第二話 古屯陣屋にて
天孫暦二四六七年 標準暦一八〇七年 四月
天ヶ原国、小倉藩主の小笠原直睦は、長崎奉行所にてある人物と会っていた。
天領と呼ばれる、津田幕府の直轄領である長崎は彼の所領ではなかったものの、小倉藩はこの長崎の監督、そして九州の外様大名に対する目付役を担う幕府でも重要な藩であった。
彼の眼前にいる会談の相手はというと、アレクサンドル・ペトローヴィチ。
バータル帝国の外交官である。彼とは二年ほど前にこの長崎で会っていた。
以前会ったときに比べ、精悍な顔つきになったような気がする。まるで、なにか重い覚悟を決めて来たかのような、そのような思い詰めた表情をしているようである。それが、直睦が彼に再び会ったときの第一印象であった。
「では、此度の樺太で起きた事件についてであるが……」
「その前に、一つ申しておきたい」
直睦が会談を始めようと口を開いた途端、ペトローヴィチが話を遮るかのように喋りだし、それを翻訳した通訳が語る。
不躾な奴だ。直睦は内心ではそう思いつつも、彼の話に耳を傾けることにした。
「今回の軍艦撃沈事件について、我が国が要求する条件の全てを貴国が承認しない限り、これ以上交渉を続けても合意に至る見込みがない。という考えである」
通訳により語られる彼の言葉を聞いて、もとより重かったその場の空気がさらに重くなった。
「聞こう、貴国の条件とは?」
この流れで、相手から好条件な要求がなされるとは直睦も思ってはいなかった。しかし、聞かない事には話が進まない。
「我が国が要求するのは以下の四項目である。一つ、今回の軍艦撃沈事件について津田幕府から、亡くなった船員への謝罪と十分な賠償がなされる事。一つ、我が国がサハリン。貴国の言葉で言うところの樺太の領有を認める事。一つ、すでに開かれている長崎と馬公に加えて箱館、新潟の二港を我が国に開港し、貿易を妨げない事。一つ、我が国の船が天ヶ原の沿岸を自由に航行するのを妨げない事。以上の四項目である」
彼から提示された四項目を聞いて、その場にいた幕府の役人の表情は一瞬にして凍り付いた。交易港として特例で諸外国に開いているこの長崎と高砂藩の馬公だけでなく、箱館、新潟の二港を開港させることは、この津田幕府が百七十年余り堅持してきた鎖国体制に終止符を打つという事になるからである。
なにより、樺太の割譲など到底認められるものではない。彼は、はじめから我々と交渉する気など無いのではないか、そんな事を疑いたくなってしまう内容であった。
兎も角、重大事を決める権限を持つ人間など直睦をはじめとして、この部屋にいる長崎奉行所に詰める役人には誰一人としていないのである。
「……以前もお話ししたと思うが、開港となると江戸に判断を仰いでからの御返答となる」
「今、ここで約束していただきたい。できないのであればこの交渉は打ち切りとさせていただく」
――あの顔は、これが理由か。
ペトローヴィチの発言は以前にも増して高圧的で、こちらの決断を急いてきている。
「某は、ただの一藩主に過ぎない。そのような大事を決める権限はござらぬ。ここは江戸の回答を待っていただきたい」
「二年前も、そうやって先延ばしにされた挙句、拒絶されたのだ。これ以上、あなた方との交渉を続けるのは無意味だろう。祖国に帰らせていただく」
そう言い残すと、ペトローヴィチらバータル帝国の交渉団は立ち上がって部屋を後にしていく。残ったのは、ばつの悪そうな顔をしながら直睦の顔を窺うばかりの長崎奉行所の役人だけであった。
「なんなのですかあれは、先に非道を行ったのはかの国の軍船でしょうに」
隣にいた小倉藩の役人が、直睦に耳打ちするが、彼の思考はそれとは別のところにあった。
「これは、まずいことになったかもしれんな」
「といいますと?」
「戦になるかもしれん」
直睦の口にした一言に、その場にいた役人の表情は、再び凍り付いた。
ペトローヴィチは奉行所を後にすると、長崎港に向かう籠に腰を落ち着けていた。
「イヴァン。お前に言われたとおりにしたぞ」
籠に揺られる彼は、一言呟くと天ヶ原に渡る前に会ったシベリア総督のイヴァン・スペランスキーと会話を思い出す。
『いいかサシャ。これは我々にとってはチャンスだ。うまくいけば、極東の島国を服従させて奴らののさばるサハリンも手中に収めることができるのだ』
