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第一話 樺太の芭寇

天孫暦二四六五年 標準暦一八〇五年 冬


 ある異国人を乗せた一隻の帆船が寒空の長崎を去ろうとしていた。

 彼の名は、アレクサンドル・ペトローヴィチ。西の大国であるバータル帝国の皇帝より派遣された外交官であった。

 彼がこの長崎に来た理由は、交易を閉ざしているこの天ヶ原の幕府と交渉し、通商の開始を求めることだった。

 吹き付けてくる冷たい海風にも構わず、船尾から長崎の街並みを見つめる彼の表情は大変険しいものであった。

 半年にも渡る交渉は、幕府が通商を拒絶し続けた結果、全くの無駄足で終わった。

 それどころか、他国の外交官が自国民と接触するのを恐れたのか、彼はこの交渉の間、幕府が用意した邸宅から一歩も外に出ることが許されず、事実上の監禁状態であった。

 水平線に沈みゆく島影を睨みつつ、彼の頭には一つの考えが揺るぎないものとして存在するに至った。

 この天ヶ原という野蛮な国は、武力をもって開国を要求するほかないと。




天孫暦二四六六年 標準暦一八〇六年 5月 樺太


 尾根を登りきったところで、木々が途切れて急に視界が開けた。それと同時に、潮の香りのする少し強めの風が、艶やかな肌を通り抜け、白い髪をそよがせていく。

 カヨは、思わず自らの先端が丸みを帯びた三角形の狼耳を伏せさせた。風の音や、耳毛が舞って痒くなるのが耐えられないのである。

 吹き込んでくる風は厄介ではあったが、それでも眼前に広がる景色には彼女も思わず息を呑んでしまう。

 紅い、宝石のような輝きを放つ瞳が映し出すのは、青空の下、大きな口を北加伊道(ほっかいどう)へ向けて開けている亜庭湾(あにわわん)の景色であった。朝までかかっていた霧も今ではすっかり晴れて、晴天の青空が果てしなく広がっている。これなら水平線の先まで伸びている能登呂半島も今日は古江の方まで見通すことができるのではないか。そんなことを考えながらカヨは、手ごろな岩を見つけると背中に担いでいた竹籠を立てかけてから腰を落ち着かせると、腰にぶら下げてきた竹筒を手に取り、中の水で口を湿らせる。

 ここまでの山道で呼吸が乱れたわけではない。まだ十五になったばかりの彼女にとって、こんな山道など造作もない。それより、山に入ったら父より教えられたこの場所で、この景色を時を忘れたかのように眺めるのが、彼女の中ではお気に入りとなっていたのだ。

 能登呂半島を沿うように、一艘の船がこちらに向かってくるのがぼんやりと見える。おそらく、天ヶ原の本州から北加伊道に寄って来た北国廻船(ほっこくかいせん)だろう。今回の積み荷も米なのだろうか。

 米を食べたくても、青森以北では夏の日照時間が長すぎるせいなのか、本州の水稲を持ち込んで育てたとしても草丈ばかりが伸びて、肝心の実をつけてくれない。なので、こんな北の辺鄙で米を食べたければ本州から船で運んでこなくてはいけないのだ。と、いつか箱館より船で視察に来ていたお役人が話していたのを思い出す。その役人は、江戸で植物に関する学問を学んでいたらしく、その役人の植物のうんちくはとても面白く、数年たった今でも記憶によく残っていた。

 もっとも、百姓の身分であるカヨが米を口にすることなど、ハレの日くらい特別な日だけである。普段は、先住の原住民と変わらない鮭や鹿肉の汁物か、豆や稲黍を混ぜて炊き込んだご飯を食べていた。

 白米なんて、最後に食べたのはいつだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、海を眺めているのにも飽きてきた彼女は、その目線を北の方に向ける。そこには彼女を見下ろすようにそびえる鈴谷岳が、木々の間から少しだけ顔をのぞかせていた。皐月に入り、その山肌は集落と同じく新緑の季節を迎えているようである。新芽の葉が亜庭湾より吹きあげてくる潮風に揺られて白く輝いていた。

 樺太も北に行けば、突岨山といった雄大で美しい山もあるにはあるのだが、このお椀のような形の鈴谷岳を見て育ってきたカヨにとっては、最も親しみのある山である。

 にしても、いい天気である。空を見上げれば、どこまでも明るい蒼い空が広がっていた。

 朝の畑仕事を終えてから山菜取りに入ったので、お天道様はもうてっぺんを越えそうなところにいる。暑すぎない初夏の陽気に涼しい海風。昼寝をするのにこれほどの好条件はなかった。

 カヨは、そっと岩に立てかけていた竹籠の中を覗き込む。中には道中で採取した蕗の薹(フキノトウ)や二輪草、蝦夷延胡索(エゾエンゴサク)、そして自分の家では食べないものの、ネギが食べられる近所の住人に配るための行者大蒜(ギョウジャニンニク)などの山菜が籠の半分ほどにまで埋まっていた。これだけ採れば、少しばかり横になっても罰は当たらないだろう。

 そう思った彼女は、寝心地のよさそうな草地に寝転がると、そのまま穏やかな夢の世界へと旅立っていった。


 カヨが目を覚ましたのは、頭にある二つの狼耳が奇妙な音をとらえた時であった。

 耳に入ってくるそれは、遠い雷鳴のような音であった。

――こんな晴れた日に、雷が落ちるの?

