#43
崇宏を受け入れて数週間。なんとなく残っていたぎこちなさも崇宏の天性の馬鹿っぷりでほぐれてきたころ。それでもまだ瑠依の中には大きなしこりが残っていた。
たとえば自宅で料理をしたとき。洗ったばかりの野菜をボウルに入れ、カウンターとは名ばかりの仕切りの上にのせておくと突然聞こえるシャッター音。驚いて振り返った先には真剣な表情でカメラを構える崇宏の姿がある。それは、瑠依がずっと好きで見つめ続け、そして苦しい思いをし続けた顔。
たしかに水滴をまとった新鮮な野菜は被写体にもってこいだろう。昔、崇宏と一緒に写真を撮っていたころは瑠依自身も実家で同じことをした覚えがある。
「仕事用?」
「んー? 違うよ。これは趣味。あ、瑠依ちゃん、笑ってー」
「シャッター切った瞬間、これ投げるけどいい?」
瑠依はきらりと光る凶器を軽く持ち上げる。ふるふると首を振った崇宏は、しょんぼりと肩を落とし、カメラを下ろした。
「……そういえばあんた、仕事しないの?」
「してるよー」
「えっ!?」
「仕事しないと食べていけないでしょー」
「そう、だけど……いつ働いてるの?」
「瑠依ちゃんがお仕事行ったあと。時間の融通はきくんだよねー」
にっこり笑った崇宏は、撮るのをやめたのかカメラをしまいに去っていく。
瑠依は大きな勘違いをしていた。写真の仕事は海外だけだと思っていた。日本で、しかも働いていることに瑠依が気づかなかったくらい近場でも仕事ができるのだということがわかって心底安堵する。そして改めて認識するのだ。
いつ、崇宏がいなくなるのかと不安でたまらない自分がいることを。
瑠依の不安はそう遠くもなく突然訪れた。
日課となりつつある自宅の窓を見上げ、一気に血の気が引いた。何度も躓きながら階段を駆け上がり、知らないうちに握りしめていたキーケースが冷たいコンクリートに落ちて金属音をたてる。恐るおそる手を伸ばしてドアノブを下ろすが、それは開くことはなかった。
深く息を吸い込み、肺の空気がからになるまで吐き出す。
やっぱり――。
瑠依がそう理解するまでにどれくらいの時間が経過したのだろうか。乾いた笑いが唇から零れ、床に落ちたままのキーケースを拾い上げる。
大丈夫だ、もう手は震えていない。
瑠依はようやく玄関を開け、暗い部屋の明かりをともす。簡素なキッチンに狭いリビング、右手にはベッドを置けば座るスペースもない部屋。そして左手にはたたまれたままの客用布団。
「ばっかみたい……」
呟いた声は静かな室内に消える。
靴を脱ごうとしたその瞬間、背後のドアが開いた。そこへ顔を覗かせる、よく見知った人物の姿を見たとたん、瑠依は手にしていたバッグを振りかざしていた。
「わー! 瑠依ちゃん、タイム! ストップ!」
バッグが致命傷を避けようとした崇宏の腕に当たり弾き飛ばされる。思いっきり睨み上げる瑠依を見た崇宏はそのまま黙って抱き寄せた。
「ビール足りないから買いに行ってたの。途中で会えたらいいなって思ったんだけど瑠依ちゃんのほうがひと足早かったね?」
「……離せ……」
「ん。ごめんね? なにも真っ暗にして出かけることもないよね」
「……大ッッ嫌い!」
「ごめん、瑠依。ごめん」
力が込められた腕はしっかりと瑠依の身体を包み、宥めるように背中を撫でる。腕の中で落ち着きを取り戻した瑠依はゆっくりと崇宏を見上げた。額に落とされた唇の感覚にようやく“現実”だと認識する。と同時に腹が立ってきた。
「飲み切ってから買いに行けばいいじゃない!」
「だって瑠依ちゃん、もうないの!? って怒るでしょー!?」
「怒らない!」
「うそつき! この前なんて空き缶投げつけたくせに!」
それは瑠依にも覚えがある。なにも言えなくなり黙り込んだ瑠依の頭がそっと撫でられた。これではただの駄々っ子じゃないか、と唇を噛みしめる。
「玄関だけ、ちゃんと明かりつけていくから。瑠依ちゃん、暗いの嫌いだったっけ?」
「そんなんじゃ、ないもん……」
「大丈夫だよ? もう二度と別れてなんて言わなくて済むくらい、経験積んできたから」
恐るおそる見上げたその表情は、言葉どおり自信に満ち溢れている。そんな崇宏を素直に尊敬する気持ちは持ち合わせているが、いまだに消えることのない恐怖は、しこりとなって重く心にのしかかる。