昔からの友人として、彼の事をよく知っているペトローヴィチには、その言葉からこの国を侮っているようにしか見えなかった。
といっても、以前の自分も同じような考えで樺太に軍艦を派遣したのである。しかし、その考えは彼の中で少しづつ変化しつつあった。
暫くすると、坂の上から人の行きかう長崎の港町が見えてくる。そこはまさに活気に溢れ、様々な種族の獣人も天ヶ原の人間と混ざり合い、笑いながら過ごしている光景があった。
エフガザル帝国、蒼獅子の襲来以来より獣人を忌み嫌い、大航海時代の初めまで獣人狩りに明け暮れ、そして今でも彼らに対する差別意識が根深い我々西方国家群の人間からすると、それはまるで信じられない光景である。
技術力に劣るこの国であるが、それを補う獣人という我々の知らない力があることに彼は気が付き始めていた。それが発揮されたのがこの軍艦撃沈である。ここの国民は、未だ我々が手にしていない空を支配しているのである。
このままこの国との戦争を開始したとして、果たして勝てるのだろうか? 休戦中とはいえ、我が国の宿敵である西方の人民皇帝との決着がまだついていないというのに。
「……本当に、うまくいくといいな」
彼の言葉は、祈りに近しいものであった。
天孫暦二四六七年 標準暦一八〇七年 七月
午後になって出てきた雲は、時間の経過とともにその密度を増していった。
荷車の行列の中で、筵がかけられた木箱を満載にした大八車を後ろから押しているカヨにとって、この雲はお天道様を隠し、暑さをしのいでくれるのでとても有り難かった。北の大地とはいえ、夏になると日差しは厳しいものになる。
後ろから強めの風が吹いて、彼女の白い髪を乱していく。しかし、その風の匂いは彼女の慣れ親しんだものとは全く違うものだった。
「……土臭い風」
そんなことをぼやいてしまう。いくら周囲を見渡しても、目に映るのは道の両脇に広がる青々とした木々とじめじめとした湿地帯ばかり。文月に入り、夏真っ盛りとはいえ彼女の故郷である大泊ではあまり見られなかった光景である。
カヨは今、大泊よりずっと北にいった古屯というところにいた。
「なぁ、カヨはさー」
「なに、シノ」
ふいに、前の方から若い女性の声がする。それにつられて汗まみれで湿った白い髪を上げると、カヨが押している大八車の引手、カヨがシノと呼んだ荷夫の後ろ姿があった。彼女の茶髪の後頭部には丸みを帯びた虎耳が見え、後ろからでもその背格好は、当時の小柄な天ヶ原人の中では巨人といわれそうな体躯をしていた。まさに、虎族の特徴をよく受け継いだ背中である。
女とはいえ、狼族であるカヨの力でも人間の成人男性ほどはある。虎族ともなると、それ以上の怪力の持ち主である。ここでは貴重な労働力の一つであることは疑いようがなかった。
「この稼ぎが終わったらどうするんだ? 大泊に帰るのか」
「いつかは帰りたいけれど、今はもう少し外で稼ぎたいかなって気持ち。芭寇の時から厄介になっていた農家の人にはこれ以上は迷惑かけたくない気持ちがあって、村を出ようと思っていたら丁度このご奉公を聞いてね。うちの田畑をその農家の人に売って古屯までの旅費にして来たから、今帰ってもあそこには家族の墓くらいしかないし、それならもう少し出稼ぎを続けたいなあって」
「田畑があるんなら、婿でも貰えば良かったじゃねえか、なんでそうしなかったんだよ」
「私以外の一族が根切りにあった家なんて、不気味がって誰も来ないわよ。それなら使いきれない先祖伝来の土地なんて捨てて、集落から出た方が気が楽ってものなの」
「なんか……思ったより覚悟決めてきてるんだな、家の畑作業が嫌で逃げて来たおらとは大違いだ」
「今からでも帆寄に帰ったらいいのに、突岨山の麓で眺めもいいでしょ?」
「嫌だね! こちとら、威張り散らす酒呑み親父と寝ても覚めても土弄りしている暮らしにゃあ飽き飽きして欠落したんだ! あっちだってすぐに勘当帳外を役人に届けてただろうよ」
この時代、幕府は年貢納入ならびに治安維持上の連帯責任を課すために、五人組制度を設けていた。この関係は年貢納入の連帯や治安維持の相互監視のほか、色々な相互関係が構築されていた。そして、正式な手続きを経ないで他所へ出たまま帰らない者を『欠落人』と呼んでいたのである。ちなみに欠落人となる理由は色々とあるが、その多くは不行跡な若者が農業を嫌い無断で家を出る、いわゆる家出人であった。
