぎに行きましょうかってことだったわけよ。詳しくは言えないけど、あたしの仲間に、そういうのを占える子がいるのね。さぁ儲けるわよって来た分ビックリだったわぁ。だってむしろ平和なんだもの、この国。いったいどこに稼ぎがあるのかしらって感じ!」
当てが外れちゃった、と厳つい肩を落とすのを見て、あたしは思わず視線をアウグスタの肩にいる猫ポテトさんに向けた。
ポテトさんは深い眼差しであたしに頷きを返す。
そうして、真面目な顔のまま、両前足で鼻の下にそれぞれ半円を描くジェスチャーをした。
……なにかな? あのジェスチャーは?
「それで困ってたのよね。稼ぎ前だからって今までのお金もパーッと使っちゃった後だったし。王都に来てもお仕事無いし。お腹すいたわー、ってトボトボしてたら、優しくしてくれた人がいたのね。その人がお仕事を紹介してくれるかもしれないって人を紹介してくれたの」
いい人もいたもんだ。
あたしはウンウンと頷いた。
あたしが孤児の時もそうだったが、街の中にはちょっとした噂話などで人手を募集している所を教えてくれる情報通な人が何人かいるのだ。まぁ、正直そういう人は素行のよくない人達なのだが、彼等がいたおかげで死なずにすんだことも多々あった。彼等自身、紹介料みたいな仲介料をお小遣いにしてたところもあったから、持ちつ持たれつであるが、彼らがいなければ野垂れ死にしていた可能性が高かったのも事実である。
ただ、このお姉兄さんのように、見るからに今まで王都に居なかった類の人、つまり『他国人っぽい人』には、なかなかそういう情報は渡らないと聞く。もし仕事がいくとすれば、後ろ暗い系統や危険な系統のものになるだろう。
戸籍が無いと真っ当な仕事が当たらないように、他国人にとっても『お仕事』関係は厳しいのだ。
「まぁ、最初は治安の悪い場所のお仕事だったわけよね。ちょっとあっちこっちに動くからっていうんでお馬さんまで支給されちゃったし。実入りも良かったわね。怖い人達を相手にしなきゃいけなかったけど、飢えた人食い熊の群を殲滅させに行かなきゃいけなかった時に比べればカワイイもんだったし」
……過酷そーな仕事してたんだな……この人……
「で、しばらくしたら、お仕事終わっちゃったのよね。ちょうど王都の方でも悪い人達が一気に処刑されちゃったし。そしたら、今度はまた王都に戻ってくれないかってお話が来たの。で、まぁ……これが、あなた達に会った『お仕事』に繋がるわけね」
(あなた達に会ったお仕事?)
あたしはフンフンと分かった風を装って頷きつつ、内心で小首を傾げた。
途端に頭の中に響く、いつでもどこでも繋がり中の愛通話。
『レンフォード家の街屋敷に私達が急襲した時の話です』
ふむふむ。レンフォード家の街屋敷、というと、アディ姫と一緒にフェリ姫達を探しに行ったときのことですね!
