#41
一睡もできなかった瑠依は、自分を抱えてすやすや眠る男の腕の中からそっと抜け出し、なるべく音をたてないようにふすまからすり抜けた。静かに身支度を整え、鏡をじっと見つめる。
眠っていないせいなのか、これからの行動を本心では迷っているせいなのか、毎日見ている顔よりいくらか疲労が見える。無理やり作った笑顔もぎこちなく、瑠依は小さくため息をついた。
寝入る前、崇宏が呟いた言葉を思い出す。瑠依にしゃべらせまいと必死で会話を投げ込む姿も、泣き出しそうな笑顔も、全部自分のせいだ。けれどそうさせたのはあの馬鹿であって、自分が原因ではないと罪悪感を隅に追いやってみるが、実際崇宏にあんな顔をさせているのは瑠依であることも事実で苦しい。
ひと晩寝ずに考えた結果、瑠依はこの休日に崇宏から離れてみることにした。
もしもこの一日、一度も崇宏を想うことがなければ薬指の星は返却、ここから追い出す。
そして今日、目的を果たしたら、素直に家へ帰ろう。
そう思いながら、瑠依は深呼吸を繰り返し、玄関へ向かう。家を出る前に室内の気配を探るが、崇宏が起きたような物音は聞こえない。乱雑に脱ぎ散らかしてある靴を揃え、口の中で呟く。
次にここへ帰ってくるときは、笑顔でありますように……。
その呟きこそが、自分の本心だということにふたをして、瑠依は大きく息を吸ってドアを開けた。
一度しか行ったことがない場所というのは若干の緊張を覚える。瑠依は電車に乗り、とある駅に降り立った。
あの日の記憶を辿り、見覚えのある景色を探しながら慎重に目的の建物を探す。人の顔と名前を覚えることが極端に苦手な瑠依だが、どうやら方向感覚に関してはそれなりに備わっていたらしい。小さく深呼吸した瑠依は、やや震える指先でドアチャイムを押した。
少しして鍵が開く音、続いてドアが開いた。目を見開く男の顔を見上げ、ほんの少しだけ口角を上げて見せた。
「瑠依……どうしたの、こんな時間に」
驚いた顔のままの男は、今まで眠っていたのか寝癖の髪を引っ張りながら苦く笑う。
「今日、約束してたから」
「あぁ……じゃあキャンセル。俺、このとおり、起きたばっかり」
「待ってるから」
「いや、帰ってくれる? 俺、節操ないけどさすがにトモダチの女には手は出さない主義。疑われたら面倒だし。じゃあね」
嘲笑ともとれる笑みを残し、ドアは閉じられた。瑠依にとっては想定内だ。
瑠依はそっとドアを撫でる。
「ノリ、今日1日付き合ってくれない? ずっとあんたに振り回されてきたんだから、最後くらいあたしのワガママ聞いてくれてもいいと思うんだけど」
ドアの内側でどさりと音がした。怪訝に思いつつ中の気配に神経を注いでいると、閉じられたドアが開いた。が、視線の先にノリはいない。
「相変わらず傲慢ですねー瑠依ちゃんは」
足元から聞こえた声に視線を落とした瑠依は、脱力してしゃがみこんでいるノリに向け、ふふんと鼻で笑う。
「あたしから傲慢さを取ったらなにが残るの?」
「いろいろ残るでしょ。馬鹿な男を6年も待ち続ける馬鹿な女とか、演技派イケメンに何年も騙され続ける馬鹿な女とか。まだ足りない?」
「イケメンには騙された記憶、ないけどね。30分で準備して」
「俺の話は聞こえない仕様?」
「もちろん。駅前で待ってる。車で来てね」
瑠依はにっこり笑って手を振った。ノリに背を向けて歩き出すとうしろから小さく笑う声が聞こえた。 ドアが閉まる音を確認し、死角になる位置まで足早に移動した瑠依は、大きく息を吐き出す。
「緊張した……」
心臓はバクバクと音をたて、頬が異常なほど火照っている。
しばらくその場で呼吸を整えていた瑠依は、宣言どおり駅へ向かった。もしかしたらノリは来ないかもしれない。けれど今日は1日中待ち続けてもいいと思っていた。
照りつける日差しから逃れるように木陰へ移動した瑠依は、ロータリーを見つめる。車種に疎い瑠依がノリの車を覚えているかは本人ですら定かではない。