ちなみに、家出人が他所で悪事を働いたりすると、家族の者や五人組の者までが連座してお咎めをうけてしまう。そのため家出人を出した家は役所に勘当帳外、あるいは久離帳外を願い出て、現代の戸籍台帳と呼べる宗門人別改帳から外してもらうのが普通であった。
「ってかシノさぁ……あんた、今思ったけれど、欠落人なのになんで幕府の仕事をやれているのよ。欠落人なんかが請書なんて持ってないでしょ」
地方から出稼ぎに出てくるには、宗門人別改帳のあるところの名主から、奉公や出稼ぎに出るものである旨の証明書を発行してもらい、奉公先の主人や借家の大家はそれを確認して請書という物を書く。そして請書を主人、大家の旦那寺に提出すれば主人や大家を戸主とする人別帳に入ることができた。当然、奉公や出稼ぎが終われば奉公先の人別帳を抜いて故郷の人別帳に復帰することになる。
問題なのは、この請書を書いてもらうためには、地元で名主から証明書を出してもらわねばならない。つまり、地元から逃げて来た欠落人なんかが持っているはずがないのである。
「そんなの、口入屋に請書を書いてもらったんだよ」
口入屋、この時代における奉公人や働き手を雇い主に紹介、斡旋していた現代の職業紹介所のようなところである。そして、場合によっては代理として口入屋がこの請書を書いていたのである。
「なるほどね、でもたまには家族のところに帰ってあげなさいよ。まだ会えるんだから」
「……おらより五つも年下だというのに、おっかあみてえなこと言うな……あーもう! 思い出してきたらむしゃくしゃしてきた! この話はここで仕舞いだ」
そう言うと、シノはそっぽを向いてしまった。余程、カヨに家の話をされるのが嫌だったらしい。少し考えれば、二人の境遇には隔絶の差がある。会いたくても会える親族がいない相手にこんな話をされたら拒絶したくなるのもわからなくはない。
彼女に自身の身の上を明かしすぎてしまっただろうか。大泊を出てから、初めて出来た友と呼べそうな相手とはいえ、少々喋りすぎてしまったのではないか。カヨはそんな事を考えてしまう。
それからは、二人の間に静かなときが訪れた。耳に聞こえるのは、砂利道を歩く二人の足音と大八車の車輪が転がる音。そして、コエゾゼミやエゾハルゼミが遠くの山で鳴く声ばかりである。
――にしても、この後は本当にどうしたものか。
カヨは前から空の大八車を転がしてくる荷夫に対して、表面だけの笑みを浮かべながら軽く会釈をしてすれ違いつつ、シノが口にした『この御奉公の終わり』について考えてしまう。
幕府から来た古屯陣屋への荷運びの普請。
バータル帝国の侵攻を警戒する幕府は、天ヶ原人が居住している地域の北限である気屯という集落より、さらに三里ほど北にいったこの古屯に防衛のための拠点を構えることにしたようである。
気屯より北、北樺太と我々天ヶ原人が呼ぶ未開の地は最近まで先住の原住民くらいしかいないものだと思われていたが、二年ほど前にバータル人の探検隊と思われる集団が確認されたのだという。それを受けて去年、幕府からも調査団が派遣されたのだが、樺太の芭寇が起こったことにより幕府の樺太調査は今のところ頓挫していると耳にしていた。
「あのお役人さん、元気にしているかな?」
「何か言った?」
「あ、いや……何も」
自然と言葉が洩れてしまっていたようである。シノに指摘されて焦ったカヨの脳裏には、去年のあの浜が次々と浮かび上がってきていた。
燃える大泊の集落。井戸に投げ込まれた兄。無残に殺された家族。連れ去られて亡骸で帰って来た妹。
思い出すとどうしても悲しい気持ちになってしまう。カヨは頭を振ると、目の前の荷物について考えることにした。
今は、幌内平野を南下してくると思われるバータル帝国の軍勢に備え、古屯の陣地づくりのための資材と兵糧をはじめとした物資の搬入を行っていた。廻船で敷香の港まで運ばれてきた物資は、川船に載せ替えられると幌内平野の真ん中を流れる幌内川を遡上して気屯まで運ばれ、あとは古屯まで陸路で運ぶことになっていた。
その陸路の物資搬入の仕事を幕府が現地の住人に頼り、奉公人を募集していることを聞きつけたカヨも、出稼ぎとしてはるばる大泊からやってきたのである。幕府という確かな雇用主からの仕事、しかも差し迫った脅威への備えということもあり、支払われる銭の額も中々のものであった。
