#07
ぱたんとドアを閉め、さて、おかーさまに一応声かけておこうかと崇宏はリビングへ向かった。しかし、先ほどまで気配を感じていたはずの母親の姿はリビングにもキッチンにもない。イスにエプロンがかかっているということは、たぶん買い物だろう。玄関にはさっきまで瑠依のバッグがあったのだから、瑠依がきていることも気づいたはずだと結論付け、崇宏はリビングに戻った。
ソファーに転がってテーブルからリモコンを取り上げる。バスルームから水音が聞こえて少しホッとした。
特に見たくもないテレビを見ながらクッションに顔を埋めているとどんどん瞼が重くなっていく。崇宏はそれに抵抗することなく委ねた。
「ねぇ、もしかして事後?」
「はぃ?」
突然目の前で聞こえた意味不明の言葉に目を開ける。目の前には母親のわくわくした顔。崇宏は慄きつつ、わずかに身体を引いた。
「シャワー使ってるの、瑠依ちゃんだよね? ね、おかーさん、もう一度お買い物に行ってたほうがいい?」
「……なにをうれしそうな顔で勘違いしてるのか知らないけど、キャンプ帰りだからシャワー貸してるだけ。瑠依とはむなしくも健全なオトモダチ付き合い続行中ですが、その不甲斐ない息子に追い打ちでもかけたいの?」
「なんだ。瑠依ちゃん、ごはん食べていくかしらー」
「食べていかないと思うよ。ちょっと仮眠したら送っていくし」
「食べていくかしらー。食べていくわよね」
「はい……」
ちょうどそのとき、シャワーの音が止まった。
崇宏は母親を押し退け、逃げるようにバスルームに飛んでいく。
「瑠依、大変なことになりました」
「え、なに? ちょっと今開けないでね!?」
「開けるわけがないでしょう。俺だってまだ命は惜しいよ!」
聞き耳をたてられていないか怯えながら、ドアにぴったり口を寄せる。
「うちのおかーさまが瑠依にメシ食って行けと命令しているのであります」
「え……いや、そこまでしてもらうわけには……」
「一刻も早く瑠依を送り届けなければ今度は泊まって行けとか命令されちゃう! ああもう俺、シャワーあとでいいや。瑠依、はやく髪乾かして!」
「う、うん……」
けれど、そんな崇宏の策は母親には通用しなかった。
髪を乾かしてバスルームから出てきた瑠依を連れ、いそいそと玄関へ向かうと、すでに最強母は先回りしていた。
「崇宏。シャワーを浴びてきなさい」
「いや、瑠依ちゃん疲れてるから早く帰してあげなきゃ、ね!?」
「崇宏はシャワー。瑠依ちゃん、ゆっくりしていってねー?」
玄関掃除のフリなんかしているが、どうせ小細工するならせめて掃除道具ぐらい持たねば単なる冷やかしだということがバレバレだ。
がっくり肩を落とし、崇宏は渋々瑠依を部屋に連れていった。
「ごめんね、瑠依ちゃん……おかーさまは進藤家最強なのです……」
「う、うん、大丈夫。崇宏もシャワー入ってきたら?」
「そうする……絶対、命に代えても、今日中には送っていくからね!」
「でもまだ明るいし、ひとりで帰れるんだけど。近所だし」
「送っていくからねっ!」
「わかったってば」
苦笑いする瑠依に手を振って、シャワーを浴びてから部屋に戻るのに要した時間、約5分。髪から水を滴らせながら大慌てで部屋に戻ると、瑠依はアルバムを眺めていた。
「もう入ったの!?」
「うん。なんかシャワーとかもうどうでもいいし眠気も消えちゃったよね」
「せめてタオルくらいかけておきなよ……」
瑠依はバッグの中からタオルを取り出し、崇宏に手渡した。
タオルを頭に巻きながらパソコンの電源を入れ、瑠依が使っていたデジカメをケーブルでつなぐ。
瑠依がどんなものを撮ったのか興味があったし、できれば天野に瑠依の写真も使ってもらいたかったからだ。
取り込んだ画像は順に表示されていく。
「うわーけっこう撮ったね」
「使えるのなんて、ないだろうけどね」
「そんなことない。うん、逆光なのにいいじゃん。俺、こんな顔して撮ってたんだー。なんか恥ずかしー」
瑠依が目にしたままの姿なんだと思うとなんだか気恥ずかしい。
「でも、もっといい顔してたよ。やっぱり写真って難しいね」
瑠依にとってはなんてことない言葉だったのだろうが、人物を撮ったことがなかった崇宏にとっては少し悔しい発言だった。
カメラを構えた瑠依もかわいかったのにな、なんて、たとえ軽口であっても言えない。
昨日はじめて撮った瑠依の写真は、ひとりで焼こうとこっそり思う。人物は撮らないなんて言ってしまった手前、ばらしにくい。
瑠依が撮った写真を一つひとつクリックして確認していき、うまく撮れているといちいち褒めていると怒られた。でも崇宏は褒めるのをやめない。技術がついてくるとあざとい写真が多くなり、被写体そのものに感動することなく技術をひけらかそうとする。それはうまく撮れているように見せているだけで、撮影したほうはすぐに忘れてしまうくらい、なにも残らないのだと崇宏は思う。