『彼が、あの時、ナザゼル王妃をして容易ならざる強敵とし、足留めに全力を注がなければならなかった相手です』
なるほど! と頷く前に、あたしはその人をしっかと見つめていた。
ナザゼル王妃が足留めした人。
あの時の屋敷にいた人。
依頼。仕事。──黒服の人達。
「暗……!」
「その組織とは別口です。一緒にしてはいけません」
叫びかけたあたしの口を大きな手でやんわりと塞いで、レメクが静かにあたしに言った。
「受けた内容も、おそらくは違っているでしょう。依頼内容はお話いただけませんでしたが、推測はできます。彼──いいえ、彼等は、あの時あの場にいた暗殺集団の方の処分を命じられていた側でしょう」
あたしは目を見開く。
それは、つまり──
「あの黒ずくめ達の、口封じ役?」
「そうだと思われます。あの時にいた者達とは力量が違いすぎますから。面倒になるだろう『彼等』の後始末として雇われたのだと思われます」
レメクの推測に、お姉兄さんは困った顔になっていた。
頷いちゃいけないから口に出さないでー、という気配がひしひしと。
「グレン殿。もうお分かりではありませんか? あなたに依頼を持ちかけた者は、屋敷に巣くう狼藉者を退治してくれ、といった形であなたに依頼したでしょうが、それは偽りの話です」
「……ん~」
困ったわぁ、という顔で、お姉兄さんは悩める乙女ポーズになり、そうして苦笑を浮かべて言った。
「真面目なお話だから、ちゃんと答えてあげたいんだけど、依頼人は裏切れないの。どうしても」
「……では聞くが、グレン殿よ」
平行線になりそうな言葉に気づいてか、アウグスタが声をあげた。
「もし私が貴殿を雇い、正式な依頼として『離せる範囲を出来る限り聞かせよ』と言ったら、その範囲内のものは話してもらえるのか?」
「話そう」
素晴らしい重低音で、グレンさんは男らしく断言した。
なにやら一瞬表情以下全てが一変されたが、すぐにムチナヨッとした先程までの姿に戻る。
「でも、それって仮定じゃない? 仮定に釣られて話しちゃったら、あたし、職失っちゃうし、そうするとうちの子達も困るのよねぇ」
「では、雇おう。我が名において貴殿を諜報兵として雇う」
あっさりと言った女王様の言葉に、しかしグレンさんはグネッと体をねじる。
「兵士は嫌なのよぉ。国に縛られるのって好きじゃないの」
「では諜報要員兼守備役としてならどうだ? 別に国に縛られる必要はない。私が個人的にお小遣いで雇う」
……女王様のお小遣い……
なんとなく遠い目になったあたしの前で、グレンさんは精悍な偉丈夫姿になって重々しく頷いた。
「では、契約といこう。先程の内容では一日あたりの計算になるが、かまわないのか?」
……なんだろう。この豹変ぶりは。
あたしは果てしなく遠い眼差しで乙女からただの男前に戻った相手を見つめる。
同じことを思ったのか、ナザゼル王妃が呆れたような顔で言った。
「おぬし、そちらが『素』か?」
「逆だ」
力強い重低音で大否定。
別に声を張り上げたわけではないのだが、空間がビリビリするぐらいの力が込められた「否」だった。
「あれこそが俺の真の姿だ。だが仕事であれば仕方あるまい。仕事中にはそれ相応の『求められる姿』を維持する義務がある。今の俺はそれをしているだけにすぎん」
……ずっとそのままの方がいいんじゃなかろーか……
おそらく世の女性全てが思うであろうことを心から思って、あたしは深い深い嘆息をついた。
「おねにーちゃん……苦労してるのね……」
「そうとも。このような形は苦痛でならないが、昔から依頼人にはこの姿を求められる。仕方あるまい。仕事であれば、倫理と道徳に背かぬ限り、それが自分のポリシーに反するものであろうとも、割り切って徹するのが大人というものだ。それが出来ないようでは、自分は大人だとは言えまい」
おお。なんかイイコト言ってる。
「依頼人がそれを望むのであれば、俺は無骨な鎧も着よう。楽しくはないが話術で女性を楽しませもしよう。悲しくなるが女性を口説きもしよう。苦痛だが男性の尻を見るのも美脚を愛でるのも顔を堪能するのも我慢しよう! それが仕事であるのなら、全力でやり遂げてみせる程度の常識はある」
……なんか、それを常識って言われると、常識のはずなのに微妙にややこしくなるのは気のせいだろうか?
そしてレメクがじわじわと体を強ばらせて距離を取ろうとしているのだが、おじ様いったい何がありました?
「そうか。では、とりあえず貴殿の仲間を含め、一人頭一日半金貨で雇うというのでかまわないか?」
疑問でイッパイなあたしの前、アウグスタとグレンさんの話はトントン拍子に進んでいく。
「おお。話が早いな。しかもなかなかに太っ腹だ」
「有事の際であれば、貴殿ほどの力量なら一日一金貨以上が妥当だろう。今は平時であるから、まぁこれぐらいだろうな。あと、貴殿に関しては余分に半金貨追加して、一日一金貨としておく」
「ほぅ? 何故?」
「命令だ。うちのレメクにちょっかいかけるな」
「殺生な!!」
恐ろしいほどの真顔で命じられて、グレンさんがものすごい悲痛な顔で絶叫した。
レメクが心からの感謝をアウグスタに捧げているのをヒシヒシと感じつつ、あたしは様々な問いを込めてポテトさんを見つめた。
(ポテトさん。最初の方に言ってたおじ様の危機的状況って、つまり、そういうこと?)