代わりに、何を運んでいるのかについては彼女たちには一切知らされていなかった。目の前で稲藁がところどころ飛び出ている筵に包まれた木箱にも、一体何が詰め込まれているのかなんてまるで分からない。
そして、この古屯陣屋が完成すれば、この稼ぎも終わりということになる。そしたらば次は何をするか、自分のことなど誰も知らないであろう敷香で漁家に住み込みで働くのも悪くないような気もする。鰊漁場への出稼ぎも、それなりに稼げると以前シノが話していた事をカヨは思い出した。
そうなると、暫くはこの目の前の虎族の少女と一緒に稼ぎをするのも悪くはないような気がする。彼女の機嫌が治ったらこの話を振ってみようかと、思案しながら彼女は荷車を押していった。
「ちぃ、また詰まってやがる」
シノの悪態をつく声がしたと思うと、押していた大八車の動きが止まる。幕府の陣屋までは、あと半里もないところの距離であった。荷車の列から頭を出して様子を窺うと、進んでいる道を塞ぐようにして流れる川が荷車の進路を塞いでいた。そこに、仮設の橋として川底に杭を打ち付けて、荷車一台がやっと通れるだけの幅に切り出した板材をただ敷いただけの木橋が架けられているのだが、そこを荷車が交互に一台ずつ慎重に渡るものだから、いつも通行が滞ってしまうのである。
「にしても、暑いなぁ」
「お天道様が雲に隠れたとはいえ、すぐには冷えないからね。しかもこの湿地帯だし」
手で顔を仰ぎながら、カヨは周囲に映る幌内平野を見渡しつつ話す。この湿度は彼女たちに大変な不快感をもたらしていた。樺太の海育ちで湿度とは基本的に無縁であったために、今の環境はまるで蒸し風呂の中にいるようである。
本州では、このような暑さに加えてまとわりつくような湿気もあると聞く。まさにこのような場所なのだろうか、そんな場所に百万もの人がいることが、カヨは俄には信じられなかった。
「この荷がなければ、今すぐにでもあの川に飛び込んで水浴びをしたいのになあ」
「そもそも、この古屯川に川船が入れれば、私たちはこんな苦労をしなくてもいいのよ。陣屋の目の前まで船で来た荷物を拾い上げればいいだけなのだから」
「確かに、カヨって賢いな」
「まぁでも、この苦役のおかげで私たちは稼げているんだけれどね」
「むう……」
そんな事を話しつつ、二人は額から滝のような汗を流しながら自分たちが木橋を渡れる順番を無言で待つ。
この二人は知らない事ではあるのだが、この古屯川は川船が入りこむには水深が浅く、幌内川の舟運についても気屯以北は暴れ川故に船着場の整備がされておらず、幌内平野の中を蛇のように縦横無尽にうねる幌内川の川岸まで原生林を切り開いて新たに船着場を整備するより、気屯で荷を下ろす方が手っ取り早いと幕府は判断していたのである。
「敷香方の荷車は通られよ」
雲に隠れていたお天道様が再び姿を現して、地面を照りつけ始めたころ。カヨ達が木橋を渡る番になり、木橋の通行を統括している役人から呼びかけられる。
「脱輪しないよう、ゆっくりと乗せていってね。ここで荷車をひっくり返したら、弁償でこれまでの稼ぎが水の泡なんだから」
「わかってるって、ここで米俵を川に落とした荷夫が長屋で首を吊ったと聞くし、そんなヘマはしねえって」
カヨの助言を聞きながら、シノは慎重に橋板に大八車の車輪を乗せていくと、ゆっくりと木橋を渡り切っていく。川の水面からくる涼しい風が、火照った彼女たちの肌を優しくなでていく。
「ふう……」
なんとか無事に木橋を渡り切り、安堵のあまりに息が漏れる。この仕事を始めてから、幾度となくこの橋は荷物を積んで渡ってきたが、未だに慣れることはなかった。
ここまで来れば、目的地の陣屋までは目と鼻の先である。顔を上げると、視界の先には西の西樺太山脈、その中の二又山から伸びて来た山裾の上にうっすらと茶色の土塀とその上に組まれた木の柵、そして各藩の旗印が見えてきた。掲げられていたのは、北加伊道では有力な藩であった箱館藩と室蘭藩、そして旗本である幕府の旗印が風に揺られてたなびいていた。
ここまでくると、幕府の侍だろうか、甲冑を着込んだ者や、この暑い中でも裃を着込んだ役人などがちらほらと道端に見かけるようになってくる。こんなところで下手にお喋りなどしては居られない。二人は無言で、陣屋まで続く一直線の坂道を大八車を転がして登っていく。
