#42
瑠依が朝早くに出かけて行ったことは、崇宏も気づいていた。おそらくノリに会いに行ったのであろうということも。
今日、瑠依が帰ってきたら今度こそ告げられるだろう。
その恐怖感は帰国してからずっと拭えずにいるのだが、ただ瑠依を包んで眠るだけで泣きたくなるほど満ち足りた気持ちになるのも間違いなく崇宏の心の一部であった。
崇宏は忙しなくそう広くもない部屋を掃除し、足りない食材を買いに出かける以外は外出することなく夕食の準備を整え。そしてついにやることがなくなると今度はテレビの横に設置されたチェストから適当なDVDを漁ってみた。
奥のほうにアルバムが収納されているのを発見した崇宏は何気なくそれをめくる。すべて見覚えのある写真ばかりだ。鬱々した気持ちが自然とほぐれていく。
もう何年も前に崇宏が瑠依を引っ張りまわして撮ってきた写真は、今の崇宏にとっては拙いものではあったが、当時の思い出が次々とよみがえってくる。
この写真を、瑠依はどんな気持ちでチェストの奥へしまい込んだのだろう。二度と見たくないものたちだったのだろうか。そう考えると涙すら出てくる。
瑠依が写真を撮らなくなり、撮影にも同行しなくなった大学時代からのものもすべてここに納まっていた。零れ落ちる涙を拭い、鼻を啜ったところで玄関が開く音がした。慌てて涙を拭き、馬鹿みたいに元気な声を張り上げて出迎える。
「なにやってんの?」
「瑠依ちゃん、おかえり! 早かったね!」
「うん、まあ……」
「ごはん、食べる?」
「うん。でも先に話があるの」
「あっためてくるから待ってて!」
「崇宏! ちょっとそこに座りなさい」
逃げようとした崇宏の腕を掴み、瑠依は床を指差した。恐るおそる見上げるも、瑠依の表情からはなにも読み取れない。崇宏はしぶしぶその場に腰を下ろした。もう覚悟しなければならない時期がきてしまったようだ。
その正面に瑠依がしゃがみこむ。
「今日、ノリと出かけてたの」
心の準備もままならないうちに撃ち込まれたいきなりの核心に、崇宏の瞳にはじわりと涙が浮かんだ。
「うん……」
「もう泣いてるの!?」
「泣いてないもんっ!」
「あーもう……鼻水拭いてよ!」
ティッシュを数枚引き抜いた瑠依は涙と鼻水を乱暴に拭き取り、呆れたようにため息をつく。崇宏はこれから告げられるのであろう言葉を想像しただけで逃げたくなっていた。
「こんなに散らかして……」
「ごめんなさい……」
「崇宏。顔を上げて」
「やだ……」
「話を聞いて」
「やだ!!!」
「バカヒロ!!!」
スパーンと頭を平手打ちされた崇宏は目に涙をいっぱい貯めて瑠依を見る。
もう完全に怯えきった小動物だ。体はでかいが。
そんな崇宏を見つめる瑠依は悲しそうな笑みを浮かべ、そっと手を伸ばして頬を撫でる。
「いい? あたしはあんたが好きなのよ! 柄にもなくビクビクしてんじゃないわよ!」
「ごめんなさい……」
「両替してきたお金を全部ここに出しなさい。まさかあたしが気づかないとでも思ってたわけじゃないでしょうね?」
「はい……」
両替はまだなんて冗談は、もう通用しないことを悟った崇宏は、バッグの中に入れてあった自分の財布を取り、瑠依の前に中身をすべて並べた。当面の生活費だけ両替済みなのがばれてしまった瞬間だ。
口座を見られたら即追い出されるかもしれないと怯える崇宏をよそに、瑠依もバッグの中から財布を取り出し、同じように中身を並べる。
瑠依はこの馬鹿男が現れてから一度たりとも金銭を渡していない。そして食材の補充すら一度もしていない。つまり、朝食と夕食を準備できるということは、家にいるこの崇宏以外、あり得ないのだ。そこを黙って見過ごす瑠依ではない。意図的に言わなかった、否、言えなかっただけだ。