 寝ぼけてでもいるのだろうか、彼女の頭の上の空は、昼寝をし始めた時と変わらない晴天の青空が相も変わらず広がっている。やはり寝ぼけていたのだろうか、抱いた違和感を疑問に思ううちに、また雷鳴が周囲の空気を震わせる。この音は亜庭湾より響いているようだった。

 なんなのだろうか、音の主を確かめてみたい、最初はそんな好奇心だった。

 横になっていた草地から立ち上がると、目をさすりながら海の方を見る。狼族の遺伝を引き継いで生まれた者の宿命として、目がよくなかった彼女の目でも、それははっきりと見ることができた。

 能登呂半島の付け根に位置する留多加(るたか)に、一艘の船が浮かんでいた。

 いつも見ている北国廻船とは違う。見たことのない船であった。帆が上下で分かれ、帆柱が何本もそびえる異形の船が、白い煙を吹き出しながらこちらにゆっくりと近づいてきていた。

 違和感に気が付いたのはその直後であった。留多加の村から黒い煙が立ち昇り始めたのである。

――攻撃されている、のか。

 ようやく、そのことに気が付いた。また船から白い煙が噴き出し、遅れて雷鳴のような音が山肌を震わせる。その音は先程よりも大きいような気がした。

 カヨは狼狽した。息苦しさを覚えるほど胸が高鳴り、膝が山を下りていないのに頼りなく震えている。彼女の抱いていた好奇心が、みるみるうちに恐怖心へと塗りつぶされていく。顔から血の気が引いているのが自分でもわかった。その間にも船影はみるみるこちらに近づいてくる。

 集落から、半鐘を打つ音が耳に入ってくる。山菜採りどころではなかった。今すぐ山を下りて、家族を山に逃がさなくてはいけない。黒煙の上がる留多加から彼女の住む集落までは直線で五里もない。残された時間は僅かであった。

 頭が理解するよりも早く、竹籠をひったくるように掴んで背中に背負うと、自分の足は亜庭湾を背にして登ってきた山道を転がるように下りていった。海からは雷のような轟音が響き渡るが、後ろを振り返っている余裕などない。

 もう足元など見ずに、死に物狂いで尾根筋を駆け下りていくが、それが命取りであった。気が付かずに苔の生い茂った岩肌に足をかけてしまい、足を滑らせてしまった。

 しまった。そう思った時にはもう手遅れであった。湿った苔が纏わりついた岩は、氷のようによく滑る。次の瞬間、目の前の天地がひっくり返り、後頭部を岩に強打し、彼女の意識は暗転した。

 気が付いた時には、岩の上で大の字になって伸びていた。

 後頭部にのみ鈍い痛みがする。背中から転んだはずであったが、背負っていた竹籠が衝撃を打ち消してくれたらしい。潰れて見るも無残な姿を晒している竹籠を無言で眺めながら、打ち付けた後頭部へ手をやると、ぬめりとした生暖かい感覚があった。どうやら血が出ているようである。

 それでも構わず、カヨはよろけながら立ち上がると、山を走って下りた。転んだ時に散らばった山菜を踏んでも気に留める余裕などない。

 静かすぎる。

 気を失う前まで鳴り響いていた雷鳴も、集落の半鐘も今はしない。ただ、木々を揺らす風の音だけが耳に入ってくるばかりである。それが余計に不気味で、彼女の心を心配にさせた。

 やっとの思いで麓へと飛び出したカヨは、最後の力を振り絞って家まで駆けた。鼻に、焦げ臭いにおいが纏わりつく。視界の先には幾筋もの黒い煙が立ち昇っていた。目の前の光景を信じたくない、その一心で足をひたすらに動かした。

 集落の入り口を示す、石垣に囲われた一本松のところに辿り着いたところで、彼女は人の死に出会った。

 心臓の鼓動が耳の中でうるさく響く。それは集落の人達であった。お隣の親父さんや近所の幼馴染、漁師や商人など、どれも見覚えのある顔が、火縄銃や刀、鋤や鍬を握りしめ、顔や胴体から血をにじませながら壮絶な表情をしながら固まっている。外傷を見ると、えぐられたような跡が目に入る。カヨは、近所の農民が撃ってきた鹿の胴体に、おなじような傷があるのを見たことがあった。

――鉄砲持ちが、近くにいる……?