土塀が目前にまで迫ってくると、再び彼女たちの足が止まった。すぐ目の前には陣屋に入るための表門が真新しい板葺の屋根をたたえながらそびえている。そして、そこに置かれた関所にてやって来た荷車は役人の検問を受けなければならなかったのである。
「そこの者、荷をあらためさせてもらう」
列で待っていると検分のためであろうか、役人がこちらに声をかけながら近づいてきた。
「はい。箱館十組問屋の者です。気屯より荷物をお届けに上がりました。これをどうぞ」
シノは手慣れた手つきで懐から書状を関所の役人に手渡すが、彼女の汗を吸って紙が少し湿気っているように見えた。役人はそれを無言で受け取ると、書状に目を通しながら運んできた荷台に括りつけられていた紐を解き、筵を捲って木箱の中身を検分していく。一瞬、役人が木箱を開けた時に中に詰められた火縄銃がちらりと視界の端に映ったが、カヨはすぐに目線をそらして見なかったふりをした。
役人に手渡した書状に何が書いてあるのか、そして自分たちが何を運んでいるのかは知ってはならない決まりごとである。こういうものは触れないのが身のためだと直感が語り掛けてくる。
「よろしい。順番になったら中へ入られよ」
役人による検分も終わり、陣屋に入る許可を得られるが、目の前でつっかえている荷車の列は動く気配がない。カヨたちは陣屋の表門を眺めながらしばしの小休止を取るほかすることがない。腰に吊るしてある竹筒に入れた水で口を湿らせてから、カヨは陣屋の置かれている場所をじっくりと眺めることにした。
この古屯陣屋は二又山の山裾に築かれているので周囲の湿地帯のような幌内平野より一段高い所に位置している。ここに物見櫓でも建てれば、翼人族に頼らなくても平野部の中心部はほぼ見渡すことができるのではないか、それほど西樺太山脈から突出した丘陵地帯であった。
樺太の海岸線というのは、基本的にすぐに山地が広がるため、浜のすぐ隣に崖や丘陵といった険しい地形が人の往来を阻み、浜歩きですら危険を伴っていた。よって、北樺太から軍を南下させるためには幌内平野を必ず通らねばならない。そのため、ここに陣を敷いていれば、幌内平野を南下しようとする軍勢にとっては必ず障害になる存在である。
「半年からつくり始めたにしてはだいぶできているよなぁ」
それがカヨの抱いていた率直な感想であった。陣屋の中は一日に何度も往来するので、中に入らなくてもある程度の構造は掴んでいる。陣屋の中には峰を削って作った平場が広がっており、すでに小屋も何件か建っている。削った土砂は敵が来ると思われる北側を中心に土塀に充てられているようで、他にも陣屋の外周に回した空堀を掘った土でそれらを構築しているようである。
「噂では、幕府の主力は古屯ではないと聞いていたけれど、こちらもだいぶ力を入れているようね」
「まぁ、そうでないとこっちも仕事に身が入らねえってもんよ」
幕府の樺太における対バータル帝国の防衛は、大きく分けて二つの論がある。
一つは樺太の北に上陸した敵がこの古屯より北方から陸路で侵攻してくるだろうという論、それともう一つは敷香の東、多来加湖の東岸より上陸してきて幌内平野を西進し、敷香に侵攻してくるだろうという論があった。
このうち幕府は、敵の補給が船舶に依存できて比較的に楽である多来加湖上陸を特に警戒して多来加湖の北、富内に陣屋を作って防衛を固めているという話はかねがね聞いていた。
本当であれば、そちらの稼ぎにカヨも参加したかったが、仕事に空きがあるのはこちらだけだったのである。
「お……おい!」
急にシノが声を上げる。それを耳にして前を向くと、今まで列に並んでいた荷車の荷夫が、大事な稼ぎ道具であるはずの荷車を捨てて陣屋に走っていくのである。
「何が起きたっていうの……?」
カヨの目の前では異様な光景が起きていた。陣屋の表門の先にそびえる主殿の玄関に荷夫が大挙して押し寄せていたのである。
「なんだぁ? 一揆でも起きたのか?」
「それにしては、何か様子がおかしいような……」
そう言いかけたところで、彼女の目に表門の前に立てられた一つの高札が飛び込んだ。昨日まではあんなものはなかったはずである。それを示すかのように何人かの荷夫がその前で立ち止まって、高札に書かれている内容を見ては議論を繰り返しているようであった。
『集え、北の防人』