ポテトさんは大変真面目な顔でコックリと頷く。
『ちょっと予想してた形とは違いましたけどね』
あっ。頭の中で声が!
『困ったことに本気で惚れられているうえ、マニアさんと違って有言実行型の危険人物ですからね。ちょっと壁が必要だなと思いまして。今日のことに関しては、情報の見返りにレンさんの笑顔を要求される未来が見えたのですが、レンさんってあなたのことじゃないと偽笑顔以外を浮かべられない人ですからねぇ。そんなんじゃ代替えに別の何を要求されるか、ってところだったので、あなたという突破口を差し向けさせてもらったんです』
そして、何故かまた前足で鼻の下くるりというジェスチャーをする。
大真面目な顔でやられるのだが、アレはいったい何のジェスチャーなんだろうか?
『もっとも、最初の予定ではあなたの所に陛下を連れて行って、そこから乱入する予定だったのですが……』
(それなのに、あたしが自ら現場に特攻してきた、と?)
『ええ。やはり、どうも未来を細かく見れなくなってきてますね。もともと変化が増してきた未来というのは見えにくいものですから、仕方がないといえば仕方がないのですが……』
(???)
よく分からない類の独り言 (?)を言って、ポテトさんは小さな猫肩を器用にすくめてみせた。というか、首をすくめてみせた。
『公爵を追いつめるのに役に立つ人物です。排除するのは得策ではありません。この場を設けてくれた妖艶な王妃殿に敬意を表して、これ以降の介入は出来る限り控えましょう』
そうしてそのままアウグスタの髪の中に消えていくのを見送って、あたしはレメクに深く体重を預けた。仰向くと、なにかな? といった顔のレメクと目があう。
「おじ……レメクおじ様、今日出かけてたのって、おねにーちゃんに会うため?」
「え……えぇ。妃殿下にお話を伺いまして」
なにかひどく動揺したような声で答えたレメクは、こちらを伺うような目であたしを見て言った。
「あの……ベル。笑ってしまったことは謝ります。ですから、その、怒りを解いてはいただけませんか?」
「?」
あたしは首を傾げる。
はて? 怒ってないのだが?
そんなあたしに、レメクは言いにくそうにぼそぼそ。
「なにか、ひどく他人行儀な呼び方になっているのですが……」
その言葉にあたしは絶句した。
名前つけただけなのに!!
「『レメクおじ様』は駄目なの!?」
「駄目というか……何故いきなり呼び名を変えられたのかと」
「……まぁ、慣れてねぇよな、そーゆーの」
なにか事情を察したらしい神殿の熊さんが、出入り口を塞ぐように扉にもたれたままボソリと呟いた。
気配が無かったから忘れかけてたけど、そーいやいたんだっけ。バルバロッサ卿。
しかし、バルバロッサ卿の言葉は確かに「なるほど!」と思うものだった。
なにせレメクは人付き合いが苦手な人なのである。そうそう呼び名をコロコロと変えられるようなこともなかったのだろう。
あたしとレメクは見つめ合い、ほぼ同時に口を開く。
「いっそ名前だけ」
「じゃあ! おじ様に戻したらいいのね!?」
「………………………えぇまぁ……」
ピンときて喋ったあたしと、何かを言いかけたレメクの声が見事に衝突。綺麗に相殺。
なぜかしゅんとした気配を纏いながら頷かれてしまったが、あれ? 何か悪いことしたのかな?
(てゆか何て言おうとしてたのかな?)
首を傾げて問いかけの視線を送るのだが、レメクは視線を逸らすばかりだ。
どーゆーことー?
