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毘の華  作者: 逍遙軒
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川中島

「そういえば」

 俺は先ほど雪椿を見つけた時に、武田の城の動きが不思議だった事を酒の肴にしてみた。

「武田の方でも夕飯を食い始めたみたいだね。炊事の煙がもう立ち上ってたよ」

 酒の回った重臣達は「武田も飯の頃合いは忘れぬと見える」などと笑っていたが、唯一虎ちゃんだけは笑顔から真顔に変わっていた。

「広田、その事に間違いは無いか」

 俺は再び旨い酒を呷り、間違いない事を伝えた。

 流石に見間違え出来ない程の煙が上がってたからなぁ。

「そうか」

 一言そう言うと、持っていた盃を台に置いた。

「皆、今宵の宴は仕舞じゃ。これより直ちに持ち場に付くように」

 自らの主の突然の宣言に、名残惜しそうに酒の入った盃を見た柿崎のおっさん。

「御屋形、いかがされた?」

 虎ちゃんは柿崎のおっさんを見て一つ頷くと、ふわりと立ちあがって重臣達を見まわした。

「広田の知らせでは武田勢、今宵早くも夕餉の支度をしていたと聞いた。長陣故に痺れをきらした武田勢が、今宵こそ動く前触れである。儂は武田勢がここに辿り着く前に山を降りてしまう事に決した」

「武田勢が攻め寄せるならば守りの堅いここで迎え撃てば宜しいのではありませぬか」

 と、これは本庄さん。

「おそらく武田勢、夜に忍び寄ろうとする動きを見るに背後を取る心算なのであろう」

 ここでニコッと笑顔になると、俺だけに分かるように「きつつきだ」

 そう言った。

「しかし晴信の思う通りにはさせぬ。晴信は夜中に押し寄せ海津城方面には向かえぬ我らに千曲川を渡らせ、越後に近いその先の八幡原で迎え撃とうと考えているはずだ。これは儂が思うておった所」

「ならば今の内に山を降りてしまった方が備えにぬかりはないかと」

「それではこちらの手の内が読まれてしまうぞ」

「夜まで黙って待たれるか」

「左様、篝火や陣幕はそのままに捨て置け。我らが未だ山に陣を張っておると思わせるのだ。晴信め、兵の半数程もこちらに向かわせる心算であろう。ならばその半分を妻女山に走らせておる間、残る武田の半数を我が全軍で討つ」

 合点が入ったのか、柿崎のおっさんが大声を上げた。

「我らはどこまでも御屋形の下知に従いまする。明朝武田に目に物を見せてくれましょうぞ」

 すっくと立ち上がると盃に残った酒を一気に飲み干し、虎ちゃんに一礼して自分の陣に戻って行った。

 これを皮切りに、各将達が其々持ち場に去り、今夜の宴は終了を迎えるのだった。

 一人残った俺は、虎ちゃんにさっきの質問をしてみた。

「きつつきって何?」

「啄木鳥の餌の取り方を知っておるか?」

「いや、知らない」

「啄木鳥は木の幹に巣食う虫を喰らう為に木の裏側を嘴で叩く。中の虫はその音に驚き巣穴から出て来るのだ。鳥ではあるが、実によく考えておるものよ。儂が聞いたきつつきと、お前が見て来た炊事の煙。これで今宵から明朝にかけて武田勢がこの妻女山を襲うのだろうと思い当たったのだ」