両替するまでの間だけと告げることで自分と向き合う時間がほしかった。そう言い訳しないと、どうしたって崇宏と離れたくないのに抱かれるのは怖いと思ってしまう。
こうやって逃げていたのは自分だ。こんなにも崇宏を怯えさせているのも。
早くラクになりたい。心の底から崇宏が好きだと告げたい。そんな思いが瑠依の心を急かす。
「いい? 生活費は折半。家事は分担。あんたは居候なんだからお風呂は最後」
「瑠依ちゃ……」
「朝も夜もあんなに豪華にしてくれなくていい。休みの日はあたしが作る」
「うん……」
「あんたはそばにいてくれるだけでいい」
「うん……え?」
「そばにいて。いなくならないで。もう、あたしを置いていかないで」
自分はこんなにも涙もろい女だっただろうか。こんなにも崇宏に依存する女だったのか。溢れ出てくる気持ちも涙も止める術がわからない。
声をあげて泣く瑠依を強く抱きしめた崇宏は頭上に唇を落として何度も告げる。
「もういなくならない。いっぱい不安にさせてごめん」と、何度も。
一緒にお風呂に入ろうと駄々をこねる崇宏に、調子に乗るなとタオルを投げつけ、ひとり浴槽に浸かった瑠依は、ぼんやりとノリのことを思い出していた。
あんなにも毎日のように一緒にいたはずなのに、今日1日を共に過ごしたノリはまったくの別人だった。それは意図的にそう演じているわけではなく、これが正真正銘本当の浅島忠則だったのだろう。
ノリは至ってマイペースではあるが、瑠依を気遣う仕草は隠しきれていなかった。炎天下の中待ち続けた瑠依に飲み物を準備していたことも、遊園地の希望を即座に却下しながらも行きたい場所はないか尋ねたり、歩くスピードもいつの間にか瑠依に合わせてくれていたり……。
結局、これまで瑠依が見てきたノリと本物のノリに違いはなかった。口調が違うこと以外はなんの違和感もなかった。
瑠依は最後に本物のノリと会えてよかったと思った。もしあの合コンまがいの飲み会以降、この本来の姿のノリと接していたとしても、きっと気持ちは揺らいだだろうということもわかった。が、結局のところ、瑠依は崇宏を待ち続けただろうということも同時に理解した。
それは似ている、似ていないの問題以前。相手がどんなに誠実であっても、どんなに瑠依を大切にしてくれたとしても、心の奥底に必死で封じ込めた存在が消えることはない。誰と付き合ったとしても、きっと崇宏を忘れる日なんてものはなかっただろう。たとえ再会が20年後だったとしても。
笑顔でノリと別れた瑠依は、玄関に入る前にスマホからノリのデータを消した。
いつかまた、崇宏が夢を追って行方をくらましたとしても、もうノリと会うことはない。
「瑠依ちゃんーお風呂、一緒に入ろうってばー」
「しつこい!」
曇りガラスの向こうでくすんと鼻をすする崇宏を想像して瑠依は小さく笑った。今、崇宏に抱く感情は同情でも感傷でもなく、ただひたすら愛しいだけだ。崇宏と瑠依を隔てている扉は曇っているけれども、瑠依の心は沖縄で見た凪いだ海そのもののように穏やかだった。
「崇宏ー」
「……なんですか」
「いいよ、入っても」
せっかく折れてやったというのに返事も物音もない。怪訝に思った瑠依はそっとドアを開けてみた。
そこで見たのは、脱衣所で膝を抱えて泣いている崇宏の姿。バスタオルを手繰り寄せ身体に巻くと、蹲っている崇宏の前にしゃがみ、そっと頭を撫でる。
「瑠依ちゃん」
「ん?」
「大好きです」
「知ってます」
「瑠依ちゃん、俺を拾ってくれてありがとう……」
「なに言ってんのよ……」
ゆるゆると顔を上げた崇宏の顔はまたしても涙で濡れている。なのに困り顔で瑠依の頬を撫でる手のひらの動きで自分もまた泣いているのだと知る。
6年分の涙の量は相当らしい。
自然と重なった唇は涙の味がした。