「……ベル……」
「……嬢ちゃん……」
「……義妹よ……」
そんなあたしに、向こうの他一同が「ぁーあ」的な視線を送ってきやがる。
なにかピンときたなら説明してほしいものだが、彼等にそんなつもりは無いようだ。
「まぁ、グレン殿も断罪官殿と会えたし、グレン殿を陣営に招くこともできたようで何よりじゃな」
苦笑含みのため息をこぼして、お色気王妃がそんな風に口を開く。
「これで妾の役割は終わりであろう。我が義母上よ。そろそろ妾も帰国の時期のようじゃ」
「……ナザゼル」
言葉を受けて、アウグスタは少しだけ寂しげに微笑んだ。
「すまないな。本当なら早く国に帰らなければならなかったろうに」
「ふふふ。なに、我が義母上のためなら、数日帰国が遅くなろうとかまわぬよ。まだ二、三、気になることはある故、出来ればもう少し留まりたいぐらいじゃが……」
「今のおまえも国を背負う身だ。無理はするな」
「……望んだ地位とはいえ、ままならぬものよな」
同じく寂しげに笑って、ナザゼル王妃は甘えるようにアウグスタに身を寄せた。小さな子を抱きしめるようにヨシヨシと抱きしめるアウグスタは、完全に母親の顔になっている。
「おまえの身にいつも光があるように」
「我が義母上の身に、いつも良い風が吹きますように」
互いに祝福をしあうのを見て、あたしもジッとナザゼル王妃を見つめた。
気づいた王妃が、アウグスタから離れてちょっと嬉しそうにこちらに寄ってくる。
「祝福をくれるのか、我が愛しき義妹よ」
「贈るのです!」
はい! とレメクの腕の中から身を乗り出して両手を差し出すと、なんと! 王妃はあたしごとレメクをギューッと抱きしめやがった。
「おぬしらにいつも優しい風が吹くように」
「うわぁあああん! ねーさまの胸がおじ様にあたるーっ!」
「……別にどうとも思わないのですが」
もう祝福どころではないあたしと、胸に関して心底どうでもよさそうな声のレメクに笑って、ナザゼル王妃が離れた。
慌ててその手をとったあたしは、精一杯の思いで告げる。
「いつも、ねぇさまが無事でありますように!」
「いつも貴女の身に、大いなる加護がありますように」
ナザゼル王妃はただただ嬉しげに笑って、あたしの頭を撫でてくれた。
そうして、「ところで」とあたしの口の下を綺麗な指でつつく。
「このお髭はいつまでついたままなのじゃ? 妾は、おぬしの髭顔を覚えたまま別れることになるのじゃが」
「…………」
そうだった!!
あたしはガビンッと硬直する。
色んなコトがあって忘れていたが、あたしの顔には今! ダンディ幻髭が!!
「ポテトさんっ!」
ギッと怒りの視線を向けると、元凶の隠れ家になっているアウグスタが弱り顔になって両手を軽く上げた。
「……すまんな、ベル。あやつはどっかに逃げた」
「そんな!!」
「とりあえず、伝言がある。──『明日には消えますよ』ということだ」
「明日までこのまま!?」
「……ならば、妾は、この顔を覚えて帰ることとなるわけじゃな」
えっ。ナザゼル王妃。王妃様なのに、大々的に見送られて帰るとかじゃなくて今日もう帰っちゃうの!?
ギョッとなったあたしに、今度は立派な羊皮紙を丁寧に胸元に仕舞っていたグレンさんが声をかけてきた。
「ところで、俺も気になっていたんだが。……今仕事じゃないから言葉戻すわね? お嬢ちゃんって、何の理由でここに駆け込んで来たの? すごい勢いだったけど。後から飛び込んで来た人は「無事か!?」みたいなこと言ってたし」
あっ! それも思いっきり忘れてた!!