 身体を動かさずに目線をあちこちに向ける。この集落は、一番近い海岸から少なくとも十町ほどは離れていた。そんな遠距離を狙い撃てる鉄砲なんて見たことがない。父や仲間の猟師が持っている火縄銃では、いくら射撃の名手でも一町が限界といったところだろう。つまり、彼女の中での常識でそれは『敵が上陸してきた』ということを意味していた。

 急に、周りの景色が怖くなってくる。今にも、燃えている建物の裏から敵が飛び出してくるのではないのかと思うと、恐怖で仕方がなかった。

 今すぐ逃げなければ……! でも家族は? そんなまとまりのない思考が、頭の中で浮かんでは解決することなく積み重なっていく。とりあえず家の方に歩いてはいるが、目線が落ち着かず、色々なところを意味もなく見つめてしまう。

 無性にのどが渇く、確か、ここから一番近くの井戸は集落の中心にある商家の脇にあったはずである。記憶を頼りに行ってみると、燃え尽きて黒い柱だけになった商家の裏路地にひっそりと、木桶で囲われた共同井戸がまだ焼けずに残っていた。

 水を汲もうと、釣瓶にかけられた縄に手をかけ、井戸の底を覗き込んだ時、彼女はそれと目が合ってしまった。

「あ……」

 井戸の底で、折り重なるように並んだ骸。その中にカヨと同じ白い髪色、同じ紅い瞳をした狼族の男がいた。それは、カヨの兄であった。

 カヨは、腰を抜かすように井戸から反射的に離れてしまう。今見たものが信じられない。締め付けてくるような胸の痛みと、腹の中からこみ上げてくるものを必死に耐えながら、恐る恐る井戸の中を再び覗き込むが、やはりそれは物心がついた時から一緒に遊び、些細なことで喧嘩をしては泣かせられ、そして頼れる兄の顔であった。あの眩しい笑顔は血糊で汚れ、彼女と同じ紅い瞳は輝きを失ったまま、井戸から覗く小さくて青い空を鈍く反射していた。

「……ごめん」

 カヨは、身内の死に歯を食いしばりながら、炎に包まれた家々の並ぶ街道を最後の力を振り絞って走り始めた。彼女には、兄の供養よりも先に確かめねばならないことがあった。

 心の臓がはちきれそうになり、最後はよろけるような足取りながらも、我が家にたどり着いた。

 目の前に広がる情景に、カヨは絶望的な気分になっていた。目の前では自分の考えていた『最悪の光景』が広がっていた。

 家が燃えている。

 庭には両親と祖父母の亡骸が横たわっていた。皆、どこかを鉄砲で撃たれ、庭には赤い血だまりができていた。目の前の状況に変わりはないというのに、意味もなく瞬きを繰り返してしまう。

 もう限界であった。もはや立っていることができない。崩れるようにその場で膝をついた。

 まだ、妹の行方が分かっていないのだが、この絶望が広がる集落で、これ以上の悲劇を探す度胸など、彼女の中にはもう残っていなかった。

 人の声がする。力なく振り返った彼女の瞳は、燃える集落の中を歩く人の集団を捉えた。その人間達は俵のようなものを担いで嗤っている。それはまるで、鬼のように見えた。

 それが、この惨劇の下手人達であることはすぐに分かった。しかし、今のカヨにはそれに立ち向かう勇気も気力も残っていなかった。ただ茫然と、浜へと向かっていく集団を見送る。それが、仇討ちの好機だと気が付いた時には、鬼達は小舟に乗り込んで沖の船へと漕ぎ出していた。

 彼女に残ったのは、何もできなかった虚無感と、何もできなかったという恥だけであった。

 悔しさのあまり、頭を地面に打ち付けるとその場で蹲る。頬を伝う涙が、地面に小さな染みをつくるが、周囲の熱ですぐに乾いていく。

「何故……このような仕打ちを受けなければならないの……?」

 その問いかけに、答えるものは何もない。

 お空のてっぺんにいたお天道様が、黒い煙でその姿を隠している。彼女は涙を流しながら、それを見上げることもできなかった。




「留多加と大泊の村がバータルの軍船に襲撃された……?」

 その一報を、幕府の幕吏である鷲矢八太郎が耳にしたのはその日の夕刻、日没直前のことであった。

 彼がこの地に来たのは、測量調査をして樺太の地図を作るための調査団の一員としてであった。北加伊道までの正確な地図は、箱館藩の尽力もあって幕府も持っていたのだが、それより北、樺太の地図は未だに持っていなかった。さらに言うと、天ヶ原人の入植地は多来加湾(たらいかわん)の北端である敷香(しすか)までであり、文献として記録があるのは、敷香に流れ込む幌内川流域を簡単に調査したものだけである。その流域の外や、さらに北の地域は未踏破地域とされていた。

 そんな中、去年になって天ヶ原人の居住する北限の気屯において、バータル帝国の探検隊が北より現れるという事が起こった。その時は両者友好的な交流で終わったが、報告を受けた幕府は樺太における幕府の支配地域を、バータル帝国の本格的な進出よりも先に確定させておく必要性に迫られた。そのための調査団派遣でもあった。

 二十歳になったばかりの彼に期待されていた役割は、翼人族の飛行能力を生かして、後方との迅速な連絡手段の確保と、山の標高などを容易に測量する事であった。

 つい三週間ほど前に大泊より上陸した調査団は、今は鈴谷岳の北東側で、晴気川と鈴谷川に挟まれた豊原という地名の開拓民の小さな集落に身を寄せていた。今回の調査は、地図の測量に加えて鈴谷川周辺の砂金の調査も含まれており、ここをその拠点にしようとしていたのである。

