↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/5

序章 黎明。朱夏大陸上空より

Oh Gott, oh Gott. Warum hast Du selbst den Tieren Weisheit verliehen?

(嗚呼、神よ、神よ。なぜあなたは、獣にさえ知恵をお授けになったのですか。)


標準暦一二四四年、ヴァルトブルク城に籠城したテューリンゲン公の日誌より。




標準暦一九六一年、朱夏大陸(しゅうかたいりく)。


 今日の夜空は、いつにもまして晴れ渡っていた。

 日の出前の黎明。東の空は少しずつ明るさを増してきているが、夜空の闇がまだこの空間を支配している時間である。

 見つめていると、まるで吞み込まれてしまうのではないかというほどに深い蒼。手を伸ばせば届きそうな気がして、手袋で膨らんだ手を空へと伸ばすが、その手は虚しく空を掴んだ。

――そろそろ仕事に取り掛からねば。

 この幻想的な景色を前に、いつまでも惚けてばかりもいられない。この眼前に広がる景色に、いつまでも心を奪われていたかったが、遊びでこの場所に来たわけではない。

 己の気持ちを切り替えるのに、それほど時間はかからなかった。少しばかり大きなため息をついて、吐いた分の息を吸い込む。その時、微かに肺に入ってくる空気が薄いと感じた。いくら息を吸ってもどこか満たされない。そんな不思議な感覚がするのである。

 腕に巻いた腕時計を覗くと、時計盤の中の小さな高度計の針が一万三千フィート、高度四千メートルを指そうとしている。

 これ以上の高度で、何もしていないというのはいけない。慣れた手つきで口から伸びたホースの先につながっている小さなボンベに手を伸ばし、ボンベの口についたコックを摘まんで捻ると、ボンベから空気の漏れる小さな音が耳に入ってくる。暫くして、伸びたホースを手で潰して空気が流れているのか確認すると、潰した指に空気の流れる振動が微かに伝わってきた。

 空気を確認してから、次いで腰のベルトに付いていた煙草の箱ほどの大きさの装置、電熱服の操作盤のトグルスイッチを入れた。暫くすると、電熱線を通して手先からじんわりと温かい感覚が鈍く伝わってくる。これで、低酸素による酸欠と凍傷の危機は装置が異常をきたさない限りは去ったといってもよかった。

 急いでやらなくてはいけない事を済ませて一息ついていると、少し強めの風が体を吹き抜けていく。身にまとっていたロープが悲鳴にも似た風切り音を上げ、自分の体を揺らしていく。唯一肌があらわになっている顔面には強烈な冷気が容赦なく襲いかかり、顔をしかめてしまう。せめて風の直撃を避けようと、首を風下に捻るのが今の自分にできる精一杯の抵抗であった。

 暫くの後、風が落ち着いたところで胸ポケットに手を伸ばすと、中から折りたたまれた地図を取り出して、紙面に描かれた地形を見てから足元を眺めるが、その光景に思わずたじろいでしまった。

 眼下には見渡す限りの漆黒の世界。そんな闇の中でも光の点がちらほらと見え、そこには人の住む文明があることを教えてはくれるのだが、それだけで正確な位置を割り出せるほどの自信は無い。

――もうエフガザル人民共和国には入ったのだろうか? こんな状況では現在地の特定など望むべくもない。

 こうなってはもうお手上げである。位置の確認はもう少し明るくなってから行おう。と、諦めながら顔を上げた、その時である。

 それはまるで、天地が裂けたのではないかと錯覚してしまうような光景であった。黒と蒼の世界を分かつ地平線から眩い光が、太陽が姿を見せたのである。その光は、闇が支配していた地平線を、東からだんだんと色のある世界へと染め上げていき、そして眼下にある荒涼とした砂漠と山岳ばかりが広がる地面をあらわにしていく。