あたしとケニードはハッと顔を見合わせる。
ぽーんとレメクの腕から抜け出したあたしは、先に頑丈そうな窓に走って顔を外に突きだしたケニードの背に飛び乗った。
「ケニード! あの鳥、いる!?」
「今は姿見えな……いたーッ!!」
「いたーッ!!」
顔を出して三秒で大騒ぎ。
向かいの家の影からバサーッと出てきた大きな姿に、あたし達は慌てて部屋の中に舞い戻った。
「というか、ベル! あれ、あれ、メリディスの鳥だよ!!」
「えっえってゆかなんでそんなのがいるのっ!? てゆかどーやってそんなの見分けるの!?」
「嘴の真ん中に白い線があるんだ。昔から飼育されてる最強の伝書鳩ならぬ伝書鷹だよ。メリディス族を個体毎に見分けて文書を届けるらしい!」
「あたし文書送ってくる相手に心当たりないってゆーか明らかにエサ認定みたいな目で来られてるんだけど!?」
「……あれは、うちの領の鳥です」
ほとんど悲鳴じみた声で言い合うあたし達に向かって、いつのまにやら窓際に寄ったレメクが静かに口を挟んだ。
あたしとケニードはピタッと動きを止める。
「おじ様の「クラウドール卿の」伝書鷹?」
「私の、ではなく、メリディス族の長老の、ですね。前に何かあった時の連絡用にと、一羽譲られていたんです。あなたを拾った時に一度文書を送っていたのですが……その返事にしては、ずいぶんと遅いですね」
不思議そうな声で呟いて、レメクはピィッと指笛を吹いた。
大鷹がひどく嬉しそうな鳴き声をあげる。
(ちょ……!? あたしを襲ってた時とはあからさまに態度違うわよ!?)
さては雌だな!? と目をつり上げたあたしだったが、レメクが窓枠を外して鷹が入れるような大きなスペースを開けるのを見て蒼白になった。
「お……おじ様……あの鳥、ここに、呼ぶの!?」
「? 呼ばないと、連絡が受け取れませんから」
あたしは震え上がってケニードにひしと抱きついた。
ケニードも青い顔になっていたが、しかしその目はメリディス族縁の鳥に釘付けだ。恐怖を押しのけるほどの強い興味に煌めいている。
「彼らはメリディス族には家族意識を持つ傾向がありますから、ベル、あなたが害意や敵意をもたれることはないと思いますが」
「あたし襲われたのに! 思いっきり獲物認定されたのに!?」
「甘えようとしてたんじゃないでしょうか?」
首を傾げて言われて、あたしは愕然と固まった。
あんな怖い甘え方があるかーッ!!
「体が大きいので恐怖を感じると思いますが、非常に人懐こい性質をしていますから、怯える必要はありませんよ。メリディス族以外の場合、かなり慣らさないと攻撃してきますが」
その言葉に重なるようにして、バササーッと羽ばたきの音も勇ましく、鷹にしてはやたらと大きな図体が部屋の中に飛び込んできた。
さすがに「うぉっ!?」と声をあげたのは一番遠くにいた熊さんで、アウグスタとナザゼル王妃とグレンさんはむしろ歓声を上げた。
女性 (ん?)の方が剛胆というか、変なトコロで勇気あるんだなぁ……
ちなみにあたしとケニードは恐怖で声もありません。
「ずいぶんと無茶な飛び方をした痕がありますね」
止まり木もない部屋に入ってきた鷹は、そのまま床にふわりと着地し、トットットという感じにレメクの方へと向かう。
ここに来るまではやたらとあたしを追いかけて来たくせに、どういうことだ。
「まさか、ベルを森に寄越せ、という書状ではあるまいな?」
鳥の足につけられた筒から薄い紙を取り出すレメクに、厳しい顔になったアウグスタが問いかける。
あたしもその可能性に気づいて慌ててレメクを見たが、レメクは「いえ」と紙を丁寧に広げながら否定した。
「もしそうなら、もっと早く連絡が来ていたはずです。そもそも、あの時のは返答を期待しての書状ではありませんでしたし……」
ジッとレメクを見つめていたあたしは、そのとき、強い視線を感じて恐る恐る視線をレメクよりちょい下に向けた。
……見ている。
……見ている。
……ガン見してやがりますよあの鳥が!
「……おじ様……鳥があたしを注目しているのです」
「…………」
「注目しているのですよ」
「…………」
レメクは慎重に広げた薄い紙をジッと見つめたまま、答えを返さない。
やたらと注目してくる鳥の視線に徐々に汗いっぱいになるのを感じながら再度口を開こうとしたあたしは、いつのまにか怖いぐらい真剣な顔になって紙を見つめているレメクに気づいて口を閉ざした。
鳥以外の視線がレメクに向かう中、彼は少しばかり乾いた声でこう呟いた。
「……メリディス族の長老が……倒れたそうです」
なぜか、あたしの胸が鋭く痛んだ。