 早馬で情報を受け取った調査団は、すぐに集落の会所にて今後の協議が行われることになった。

 幕吏として、ある程度発言力を持っていた彼は、はじめはバータルの船員たちと話し合いによる解決を望んでいた。

「急報! 急報!」

 しかし、続報として挙がってくるのは二つの村が砲撃で焼かれ、大泊が上陸してきたバータルの水兵たちによって番所の備え米や塩、什器や衣類が略奪されたり、村人が水兵の鉄砲で虐殺されたという報せばかりが次々と届くと、調査団の中では『即刻打ち払うべし』という声が支配的になっていた。

 それからは、坂を転がり落ちる岩のように事態は進んでいった。集落で武器になりそうなものが急遽かき集められ、獣を追い払うために農民が持っていた鉄砲は根こそぎ没収されることになったが、それに異を唱える住人は居なかった。それどころか、仇討ちを叫んで鍬や鋤を持って討伐に加わりたいと申し出る住人が後を絶たず、逆にこちらが人選で頭を抱えることになるほどであった。

 そんな殺気立った集落に、決定的な報せが届いた。村を襲った軍船が女麗の沖合に停泊したのだという。それは大泊のすぐ隣であった。

 すぐに討伐隊の出征が決まった。彼にとっては気の進まない決定であった。どうやら、夜が明けて敵の軍船が去る前に女麗の海岸線まで前進し、一撃を加えようということらしいが、ここ豊原から女麗までは直線距離で十三里ほど、足軽兵が強行軍で行ったとしても、夜明けまでに海岸にたどり着けるかすら怪しかった。

 無理な行軍なのは、討伐隊にも分かったらしい。そうなると、次に着目されるのは空を飛んで素早く移動できる翼人族であった。翼人族であれば風の影響もあるが、全力で飛べば概ね一刻程度の時間で女麗にまで辿り着くことができた。

「やってくれるな?」

 八太郎には、調査団の長である天文方。幕府から暦や天文、測量、地誌などを取り仕切る役職を賜っている高橋殿から、集落にいる翼人族を率いて先行し、停泊している軍船を攻撃することが強く求められた。断ることなどできなかった。

「これを、敵にたたきつけてきてくれ!」

 集落の役人から、これで敵の軍船を燃やしてほしいと、明かりとして保管してあった松脂の小瓶が二つと、集落で貴重に保管してあった白米を惜しげもなく炊いた握り飯を、笹の葉で包んだものを押し付けられた。

「有難く頂戴いたしやす。それでは行ってきやす」

 口ではそんなことを言ったが、内心は暗澹としたものだった。

 八太郎は集落の役人から受け取ったそれを藁紐で腹に括りつけると、彼は集落にいた若い飛翼屋、大昔より信書や荷物を運ぶことを生業としている問屋の翼人族と共に、紅に染まった夕焼けの空へと、灰色の大きな翼を広げて飛びあがった。


「鷲矢殿、ここが女麗(めれい)でございやす」

 飛翼屋の案内で女麗の海岸についたころには、日は完全に落ちていた。

 彼の言葉を耳にして眼下に目を凝らせば、海の白波と白く縁どられた砂浜が、暗くなった景色の中でかろうじて確認できる。しかし、油断すればすぐにでも見失ってしまいそうだった。

「君の案内がなければ、某は今にも迷子になっていただろうな。えっと、確か君は……」

「あっしは伝吉と申しやす 。にしても、夕刻より雲が増したせいか、月が隠れちまって気味の悪い空ですなぁ」

 伝吉という、黒い羽根をした翼人族の話を聞きながら、八太郎は笹の包みから白い握り飯を頬張りながら考え込んでいた。

 女麗に来る少し前、大泊に降り立ったのだが、そこに広がる光景は彼の予想をはるかに超える凄惨な場であった。めぼしい建物はその全てが焼け落ちており、集落で暮らしていた住人もそのほとんどが惨たらしく殺されていた。生き残った数少ない住人達は、行方知れずとなった身内の名を呼びながら彷徨っており、さながら地獄がこの地に顕現したようであった。

 さらに、集落にあるめぼしい井戸には殺した住民を投げ込まれ、水を使えないようにするという徹底ぶりであった。これではコロリなどの流行り病が蔓延する恐れがあるため、しばらくはここの井戸水は使えないことになる。それは、集落の復興にはかなりの時間が必要であることを意味していた。

 八太郎は、バータル帝国という国は西方の文明国であり、そんな非道はしないだろう。早馬の情報は、誇張も多分に含んだものであろうと、内心で思っている節があった。

 しかし、目の前に映し出された光景は、早馬の情報が正しい事を裏付けるものであった。もし、あんな野蛮な行為をする船がまだ近くを遊弋しているのであれば、それは必ず討たなくてはならない。