 まだ山の麓には光が差し込まず、黒い水たまりのような大地が広がってはいるが、目印となる山を一つ二つ確認できればそれだけで十分であった。どうやらまだ自分は朱夏民国の領内にいるらしい。つま先の少し先にそびえる山岳地帯。陰山山脈の東端を越えれば、その先はエフガザル人民共和国であると手元の地図は告げている。

 高度が上がるにつれて、電熱服を着こんでいても肌寒さが刺すように伝わってくる。再び腕時計を確認すると、目標の高度までにはまだかかりそうであった。早く上昇していかないのかと、焦る気持ちに駆られ、思わず頭上で自分を持ち上げているヘリウム入りのバルーンを睨みつけるが、あちらはこちらの気持ちなど知ったことではないとでも言いたそうに、銀色に鈍く輝く大きなバルーンは、太陽を反射しながら西より吹く風に吹かれて、ユラユラと気持ちよさそうに揺れていた。

 こうなると自分にすることはほとんどない。全体重を支えて徐々に食い込んでくる下半身のベルトの痛みに、僅かながらの不快感を覚えながらも周囲を警戒し、バルーンが目標の高度まで持ち上げてくれるのを、ただひたすらに待つのみである。

――にしても、この荒涼とした大地ばかりの国が、かつてこの大陸を支配しかけた超大国のなれの果てだとは……

 手持ち無沙汰となり、ぼんやりと目の前の荒野を眺めながら、そんなことを考えてしまう。エフガザル、彼らの国の言葉で『母なる大地』という意味があるその国は、かつてはエフガザル帝国と呼ばれ、大陸の人々から恐れられていた。

 匈奴と呼ばれた騎馬民族を祖先に持ち、標準暦一一九〇年代末に現れたフフ・アルスラン・ハーン。蒼獅子と呼ばれた男が、それまで散り散りであった遊牧民諸部族を一代で纏め上げると、人ならざる武力で大陸の大半を征服していったのである。

『大陸の戦士は獣か鬼の如し』

 そんな言葉が祖国の文献に残るほど、大征服を果たした大帝国の栄光は、百年ほどしか長続きしなかった。一三四〇年代末には各地で反乱が相次ぎ、この大帝国は泡沫のごとく消え去った。目の前に映るこの人民共和国も、今では発展途上の小国にまで成り下がってしまっている。

――かつての栄光か……わが祖国も似たようなものか。そんなことを思いながら目線を東の方に向けると、あるものが目に映った。

 まるで、三日月のように曲がった島を中心とする列島。世界中で多くの人が『天ヶ原列島』と呼んでいる島々である。

 かの国の古い神話にて、天照大御神をはじめとする天津神が住まうとされる天上世界の高天原。その下にある場所という意味で、昔は『天下原』と呼ばれていたこともあると、学校の先生からはそう習った。

 目を瞑れば、幼い頃の記憶が呼び起こされては流れていく。その列島は自分の故郷であった。

 あの島国で生まれ育った自分は、気が付けば隣の大陸で人には言えない仕事をしている。

――人生とは不思議なものだ。

 故郷の大地を遠方から見下ろしながら、ぼんやりとそんなことを考える。今の仕事が危険な稼業であることはもとより承知している。いまさら足を洗う気はないし、他に生計を立てる道もなかった。それに、よほど運が悪くない限り、油断さえしなければほとんどの危険は回避できる自負もあった。そこまで深刻になるほどのことではない。

 どうやら、自分が思っているよりも長い時間考えに耽っていたようである。気が付くと一直線だった水平線が弧を描き、周囲の空も蒼から黒に変わりつつある。腕時計の高度計を見ると針は六万五千フィート、およそ二万メートルの地点にいることを伝えている。手元の地図と照らし合わせると、エフガザル人民共和国との国境線はもう目と鼻の先であった。

 できれば、朱夏民国の領内から飛び立ちたい。その思いで首から掛けていた大きな機械、望遠鏡付きのカメラの動作確認をすると、この高高度の薄い空気と氷点下の中であるにもかかわらず、一番大事な仕事道具はこちらの希望に応えるかのように動作してくれていた。