達筆な文字で書かれた墨書きの大きな見出し、下には詳細な内容が書いてあるようだが、それは今のカヨの位置では遠くて読むことができなかった。気にはなるもののまずは荷を運ばねばならない。後で機会があったら読んでみよう。そう思ってその場を去ろうとした時である。
「現地の住人を徴募兵として募るんだってよ」
「そりゃあ、芭寇が攻めてきたらここで戦うってことかい?」
高札を見ていた荷夫の声が、カヨの足を止めた。それを聞いた瞬間、彼女の心の奥底で、何か小さな火がともるような感覚があった。
「……カヨ?」
大八車を押すのを忘れて、その高札に足が向いてしまう。シノの言葉が耳に入るが、そんな事よりも彼女にはその高札を見たいという衝動に抗えなかった。
「出替奉公、齢十六から四十九までの男、または獣人。日当二百文。辺境での任務。絶えざる危険。生還の保証なし。されど、国を守護せし名誉は永久なり。」
木製の板札には、そんな言葉が黒い墨で書いてあった。
『国を守護せし名誉』
この文字から、なぜか目が離せない。心の中で燻っていたものが、次第に大きな炎になっていく。
「おい、どうしたんだよカヨ」
耳の奥でシノの声がする。
しかし、今の彼女は友と呼べる者の声すらまともに耳に入らない。
大泊の思い出が呼び起こされる。ふと、あのお役人の匂いがした気がした。
私は、あのお役人さんのような、誰かを護れる強い人になりたいとどこかで思っていた。憧れていた。
その憧れに近づける好機が今、目の前にある。
「よし」
この瞬間、彼女の次の奉公先が心の中で決まった瞬間であった。
津田幕府の幕吏である鷲矢八太郎は、古屯陣屋に最後の別れを告げに来ていた。
彼の参加した測量調査は、結局のところ何の成果も得られず、一年ほどで樺太から引き上げることになった。
樺太の芭寇が発生してからというもの、調査団の主要な役人は入れ代わり立ち代わりで江戸から調書のために出頭を命じられ、それもやっと落ち着いた頃には、すっかりバータル帝国とは緊張関係になっていた。
四月に行われたという両国の会談では、お互いの非道を非難するに終始し、バータルの外交官は交渉打ち切りを幕府に言い渡すと国に帰っていったという。交渉打ち切りという外交手法は、西方の国々ではその国との戦を意味することもあると知った幕府は、たちまち大混乱に陥った。
西比利亜から、いつ樺太にバータルの軍が上陸してくるともわからない。そんな中で、未踏破であった北樺太の測量や鈴谷川の砂金調査などという悠長なことなどやっている場合ではない。ほどなくして幕府から、調査団に引き上げの命令が下ったのだが、古屯陣屋にいる箱館藩の役人から『戦場となる多来加湖と古屯の周辺地図を作ってほしい』と急な依頼をされた。
地図というのは軍を動かす時において、最も重要な情報である。それは調査団も認識していたが、それを始めてしまうと幕府からの引き上げ命令に背いてしまうことになる。
とりあえず、やることのない砂金調査の人員のみを先に帰すと『江戸のことなど無視してしまえ』と急かしてくる箱館の役人を何とかなだめつつ、幕府から地図製作の追認を得てから測量組は作業に取り掛かった。バータル帝国が襲来してくる公算の高い多来加湖から先に調査を済ませ、この古屯周辺の測量も先週には終わらせて、地図の方も今日やっと完成したのである。
もう、この地ですべきことはやり尽くした。あとは、箱館藩の役人に製図した地図を受け渡して江戸に帰るだけである。
「はぁ……」
思い出しただけでも、思わずため息が漏れてしまう。この樺太ではいろんなことがありすぎた。
軽く頭を振って気を紛らわすと、八太郎は古屯陣屋の中でも一番大きな屋敷に入っていく。陣屋に建っている他の建物が板葺きの屋根なのに対して、この屋敷だけは黒い瓦葺きの屋根をしていた。
「天文方の鷲矢でござる。侍大将殿、蓮見侍大将殿はおられるか」
「うむ、おるぞ」
屋敷の玄関先で名乗りを上げると、奥から声がする。その声に導かれるままに、八太郎は青く日焼けのしていない畳の間を進んでいく。歩いているときは折りたたんでいるとはいえ、背中に翼のある翼人族は幅をとる種族である。そんな彼でも自由に動き回れるだけの広さのある襖をくぐると、
「失礼いたします。蓮見殿」
「おう、ようやくできたか、いやはや待ちくたびれたぞ」
そう言うのは、黒く立派な顎鬚を蓄えた人間の男。彼がこの古屯陣屋の指揮官である蓮見殿である。