「しかしなぁ……」

 八太郎は、伝吉に聞こえないような小声を漏らしながら握り飯を齧る。塩の味が口の中に広がった。

 下手人の船を討たねばならない、という考えが頭にある一方、豊原に戻って明朝に仕切りなおすべきだろうか。そんな考えも彼の頭の中には存在していた。

 襲撃を受けた住人には申し訳ないが、ここで軍船を攻撃するというのは、バータル帝国と幕府の間で外交問題に発展しうる重大な行為である。最悪、戦になった場合、二百年あまり外国との戦争を経験していない幕府が最後まで戦える見込みが、彼の中には全く浮かばなかったのである。

 ここで、視界不良で会敵できなかったと言えば、この伝吉や樺太の住人には恨まれるかもしれないが、戦という最悪の事態は回避することができるだろう。そんな打算があった。

 集落を出た討伐隊に関して、彼は何も意見することはできないが、もともと急ごしらえで大砲も持っていない軍である。沖合の軍船に攻撃を届かせることすら難しいだろうと思っていた。時がたてば討伐隊も引き返し、後は幕府とバータル帝国の役人同士の話し合いで解決することになるだろう。その時に、この惨事を引き起こした罪人を外交的に引き渡してもらい、罪を償わせればいい。それが理想的な解決策だと思っていた。

 だがしかし、そんな理想的な幕引きなどは望めないであろうと、彼は冷静な目で見ていた。ましてや、あの大泊の集落の惨状を目にした以上なおさらである。

「鷲矢殿! 沖で何か見えやす!」

 伝吉の叫び声で、八太郎は思考の海から強引に引き起こされる。彼の指をさす方向を睨むと、暗い海の上に、人魂のようなおぼろげな橙色の灯りが、ひとつ見えた。

「確認のために近づきやすか?」

 その質問に八太郎は、難しい顔をしながら押し黙ってしまう。あまり聞きたくない報告であった。この情勢下、洋上の灯りは敵である可能性が極めて高い。

 詳細を確認せずに引き上げて『見なかったふり』をすべきか、それとも確かめるために接近するか。彼には悩ましい判断であった。

「おい……」

 八太郎が熟考している時間は、若さに溢れる青年にはいささか遅すぎた。口を開くよりも先に、伝吉は灯りに向かって緩降下を始めていたのである。

「……畜生」

 半ば投げやりに、手に持っていた残りの握り飯を口に押し込む。一瞬、米が喉に詰まりかけたが、胸を叩いて強引に胃の中へ流し込むと、先を飛ぶ伝吉に続いていく。遠くからでは一つであった灯りは気が付けば二つになり、徐々に暗闇に潜んでいた船型があらわになっていく。

「これがバータルの軍船か」

 滑空しながら近づくと、人魂に見えていた灯りの正体は、軍船の船尾に吊るされた灯だった。ここらへんで見られる北国廻船の倍ほどはある大きな船体。ここまで大きな船は、天ヶ原だと琉球より西の高砂藩、今でいう台湾へ向かう南国廻船くらいである。しかも、この船は舷側が和船と違ってとても高い。これが、集落を襲った異国の軍船であることは間違いないだろう。

「これが、留多加と大泊を襲ったってえいう下手人の船ですかい?」

「おそらくはな」

――さて、どうしたものか。

 軍船を発見してしまった以上、このまま豊原に帰るのはバツが悪い。かと言って、八太郎の中ではこの船を攻撃することには未だ躊躇いがあった。

 攻撃に踏み切るか、否か。結局、彼の中で結論が出ずに時間だけが過ぎていく。気が付くと、首から下げていたお守りの角札を握りしめていた。

 彼が幼き頃、厄除けとして両親が持たせてくれたものであった。その角札には、神武東征において神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる翼人族の祖、八咫烏が彫られていた。それをいつも首から下げていた。云わばこの角札は彼の半身のようなものであった。

「もしや、鷲矢殿は、この戦には反対なんですかい……?」

 その声に、八太郎はぎくりとした。初夏の樺太の夜、まだまだ寒いというのに汗が止まらない。振り返ると、伝吉が心配そうな顔をしながらこちらを窺っていた。

「某は、戦に反対という訳ではない 。ただ……幕府の、天ヶ原の将来を考えると、決心がつかなくてだな……」

 言葉を選びながら、たどたどしく話す。それを伝吉は静かに聞き取ると、ゆっくりと口を開いた。

「あっしは田舎もんかよら、幕府の考えやなんかはわかりゃしねえ。 けど、俺の目の前にいるのは、紛れもなく故郷を踏みにじった仇なんだよ。 あっしは、どんな重い処罰でも喜んで受けやす。だからよ、同郷の仇討ちをさせてくれねえかい?」

「………」

 その言葉に、八太郎は何も言い返せない。

 これが八太郎の故郷である常陸で起きて、親が同じような目にあったとしたら。おそらく、彼と同じことを言ったのではないか。そう思うと、今までの己が考えていたことが、いかに空論を積み重ねた空虚なものであるのかと思えてしまう。

 先程、空から見た焦土になった大泊の集落を思い出す。初めから、バータル帝国との戦に幕府が耐えられないと決めつけ、見てきたものから目を背け、暮らす民草の声を見捨てて、この敵を見逃そうとしていた。なんと恥ずべきことだろうか。