「現地時刻〇六四五。これより状況を開始する」

 誰に言うでもない。ぼそりと吐いた独り言は、虚しく空に溶けていく。しかし、そんなことは気にしていなかった。これから身元不明の人間として死ぬかもしれない仕事を前に、自分の声を聞いておきたかった。生き残る自信がいくらあっても不安と恐怖はいつも背中にのしかかっていた。それを振りほどきたかったのだ。

 腹の辺りにある金属のバックルに手を伸ばし、甲高い金属音と共に開放する。

 今までバルーンに持ち上げられていた身体が解き放たれ、みるみる地球の重力に惹かれるように墜ちていく中、蒼い空に灰色の大きな翼を広げた。それは自分の背中から伸びた翼で、両腕を広げた幅の倍ほどはあり、完全に顔を見せた太陽の光に照らされて羽根がキラキラと輝いている。

 次の瞬間、重力に抗う重みが羽根を支える筋肉と骨にのしかかる。

――にしても、重いな。

 今の彼には、この高度二万メートルという環境で人を生かすための装置、酸素ボンベや電熱服といったものが服にまとわりついているのである。その総重量は服も含めて五十キロを超える。それは空をはばたく翼人族にとって、滑空するのが限界といえる重さであった。

 慎重な飛行が彼には求められる。一度高度を失えば、装備を捨てて身軽にならぬ限り上昇など望むべくもない。そして、一度でも見つかれば生きて帰れる保証は全くなかった。

 最悪の事態ばかりが脳裏をよぎるが、それを振り払って風を掴むことに専念する。

 急に、下から持ち上げられるような感覚が羽根を包み込んだ。風を掴んだのである。それからは、穏やかな浮遊感と風を切る感覚だけが身体を通り抜けていく。腕の高度計に目をやると、今の間に二千メートルほどの高さを失っていた。

 飛行も安定したところで、北の大地を睨みつける。視界の先にはエフガザル人民共和国の領土、その先にはこけしのような形をした湖、フルン湖が見えた。よく目を凝らすとその湖は二つあることがわかる。南の大きくて細長い形をしたのが大フルン湖、そのすぐ北にある小さくて丸い形をしたのが小フルン湖である。

 約六千年前、フルン湖の北に隕石が落下して、そのクレーターにフルン湖とアムール川の水が流れ込んでできたのが小フルン湖である。そして、そのフルン湖からアムール川に流れる水を飲んだ祖先が人ならざる者、所謂『獣人』と呼ばれるものに変化したと、今の学者達は考えていると聞いたことがある。

 そこで育った獣人達が、エフガザル帝国の征服と共に世界へ広がり、天ヶ原にも渡ったというわけである。つまり自分の祖先は、海の向こうからやってきたよそ者ということになる。

 だが、そんな祖先の生まれ故郷など、今はどうでも良かった。祖先が生まれたというフルン湖の南、ヘンティ山脈の南東に黒い線と人工物がぼんやりと見える。エフガザル人民共和国空軍のタムスク基地である。

 あの基地を、上空からカメラに収めるのが今回の仕事であった。

 風向きがわずかに変わり、少しばかり羽根を傾けながら蒼い空の中を滑空していく。腰のベルトには曾祖父のものだと云われている、八咫烏の彫られた角札のお守りが風を受けて揺れている。

 曾祖父はどんな時でもこれを肌身離さず持っていたそうだが、死ぬ間際に信頼できるものへ託し、そして帰らぬ人になったのだという。以来、これは家のお守りとして代々受け継がれてきた。

 彼の名は鷲矢治廣。今からおよそ百六十年前、祖国の天ヶ原国が開国する原因となった樺太の芭寇にて、エフガザルより北に存在する大国、バータル帝国の軍船を沈めた鷲矢八太郎の曾孫であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。