言葉だけは八太郎に投げかけてはいるものの、彼の目線は畳に広げられた樺太の大地図から一切離れることはなかった。
「どれ、ワシに見せてみよ」
蓮見殿はそう言いつつ、目線を大地図から離さずに右手だけを八太郎に差し出す。物事に集中しているときの彼はいつもこうであった。
「はい、こちらに」
最初こそは戸惑いを覚えたものの、八太郎も慣れてしまった。その差し出された右手に、できたばかりの地図を握らせる。
「さて、どれどれ……」
ここでやっと彼の目が大地図から離れ、八太郎の持ってきた古屯の地図へと向かうと、再び彼の動きが止まった。
「それでは、依頼された物は届けましたので、某を含めまして測量組はこれにて江戸に帰らせていただきます」
そう言い残すと、八太郎はすぐにその場を立ち去ろうとした。その場にとどまっていては、また何か依頼をされそうであったからである。
前例はあった。多来加湖周辺の地図を届けたら『周辺の海の水深を測ってくれ』と言われたり、古屯では『樺太西岸より、西樺太山脈を踏破できる道があるか空から見てくれ』など幾度となく無理難題を押し付けられ、彼としてはもう辟易していた。
――これ以上、付き合ってたまるものか。
そんな思いで、彼に背を向けた時である。八太郎の入って来た玄関から人の気配がした。それも複数である。
「蓮見殿、徴募兵になりたいという者達が見えております」
「おぉ! 来たか来たか!」
玄関からの声を聞いた途端、蓮見殿はそれまで微動だにしなかった顔を上げると、腰を上げて裃を揺らしながら玄関へと駆けていく。八太郎はそれを呆然としながら見送ることしかできなかった。
後になってついて行くと、笑顔で話している蓮見殿と、陣屋の表門から玄関にかけて押し寄せる群衆が見える。その数は十人どころではきかない。二十人、下手をしたら三十人はいるのではないか、そのくらいの人の波が押し寄せてきていた。
「うむ、大した献身である。国許の両親はさぞ誇らしかろう」
蓮見殿が話している相手は、身体が土で汚れ、身なりも貧相な庶民ばかりである。八太郎はその中に二、三人ほど見覚えのある顔があった。この陣屋へ荷を運んでいた荷夫達である。
「蓮見殿、これは?」
「これか、実は先刻からこの陣屋に一つ、種を蒔いた。人目のつくであろう表門の前に徴募兵を募集する高札を立てたのだが、その立てたそばからこれよ。看板一つ立てただけで、実に多くの兵が集まるわい」
目の前の男が何を言っているのか、八太郎にはまったく理解できなかった。それを理解し、この男のやらかした事の重大さに気が付くには少し時間が必要であった。
「徴募兵……って、今から戦でもなさるおつもりか?」
彼の話が突拍子もなく、頭が痛くなる。今は、バータル帝国の『侵攻の恐れ』があるだけで『戦が始まった』訳ではないのだ。いくら何でも、この彼の行動は性急が過ぎるように感じられた。
「ワシはあいにく手妻師ではないのでな、何もないところから兵など出せんのだ。それに、敵が来てから徴募を始めても俄作りでは話にならん。今からこやつらには、うちの正規兵に負けないだけの兵に仕上がってもらわねばならん」
「しかし……江戸にはなんと申し開くおつもりか!?」
目の前の箱館藩の侍大将は、幕府に無断で兵を集めている。バータル帝国の脅威があるとはいえ、これは『謀反の恐れあり』と幕府から見られても仕方のない事であった。
「なぁに、江戸がなんだ。奴らの悠長な返事なぞ待っておったら、ワシらはここで野垂れ死んでしまうわ」
まただ。製図以来の時も『江戸のことなど無視してしまえ』と言っていたのも彼である。こうも話が嚙み合わないと、彼の頭痛は酷くなるばかりであった。
「だとしても……銭は如何するおつもりか。造船業で潤っている箱館藩といえど、そんな余裕はありますまい」
戦国の終わりごろから箱館は、北加伊道の原始林を活かした造船業で財を成してきていたが、高砂藩への天ヶ原人の進出、開拓による大型船需要の高まりによりそれは一気に華開いた。それは、米が育たないという環境的不利をはねのけてなお、陸奥国の諸藩を含めた北国で一番の雄藩に押し上げるほどである。
「銭なら当てはある。それとも、鷲矢殿も『当事者』として彼らに教鞭を振るいたくなったのかね」
ニヤリと笑みを見せる蓮見殿を見て、八太郎は背中に冷たいものを感じた。このままでは、また厄介ごとに巻き込まれる。そう直感が警鐘を鳴らしていた。