 八太郎は深く深呼吸をすると、両の手で自らの両頬を思いっきりぶった。

「あの、鷲矢殿……?」

「すまん、どうやら某の考えが間違っていたようだ。伝吉の言葉で目が覚めた」

 あんな考えでは、民を護る武士が務まるものか、天ヶ原を害する者は、ここで討たなくてはならない。正直、二人の持っている小さな油壷で、あそこまで大きな軍船が沈むとは八太郎も思ってはいなかったが、ここで何もせずに見逃すのは幕府が弱腰と見られてしまう。そう都合よく考えることで、理想的な和平を模索していた己の考えを脳内で押しつぶした。

 彼の中で、ひとつの覚悟が決まった。面倒くさい事は、とりあえず忘れることにした。

「行こう。火縄の支度をしろ」

「え、火縄……?」

「出立する前、油壷の口に火縄を括りつけたであろう? それに火をつけねば、油壷が当たって割れても意味がなかろう」

 そう言いながら八太郎は、懐から巾着袋を抜き出すと、中から火打石と鉄の鎌を取り出し、伝吉に見せるように打ち付ける。火打石と鎌が打ち付けられる度に火花が飛ぶと、あらかじめ火打石に乗せていた火口に火が移り、小さな火を起こした。それを、さらに燃えやすい竹の棒に燃え移らせると、満を持して油壷の口に括りつけた火縄に火をつける。鉄砲の心得もある彼にとって、この準備は朝飯前であった。

「点いたか?」

「えぇ」

「それでは、某について参られよ」

 羽ばたいていた翼を折りたたむと、八太郎はまるで矢じりのように海に漂う軍船に向かって急降下する。振り返ると、伝吉も必死に彼の後ろにしっかりとついてきていた。

 軍船の船影がみるみる大きくなる。風に乗って、男たちの笑い声が聞こえてくる。樺太に派遣されるにあたり、隣国であるバータルの国の人間とも話す事も考え、かの国の言葉を勉強していた八太郎の耳には酔った声で『皇帝陛下に乾杯!』と叫び笑っている男たちの声が聞こえた。

『警報! 上空より何か来る!』

 帆柱にいた見張り員だろうか、軍船の乗組員がこちらをしきりに指さしながら、酒盛りをしている仲間たちに我らの接近を大声で伝えるが、それはもう手遅れであった。

「今っ!」

 軍船の端が、瞳に入りきらないほどの近さになり、帆柱に触れそうなところで、八太郎は大きく叫ぶと腰の藁紐を解いて、松脂の詰まった小瓶を藁紐ごと投下した。

 遥か昔、言い伝えでは六百年も昔からあったという翼人の攻撃方法である。かつて、大陸で蒼獅子と呼ばれたエフガザル帝国の皇帝は、城に籠る敵を翼人族達で焼き払い、遥か西方まで征服して回ったと聞く。

 大きな翼で羽ばたきながら後ろを振り返ると、伝吉も無事に投下できたようである。小瓶についた火縄の小さな灯りが二つ、軍船へと吸い込まれるように落ちていった。

 軍船の真ん中で、橙色の炎が小さく立ち昇った。

「やりやしたな!」

「あぁ、だがあとは、豊原に帰陣するしかあるまいな」

 彼らに残された選択肢はそれしかなかった。武士として、腰に太刀を携えてはいたものの、それだけで、たった二人で切り込むほど無謀な人間ではなかった。

 燻るように燃える軍船に別れを告げ、二人は豊原に頭を向けた。

「あのまま、沈みやすかねえ?」

「難しかろう。思ったよりも火の勢いが弱い。あの程度の火災では、すぐに消されてしまうのが関の山であろう」

 彼の言葉を聞き、明らかに落胆している伝吉を眺めつつ、その一方で八太郎は別のことを考えていた。あの軍船は、この後はこの地を去るのだろうか、それとも報復として再上陸してくるのだろうか、この先のことなど見当もつかなかったが、もし再上陸してくるのなら、後は討伐隊が何とかしてくれるだろう。彼らに期待するしかなかった。

 そんな、漠然とした考えを巡らせていた八太郎の背後で、眩い閃光が煌めいた。

「は……?」

 振り返ると、軍船が眩い橙色の火球に呑まれ、大爆発を起こしていたのである。

「一体、何が……?」

 疑問を口にしている間に、猛烈な衝撃波が空にいた八太郎と伝吉に容赦なく襲い掛かる。


 これは、当時海岸から軍船を見ていた住人の『船の中で炎が広がったと思ったら、急に大爆発した』という証言と、後の時代の調査で判明するのだが、八太郎の落とした油壷は、奇跡的にも軍船の甲板中央に設けられた昇降口、グレーチングと呼ばれる格子状の天窓をすり抜けて、砲列甲板と呼ばれる大砲の並んだ区画にて命中して炎上、集落を襲った際の残りで雑に積まれていた火薬に燃え移って大爆発を引き起こしたのである。