今はこうして当たり前のように目の前にいる馬鹿男が、いつまで手の届く距離にいるかなんて予想すらできない。瑠依はただ、薬指の星とこの馬鹿男を信じて、下手な笑みを浮かべることしかできないのだ。
「瑠依? もう平気?」
「平気……。腕、大丈夫? ごめん……商売道具なのに……」
「瑠依ちゃんの攻撃くらいでダメにならないよー。そんなにヤワじゃないってば」
そう言いながら崇宏はビニール袋に入っている冷たい缶を瑠依の頬にあてた。
「……冷たいんですけど」
「買ってきたばかりですので。ごはんできてるけど先に食べる? それともお風呂?」
どちらの準備も完璧だと胸を張るように笑う。少し赤くなった崇宏の腕が視界に入った。冷たいビール缶を奪い、赤くなったところにそっとあてる。
「崇宏」
「ん?」
「崇宏、先がいい」
呟いた声が小さかったのか二度も聞き返される。そして三度目。
「瑠依ちゃん、俺の聞き間違いでしょうか」
「……やっぱりいい。お風呂入ってくるっ!」
さすがに恥ずかしくなってきた瑠依は、缶を崇宏に押し付けバスルームに逃げた。鍵なんてものは存在しないため、洗濯カゴをレールの上に置いて閂代わりにする。
ドアの向こう側ではきっと崇宏も茫然と突っ立っているのだろう。物音一つしない。
らしくもないことを言うもんじゃないなと床に座り込んだ瞬間、一切の抵抗もなくドアが開いた。ぽかりと開いた口からは悲鳴すら出ない。
無言のままの崇宏はしゃがみ込んでいた瑠依の両腕を引っ張って立ち上がらせると、いそいそと服を脱がしていく。唖然とする瑠依を放置し、素早く自分の服を脱ぎ捨てた崇宏はバスタブの温度を確認するなり瑠依をそこへ放り込んだ。その間、何秒だったのだろうか。
強制的に入れられたバスタブの中で崇宏はぎゅうっと瑠依を抱きしめた。
「瑠依ちゃん」
「はい……」
「俺ね、瑠依ちゃんがいなかったらきっと、ただの馬鹿だったと思うんだ」
「…………」
「うん、知ってる、今も馬鹿だと思うの。でもただの馬鹿じゃないの」
「?」
「瑠依が好きすぎてどうしたらいいのかわかんない」
「あんた……また泣いてんの!?」
「まだ泣いてないけど泣く。絶対泣く」
瑠依の首筋に唇を押し当てたまま動かない崇宏の黒い髪をそっと撫でる。きっと不安なのは瑠依だけではなく、崇宏も同じだったのだろうと思うと愛しさが込み上げてくる。6年の空白はそう簡単に埋めることが難しいかもしれないが、新たに作っていくことはできるかもしれない。瑠依の腕が崇宏の華奢な身体を包むように抱きしめると、肩越しに小さく嗚咽がこぼれた。
「瑠依ちゃん、俺と結婚して」
「すぐあたしを置いていくからイヤ」
「……返事ははいしか聞こえません」
「あたしたち、付き合っていた年数より離れていた時間のほうが多いんだよ?」
自分が発した言葉にズキンと胸が痛んだ。
毎年まいとし、ひとりぼっちの七夕の夜を過ごして、崇宏を思い出すことすらつらかった。悲しかった。切り捨てられる自分が惨めで、寂しくて。いらついて。
「二度とあたしを置いていかないで」
「結婚してくれるなら誓う」
「あんたと付き合えるのはあたしくらいだから。あたしを置いていったら、今世で配偶者ができると思うんじゃないわよ? 来世まで呪ってやるからね?」
瑠依ちゃん大好き、と泣き声の崇宏が呟く。
いつか互いに、切り捨てられる不安がなくなるときがくるのだろうか。崇宏は昔からいつだって事後報告しかしない。おそらく今後も、数ヶ月音信不通になることだってあるだろう。それを自分が許せるか否かだ。
「崇宏、ひとつだけお願いがある」
「結婚してくれるならなんでも叶える」
「このアパート、あたしにとっていろんな思い出がありすぎてつらいから。もう少し広いところに引越ししたい」
「マンション買う? 一軒家を買う? 物件すぐ探しに行こ!」
「あんたに失望したらすぐに出ていけるように賃貸がいい。そのときは即刻離婚。二度と会わない」
不本意ながらすでに6年も待ってしまったのだ。今さら捨てられようがバツがつこうが構わない。これが瑠依の最大限の譲歩だ。
「ありがとう、瑠依」
あたしに捨てられないようにせいぜいがんばって、と瑠依は笑う。
薬指に光る星とともに、泣き虫の愛しい男をぎゅっと抱きしめた。