「……これにて失礼させていただく」
そう言うしか、彼に残された選択肢はなかった。こんな破天荒な男と幕府に楯突くなど、まっぴらごめんである。
「うむ。ではさらばだ」
それを見透かしていたのか、蓮見殿の返事はいかにもあっさりしたものであった。
彼に見送られながら、八太郎はしずしすと古屯陣屋を後にしていく。
「こっちだぞカヨ!」
陣屋の表門をくぐろうとした時、目の前から駆けてくる二人の少女が目に入った。
一人は虎族、もう一人は狼族の少女であった。
「あ……」
狼族の少女と目が合う、その紅色の瞳には見覚えがあった。忘れるはずがなかった。
二人の間に、重い空気が流れる。
「ワシにできるのは、進むべき門を示すこと。門の向こうには危険が待っている。門扉を開くのはおぬしらだ。望むなら連れて行こう」
後ろでは、蓮見殿が詰めかけた荷夫達に、大きな声で語り掛ける声が山に木霊すように聞こえている。小走りで駆けて来たこの二人の少女が目指すところなど、この陣屋の中では一つしか考えられなかった。
「失礼」
八太郎は頭を下げると、その場を去っていく。彼女たちを止める謂れなどない。そう己に強く言い聞かせながら歩いていく。
ここにはないはずの海の香りがする気がする。それに顔をしかめ、奥歯を強く噛みしめながら彼は、その場から去っていった。
「なあカヨ。今の翼人族の役人は知り合いか」
「まぁ、そんなところ」
「私に、生きる希望をくれた人よ」
鷲矢八太郎は、暗澹とした気持ちで北国廻船に乗り込んでいた。
あまりの落ち込みように、測量組の仲間の何人かから励ましの声がかけられたが、それに彼は生半可な返事を返すのみで、ずっと外の景色を眺めていた。
廻船は、敷香の次の寄港地である大泊を発ち、再建された集落が濃霧の中へと消えていく。
一年ほどで大泊の集落もずいぶん立ち直ったようだ。しかし、それは国境警固として派遣された幕府艦隊の停泊地という後方拠点としての復興であった。
船の前方より、法螺貝の音色が聞こえてくる。見ると大泊に入ろうとしている真っ黒に塗られた廻船であった。
この黒い廻船は、箱館藩が樺太に向かう船を対象に、船体を黒く塗るように布告を出したためである。その理由は民間の船も軍船であるとバータル帝国に思わせ、天ヶ原人の港に接近するのを躊躇させるためであるという。
もちろん発起人は、あの蓮見殿である。
首から下げていたお守りの角札を強く握りしめる。もどかしい気持ちがいつまで経っても消えない。何が正しいのか、彼にはもうわからなくなっていた。
そんな彼を乗せた北国廻船は六日後、北加伊道でも箱館、室蘭に次ぐ大きさの港町である小樽にたどり着いた。
この地に降り立った八太郎は、一つ立ち寄りたいところがあった。
宿場町を歩いていくと、一つの商家の前で立ち止まる。彼の上に吊ってある看板には「町飛翼屋」と書かれていた。
「やぁ、久しいね」
「鷲矢殿!」
中に入ると、元気な若い声をした翼人族の男が出迎えてくれる。樺太の芭寇にて一緒にバータル帝国の軍船を攻撃した伝吉であった。
今は小樽で、本業である飛翼屋の仕事を続けていらしい。どうも、樺太で仕事をするのは彼にとっても後ろめたいものがあったようである。
「やっと樺太での仕事が終わってね。江戸に帰るついでなんでちょいと寄ってみた。どうだい仕事は?」
「えっと……それなんですがね……」
伝吉は、目線をそらしながら言葉を詰まらせる。それを見た八太郎は、眉をひそめた。
胸騒ぎがする。どことなく、嫌な予感がした。
「今しがた、大泊から飛翼屋の伝令が来ましてね。樺太の北に、バータル帝国の軍勢が上陸したそうで」
重々しく口を開いた伝吉の言葉に、八太郎は驚きを感じなかった。しかし、考えられる中では最悪の話であった。
「あっしはこれを早馬として、箱館まで伝えなきゃならねえんですわ」
「そうか。忙しいところ失礼したな」
それだけ言うと、八太郎は伝吉の飛翼屋をあとにする。
冷たいものが彼の首筋に落ちる。空を見上げると、黒い雨雲が空を覆い、ぽつぽつと大粒の雨が降り始めていた。
古屯陣屋を去ったのが、ちょうど十日前の事である。
「あの人には、未来が見えているのか……?」
半ばうめき声のようなものが口から出ると、曇天の空に人知れず溶けていく。潮の匂いを含んだ冷たい風が、彼の身体を突き抜けていった。
八太郎は、蓮見殿の事が怖くなってきていた。