 この翼人族による軍船攻撃は、これ以降も度々行われるが、ここまで奇跡が重なって轟沈に至る例はほとんどない。

 しかし、この事例に世界の人間たちは長らく振り回されていくことになる。


 そんなことなど知る由もない彼らは、目の前で何が起きているのか全くわからなかった。




 夜が明け、昼頃になってから鷲矢八太郎は女麗の海岸に降り立った。

 できるだけ早くこちらには来たかったのだが、朝から濃い霧に見舞われ、この濃霧の中を飛ぶのは危険であると伝吉に止められてしまい、こんな時間になってしまったのだ。

「こりゃあ……なんとも」

 まず、目に入るのは、沖合で船体の下部の一部と竜骨を残すだけという、無残な姿を晒して座礁しているバータル帝国の軍船。そして、白い海岸を黒く染めんばかりに広がる、打ち上げられた船の木材と乗組員の亡骸であった。

 まずは、一箇所に並べられた軍船の乗組員たちの亡骸に近寄ると、そっと腰を下ろして無言で手を合わせる。後ろをついてきていた伝吉も八太郎に倣って手を合わせていた。

「……うん?」

 立ち上がったところで、彼は違和感に気が付く。

 乗組員の亡骸のほとんどに、明らかに爆発が原因とは思えない、刺し傷や切り傷が見えた。それを確かめてから、あらためて浜を眺めると、浜のあちこちに黒い染みのようなものが点々と存在していた。

 嫌な予感が八太郎の脳裏をよぎる。考えただけで背筋が寒くなる気がした。

「おー、鷲矢殿。此度は誠に大儀であったぞ」

 遠くより彼を呼ぶ声がする。声のする方を見ると、手を挙げながらこちらに向かってくる人影が見える。それは調査団の天文方である高橋殿であった。

 高橋殿の目元には、うっすらとクマが浮いている。どうやら、夜通し寝ずに行軍するという強行軍でこの浜にたどり着いたらしい。

「我らも明朝すぐに来たのだが、どうもなぁ……大泊の人間が浜に流れ着いたバータルの船員を根切りにしたらしい」

「根切り、ですか」

 そう、小声で返しながら隣で遺体を運んでいる住人たちに目をやる。

 どことなく、彼らは疲れている印象があった。それは昨日からの緊張からくる疲労だろうかと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。

 なぜ、こうも嫌な予感ばかり当たるのだろうか、八太郎は己を恨みたくなった。

「それと、これは内密にしてもらいてえのだが……」

 高橋殿は一段と声を潜めると、隣にいた伝吉に聞こえぬようにそっと耳打ちをしてきた。

「あの軍船には、人質として大泊の住人が船底に捕らえられていたらしい」

 そこまで話したところで、高橋殿は言葉を途切らせる。後は彼が何を言いたいのかは容易に想像ができた。

「……そうですか」

 八太郎は、その一言を口から紡ぎだすのが精一杯であった。目の前の景色が一瞬遠くなったような気がする。


 軍船の中で亡くなった住民の遺体安置所は、女麗の海岸から少し内陸に入った木陰の中に設けられていた。

 全身が水で膨れたり、肌が白くなったりした十体あまりの亡骸を前に、八太郎は無言で立ち尽くしていた。すでに手を合わせ、焼香も済ませた。しかし彼の足はそこから離れることを頑なに拒んでいた。

 昨夜からずっと、八太郎の後ろに貼り付いたかのようについてきていた伝吉の姿はない。仇討ちをしたと信じていたら、同郷の者も手にかけていたという事実に耐えられなかったのだろう。今は、沖で座礁した軍船の調査に志願して飛んで行っていた。

 人質に取られていたとはいえ、油壷を投下しなければ助かったかもしれない命である。おそらくあの船員たちは、幕府に対してこの人質を交渉材料に使ったはずである。

『本当にあれが正しかったのか』そんな自問自答が、頭からいつまでも離れない。その答えが、頭から導き出されることは恐らくない。生涯をかけて、この枷を引きずって生きていくのだろう。

「ふぅ……」

 大きく息を吐くと、重くなっていた足を浜へと向ける。ここでいつまでも懺悔をしている暇など、彼には存在しなかった。まだ、この浜でやらねばならない仕事はたんまりとある。

 ここを離れる前に、もう一度だけ安置所へ目を向ける。その時、一人の少女が目に留まった。

 白い短髪の狼族の少女である。八太郎が来た時からずっと、彼女と同い年か、それよりも若そうな顔をした同じ髪色の少女の骸に寄り添い、ずっとその腕を両手で握り続けていた。はじめは、泣き疲れて眠ってしまっているのかと思ったが、そうではないらしい。時折、すすり泣くような音が彼女からしていた。

「ちょっと、よろしいか」

「はい、何か?」

 八太郎は、偶然近くを通りかかった住人に声をかけた。顔つき的に、初老を迎えたばかりであろうその女性は、血糊で黒くなった袖をまくりながら彼に振り返る。

 眼の下にできた深い隈を見る限り、彼女の袖にできた血糊は遺体を運んでできただけではないのかもしれないと思うと、複雑な気持ちが彼の中で渦巻いてしまう。

「あそこでずっと座っている、あのおなごについて聞きたかったのだが」

「あぁ……カヨのことかい」

 そう言いながら、目線を件の少女へと向ける。それを見た住人は目を細めると、静かに語りだした。

「あの子は大泊の百姓の子でね、親父さんがとっても働き者でね、いろんな所に手伝いに行くからこの辺じゃあの子を知らない子はいないよ。でも昨日、芭助がやってきた時に彼女と妹以外、家族みんな殺されちまってね。妹はまだどこかにいるかもしれないって集落のみんなで探したんだけれど……どうやら、妹は芭助に連れ去られていたみたいでね。今朝、浜に打ち上がっているのが見つかってね。本当にかわいそうだよ」