褒められるのが当たり前になって、どう撮っても良くしか見えない写真を撮り、満足するだけ。
瑠依が欲しがる写真は統一性がないように見えてなかなか手厳しく、撮影時、崇宏自身が心を動かされて思わず撮ったものばかりだということに気づき、天狗になっていた自分を恥じた。
今、瑠依を褒めているのは、才能を伸ばすためでも上から見下しているわけではない。ただ純粋に、瑠依が見た世界を見られてうれしい。それだけだ。
「プリントしようか!」
「うん! 補正とかしなくて平気?」
「ん。大丈夫そう。とりあえず全部出しちゃうね」
プリンターに写真用の用紙をセットして、画像にチェックを入れる。自分の写真はもちろん外しておく。藁人形を思い出し、崇宏は小さく震えた。
あとはプリンターががんばってくれるから休憩しようと、ベッドの上に飛び乗って転がる。
あ、ずるい、という顔で瑠依が崇宏を見た。知らんぷりしているとクッションが飛んでくる。
かわいいなーもう。
「瑠依ちゃん、なんにもしないからおいで」
「やだ」
「おーいーでー」
ベッドの上から手を伸ばして、瑠依の手首を掴んで引っ張り上げる。
まあ本来なら、このままイタダキマスが通常なのだが、母親のわくわくしている顔が脳裏をよぎり、思いとどまる。
「ちょっとだけ寝るー」
「あたし、崇宏相手でもなんかこういうの恥ずかしいんですけど」
「ん。大丈夫。俺、わりと優秀な理性たちがインプットされてるから。けっこうイイコだよー。ためしに寝てみてごらんー」
「ホント、崇宏って馬鹿だよね」
瑠依は失礼なことを平気で口に出してから隣に転がった。シングルの狭いベッド。瑠依の部屋のパイプベッドよりはきっと少し広いけれど、やはりシングルはシングル。狭い。
ちょっと失礼、と言いながら抱き寄せると瑠依の身体が強張った。
失礼な子だなーもう。しないよって言ったらしないのですよ、ボクは。落ちないようにぎゅっと抱きしめて崇宏は目を閉じた。
瑠依からは、自分と同じシャンプーの香り。
あーなんだか幸せだな。やだな。どんどん瑠依が欲しくなる。
じっとしているうちに瑠依の身体の強張りが緩み、崇宏は安心して意識を閉じ込めた。
眠ったのはほんの1時間程度。目を覚ますと瑠依は腕の中で寝息を立てていた。
そっと腕を引き抜いてベッドから降りる。プリンターはとっくに仕事を終えていて、吐き出された写真がひとまとめになっていた。それを机の上に置いて、現像ルームへと向かう。
瑠依がていねいにクリップで挟んでくれたネガを一つひとつ確認する。焼いてみないとなんとも言えないが、案外うまく撮れているように見えて少しホッとした。
ハサミでカットして、ふいに手が止まる。
瑠依が写っている1枚。そこに写るいい表情を見ていると、自然と口角が上がる。
これは瑠依に見せたくないので、父親が仕事で使っている鍵つきのキャビネットに隠した。焼くのはまた今度にしようと思いながら現像ルームを出てキッチンへ向かう。どうやら今日はカレーらしい。スパイスの香りが鼻を掠め、おなかがぐぅとなった。
「母上。メシはできましたかな」
「できましたわよ、崇宏くん。上に運ぶ?」
「んー。瑠依に聞いてみる。言っておくけど、瑠依は女の子なんだからね。男の家に外泊なんてさせないでよ?」
「わかってます。母も女の子なのでそれくらいはわかります」
「そうですか、安心しました」
母親に瑠依を泊めるつもりがないということがわかり安心した崇宏は、瑠依を起こそうと部屋に戻る。
けれどあまりにも気持ちよさそうに眠っていて起こすのがかわいそうだ。
そっと顔にかかった髪をはらって、頭を撫でる。
こうもね。無防備だと、ちょっと困っちゃいますねー。
起きていたら毒舌がぽんぽん飛び出す形のいい唇にゆっくり近づく。
キスしたら、きっと殴られるくらいでは済まない。やめておいたほうが賢明だ。唇の上でぴたりと動きが止まる。
「瑠依ちゃーん。ごはんー」
キスしない代わりに、唇をむぎゅっと抓んだ。
むぐ、というなんとも言えない声を上げて瑠依の瞼が開く。あまり寝起きのよくない瑠依は、スローモーションのようにゆっくりと瞬きして、ふにゃりと微笑んだ。
結局瑠依は、下で母親と一緒の食事を希望し、3人でカレーを食べた。
食べ終えて少し休んで、あまり遅くならないうちに家まで送る。
自分の部屋に戻ると、そこには当たり前だけど瑠依はいない。
ここのところ毎日一緒にいたから、ひとりは寂しいな。そう言ったらきっと、瑠依は笑うのだろう。『甘ったれめ』と。
崇宏は瑠依が撮った写真のデータをしっかり保存し、記念にもらった1枚をそっと撫でた。