 俺はもう、へぇ。という言葉しか出て来なかった。

 そして夜も更けたころ。

 煌々と燃える篝火をそのまま捨て置き、越後勢全軍が深夜の妻女山を音も立てずに下山して行った。

 緩やかに流れる千曲川の浅瀬を渡り、ゆるゆると八幡原に全軍が降り立ったのは朝方4時くらいかな。夏場だからもうすぐ夜が明けるだろう。

 しかしなんだ、気温が下がって来たせいか靄がうっすらとかかり始めたぞ。

 そう言えば昔どこかで、鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡るって聞いたことあるな。

 まさにそれっぽいね。なんの言葉だったっけ。

 そして辺りが白み始める前に、俺達越後勢は八幡原に布陣を終えた。

 すぐに日が昇り辺りが明るくなったのはいいけど、何これ?物凄い霧で何にも見えないぞ。

 こんな中で武田勢とばったり会っちゃうなんて事が無ければいいな。

 俺の心配を増幅させるように八幡原の平地では濃く立ちこめた霧が風に流され始めた。

 その風に煽られた旗指物が強くはためき不安を掻きたてるのに一役買っている程。

 霧に閉鎖された空間で無数の旗が風に靡く音は意外と空恐ろしく響いて来る。

 全軍息を殺しながらじっと霧中に潜み続けた。

 だいぶ日が登ったみたいだ。たぶん7時くらいにはなったかな。

 霧は流れ続けて視界がだんだんと開けて来た時、何と無く嫌な予感がした。

 それは虎ちゃんも同じだったのか本陣から伝令が走り出し、俺と柿崎のおっさんがいる先鋒に『車懸りの陣を敷け』との下知が届いた。

 車懸りがなんだか分からないが、とりあえず柿崎のおっさんにお任せして付いて行こう。

 そして陣を並び変えたとき、それは起こった。

 霧が流れる八幡原で腹に響く地鳴りを聞く事になったのだ。

 遠くからゆっくりと近づいて来るそれは、聞き間違い様の無い無数の足音。

 そして間もなく、八幡原に残っていた最後の霧が流れ去ると、なんと目の前に武田勢の主力と思われる8千が居並んでいた。

 俺も柿崎のおっさんも、思わず唸ってしまった。

「柿崎さん何これ!無茶苦茶近くに武田軍がいるじゃん!」

「儂に聞くな!そんな事儂も考えてはおらんかったわ!」

 驚きはこっちだけではなくて、武田勢でもびっくりしたようにざわめいていた。

 双方大軍勢での鉢合わせ。

 主力同士の遭遇戦だった。

 完全に視界が開けたそのとき、押し太鼓と早鐘を打ち鳴らし始めた越後勢本陣には「龍」の旗が揚がった。

「懸り乱れ龍の旗が揚がったぞ!いきなりじゃが総攻めじゃ、広田、遅れを取るな!」

 さっきまでのびっくりした表情とは間逆の、如何にも嬉しそうな柿崎のおっさんの顔。

 余程の合戦好きなんだなと改めて思う。

「柿崎さんの命令通りに俺達300人が動くから宜しく頼みますよ」

 柿崎のおっさんはゲラゲラ笑った後に力強く「任せておけ」と云い放っていた。

 こんな人が味方にいれば心強い事この上ない。

 とりあえず俺は先鋒でも後方にいたので、まだ直接敵とは槍合わせしていないが、埃が舞い上がり地鳴りのような足音が轟き、陣鐘陣太鼓の音がけたたましく耳に響く。

 車懸りの陣とは、どうやら先鋒次峰と段々に攻めかかる物ではなく、くるくると其々が受け持つ部隊が回転するように入れ替わって行く戦法のようだった。

 敵に面している部隊が疲れ切る前に後続部隊と入れ替わる為か、打撃を与える割には走り回る以外の疲労は少ないかもしれない。

 双方合わせて2万人が所狭しと走り回る八幡原。

 霧中からの遭遇戦は緒戦から激戦となってしまった。

 合戦が始まって1時間もすると、討ち取りの名乗りがあがった。

「諸角虎光殿討ち取った!」

 遥か遠方からの声が見事に聞こえて来る。

 声量が半端じゃない。

 また少し過ぎたころ、初鹿野何とかさんやら典厩信繁さんとか名乗る人まで討ち取れたみたいだ。

 そして合戦が始まってから3時間くらい過ぎただろうか。

 俺の目の前には運良く敵が現れなかったけど、柿崎のおっさんはもう帰り血を浴びている。

 うゎ、えげつない程グロい。

「広田、お前の人数を貸せ、信玄の倅がこちらに向かって来ておるのだ」

 奮戦する柿崎のおっさんの人数は少なからず討たれていたらしい。

「俺も行きますよ」

 まだちょっとビビリが入ってるけど、今更引き返せない。

「良う言うた!性根の入らぬ小倅とばかり思うておったが見直したわ。ならば広田、付いて参れ!」

 馬を走らせた柿崎のおっさんに遅れない様に付いて行くと、目の前には立派な鎧と兜をかぶった大将が率いている小部隊が見えて来た。

「あれが信玄の倅?」

「そうじゃ、四ツ割菱と花菱の指物が数多く並び、しかもあれだけの美々しい騎馬武者。間違いあるまい」

 言うが早いか再び信玄の倅の部隊に突進していく柿崎のおっさん。

 付いて行くのがやっとだわ。

 柿崎隊と俺の人数を合わせると信玄の倅の小部隊の倍は居そうだ。

「義信の帰り途を塞いでしまえ!広田、お前の人数を義信の後方に回すのだ」

「任せとけ!」

 俺は鞭を引き抜き、くるくると頭上で回した。

 出陣前に唯一300人に教えることができた命令なのだが、単に「付いて来い」というだけのものなのだが、しかしそれで充分。

 付いて来る人数は俺より経験があるから合戦場では迷わない。

 一気に義信隊の脇をすり抜けて後方を分断。

 それを囲むようにくるくると馬を乗り回したとき、柿崎隊が義信隊に突入していった。

 傍目からもみるみる人数を減らして行く信玄の倅に哀れみを持たなくもなかったが、そこはそれ、致し方ないだろう。

 供回りを減らされ自身が顕わになって行く義信。その大将本人が柿崎隊に討たれるのは確実と思われた頃、武田勢から走り寄る一団があった。

 もう目の前まで寄せていたその部隊は、指物に「本」みたいなマークを付けた小隊だ。

 あれれ!?と思ってるうちにするすると柿崎隊に分け入り、5~6騎しか残っていなかった義信を脱出させてしまった。

 用兵が実に上手い。

 今度は今入って来た部隊の大将らしき人物が槍を振るって奮戦をはじめた。

 俺は妙な所に感心していた。

 槍さばきも巧みで、周りを何人もの足軽に囲まれながらも穂先をかいくぐって馬を操り敵を自らの穂先に掛けて行く。

「う~ん、凄い」

 思わず見とれてしまったが、しかし多勢に無勢。

 騎馬が数人で取り囲んだとき、隙間を縫って繰り出された足軽の槍に突かれて落馬してしまった。

 あとは何度見ても見慣れる事の無いシルシを盗る作業だ。

 気分が悪くなるので目を逸らしたんだけど、そのときの勝ち名乗りで聞こえて来た討ち取られた人物の名前は、ヤマモトカンスケとか聞こえたな。

 合戦場で動きが緩くなっていた俺の一隊に柿崎のおっさんの一隊が集まって来た。

「広田、一旦引き揚げるぞ、後備えと入れ替わって少し休む」

 暴れる事が余程嬉しいのか、元気溌剌な柿崎のおっさんに引っ張られて後方に戻ったのが丁度お昼頃。

 太陽が頂点にさし掛かって八幡原は川中島の地を焼いていた。

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