 住人の話を、八太郎は静かに聞き続けた。浜へ向かっていた足を、少女の方へと向けると、未だに妹の腕を握り続けていた少女にそっと話しかけた。

「カヨ、と申すのか?」

「あ……翼人族のお役人さん」

 彼女の名前を呼び、それで振り返る顔を見て、八太郎は言葉を失った。彼女の紅い瞳には、一切の輝きというものがない。一体、何を見たら、あれほどにまで沈んだ暗い瞳になるというのか。

「この度は、一族の仇を討っていただきありがとうございました。これで家族も、そして妹も辱めを受けずに済みます」

 少女の口から紡ぎだされる声が聞こえる度に、言葉が全身に響き渡り、胸が強く締め付けられる。今、己はどのような顔をして彼女の言葉を聞いているのか、己の表情がわからなくなっていた。

「そなたには、本当に申し訳ないことをした。そなたの心が晴れるというなれば、いくらでも恨んでもらって、いや、ここで某を斬ってもらっても構わない」

 そう言うと、八太郎はその場に正座し、腰に挿していた太刀を抜き出すと、それを彼女に献上するかのように差し出した。それが、今できる彼の精一杯の誠意であった。

「え……? そんな……」

「ここで斬られても一向に構わん。そなたは某を斬るに足りうる大儀がある。それに、某はそれほどの事を成した」

 カヨは自分の前で頭を下げて、太刀を差し出している武士を前にして、静かな目で眺めていたが、暫くしてからそっと彼の手に自らの手を乗せた。

「お役人さんは、立派にお役目を果たしたまでです。それを斬ることなど、私には出来ません」

「ありがたい……そして本当にすまなかった」

 その言葉を言い残すと、八太郎はそっと立ち上がり、浜へと向かおうとする。

「それに、妹が異国に行く前に取り返してくれて、本当に感謝しているんです……これで家族一緒のお墓に入れてあげられるから……」

 八太郎の背中から聞こえる、カヨの漏らした最後の言葉は聞かなかったことにした。まるで、呪いにでもかかったかのように胸が締め付けられる。その場から逃げるように、足早に浜へと駆けていった。

「にしても……柄にもない事をしたねぇ」

 普段の八太郎ならば『恨んでくれ、斬ってくれ』なんて滅多に口にしない。気障なことを口走ってしまったと、後から恥ずかしさが追いかけるようにしてやってきた。それほどまでに、あの少女に同情してしまったのだろう。

――にしても、危なかった。

 彼の口からは『うちで養子にならねえか?』という言葉が出かかっていたが、それをすんでのところで呑み込んだ。吞み込まざるを得なかった。

「家族の仇に養われて、幸せなものかよ……」

 奥歯が痛くなるほどに噛みしめながら、彼は砂浜を歩いていく。打ち寄せる波の音が、今は嫌にうるさく聞こえた。




「なんだこれは……!?」

 バータル帝国の外交官。アレクサンドル・ペトローヴィチは、驚愕をもってその書状を受け取った。

 それは、津田幕府より届いた抗議の書状であった。書かれていた内容は、自身の派遣した軍艦が、樺太にて二つの村を虐殺するという殺戮行為を行ったため、正当防衛として撃沈し、その乗組員を現地で全員処刑とした。というものであった。

 村の虐殺行為は、彼から見ても『行き過ぎ』の領域に入るものであった。やったとしても、その村の行政機関を襲撃するくらいで留めるべきだろう。それで十二分にこちらの意思は伝わるからだ。

「さて、どうしたものか……」

 村の虐殺は明らかに度が過ぎた行為ではあるが、こちらも軍艦が撃沈され、その乗組員が全員殺されたとなると、黙って引き下がるわけにはいかない。

「これは、イヴァンに相談するしかないか……」

 彼はそう言うと、書状を執務室の机に置いて部屋を後にする。

 イヴァン・スペランスキー。この時のバータル帝国、シベリア総督にあたる人物の名である。

 この二人は今後、幕府に重大な決断と国難を与える事になるのだが、それはまた少し先の話である。


 この事件は『樺太の芭寇』として後世に語り継がれる事となるのだが、当時の津田幕府がバータル帝国に向けて作成した書状には、軍船に連れ去られた住人の記述はない。

 自国の民すら手にかける野蛮人、そう思われないよう消された等、歴史家によって諸説あるものの、真相は未だはっきりとはしない。

 はっきりとしているのは、一つの悲劇が一時期の間、歴史の闇に消えたという事実と、この事件がさらなる犠牲を生むという事である。

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