勝手に押し付けた約束の時間はもうとっくに過ぎている。不安な気持ちをかき消し、ノリの姿を必死に探す。
1時間ほど経ったころ、背後に気配を感じ振り返った瑠依はホッと息を吐き出した。
「来ないかもとか思わないわけ?」
「思った。でも最終までは待つ覚悟だったから」
「熱中症になるだろ」
「なったらなっただよ」
「馬鹿な女」
ノリは苦笑しながら瑠依の頭に手を伸ばしかけ、それを引っ込める。車のキーをかざし、先を歩き始めるノリの背中を追いかけた瑠依はいろんなことを思い出していた。
歩くペースを合わせてくれていたのだということも、当たり前のように頭を撫でられ、差し出された手のひらがあったことも、口調がまったく違うことも。
助手席のドアが開けられ、目視で促された瑠依はそこへ乗り込んだ。運転席に腰を下ろしたノリは小さくため息をついてハンドルに凭れる。
「……ったく、とんだ性悪女だな。どうせならあいつが帰ってくる前に落ちろっつーの」
「その話はあとでゆっくり。遊園地、連れて行って」
「やだ。俺、あれ以来ジェットコースター苦手」
「つまんない!」
「カレシに連れて行ってもらいなさい。家まで送る。あと、これ飲んで。ぬるいだろうけど」
水滴をまとったスポーツドリンクが瑠依の膝のうえに投げ込まれる。瑠依は小さく笑ってそれに口をつけた。
「昨日、崇宏に会ったよ」
「そう」
「相変わらず馬鹿だった」
「うん……」
「馬鹿同士、似合ってんじゃない? おまえら」
「否定したい気持ちでいっぱいだけど、遊園地」
「行かないって。おまえ、律儀に崇宏待ってたんだろ? 帰ってきたんだから仲良くしてろよ。俺を巻き込まないでくださいな」
「だからこれが最後って言ってるでしょ? 今日は確かめにきたの」
ペットボトルのふたを閉め、瑠依はハンドルに凭れたままのノリをまっすぐ見つめた。
「浅島忠則のこと、知りたい」
「今さら?」
「そう」
「じゃ、わかったんじゃねーの。俺、どうでもいい女にはこんな感じ」
「うん。わかりやすいくらい優しい」
笑う瑠依に苦笑で返したノリは、深くため息をついて瑠依を見つめる。そして諦めたように口を開いた。
「崇宏が泣きながら捨てて行った女と偶然再会。大学一緒なのに俺のことはひとつも覚えてなかったのはまあいいとして、あいつのこと忘れてたら嫌だなと思ってあいつに似せて近付いた。マネして近付くと怯えるおまえを見て、まだあいつのこと待ってるんだって嬉しかった。向こうでがんばっているあいつも報われると思った。ここまできたら帰ってくるまで男なんか作らせてたまるかって程度の気持ちからスタート。半年も経たないうちにあいつのこと忘れて俺を選べと思った。2年目にはマネするのが嫌になった。おまえが俺の向こう側に崇宏を見ているのがわかるときつかった。でも本心から俺は待ってた、あいつが帰ってくるのを。迎えにくるだけの力を持ったあいつがおまえの前に現れるのをずっと待ってた。そのときは潔く身を引くつもりで。諦めのよさと忍耐強さには自信あったけど、3年目は限界。おまえが欲しかった。だから勝負に出た。まあ、こんなとこ」
「そう……」
「瑠依」
「ん?」
「無理すんな。自分を抑えんな。崇宏を選んだおまえ、間違ってないから」
伸びてきた指先が瑠依の頬を撫でた。膝に落ちた水滴がオレンジ色のパンツに染み込む。
「泣けるようになったのは、そういうことだろ」
「うん……」
「今日の約束、覚えてたんだな。律儀なやつー」
「うん……」
「俺は忘れてたけど」
「そうみたいだね」
「……では問題です。瑠依が好きなのは誰だ?」
「ずっと、崇宏だけ。これから先も、ずっと」
「大正解。わかってんじゃん。んじゃ仕方ない。遊園地は勘弁だけどドライブくらいは連れて行ってやるよ」
がしがしと乱暴に頭を撫でた手は瑠依にシートベルトをつけ、離れていく。
崇宏の手のひらと違う。崇宏の口調と違う。崇宏の態度と違う。ひとつひとつ、瑠依は浅島忠則という男を確認するかのようにしっかりとノリを見つめた。




