#40
「のーりーくん。あっそびましょー」
振り返ったノリは声の主を見て心底嫌な顔をした。見なかったことにして立ち去りたいが、目が笑っていないその相手には通用しそうもない。小さくため息をつき、瞬時に作り上げた白々しい笑みを返す。
「これはこれは崇宏くん。お久しぶりでー」
「お久しぶりー。とっても元気そうでよかったー」
「そりゃどうも。で? なにしに来た?」
「んー? 殴りに来たに決まってるでしょー。電話、聞いてなかったの?」
「あっそ。んじゃ、どーぞ」
頬を差し出すと、ぺちっという軽い衝撃。ノリは呆れた顔で崇宏を見た。
「なにこれ?」
「よく考えたら俺にそんな資格はなかった。残念」
「自覚してんの。いい心がけですね」
「ねー浅島くん。瑠依ちゃんのこと、ホントに好き?」
「さぁね。おまえも帰ってきたことだし、俺はもう用済みなんじゃないのー?」
「まじめに聞いてるんだけど。っつーか瑠依ちゃん、おまえのこと好きだよねー」
「うん。このあいだそう電話で伝えたと思うけど」
にっこりと微笑んだノリに崇宏は小さく笑って頷いた。苛立ちがノリの中に湧き上がる。
「瑠依がね、俺見て泣いたの」
「ふーんよかったですね」
「でも俺を見て泣いてるわけじゃないの」
「へー」
「もしね、瑠依が俺じゃなくて浅島を選んだらさ……」
「…………」
「俺、今度こそ瑠依の前に現れないから。浅島がホントに瑠依のこと好きなら、かっこつけて姿とか消さなくていいよ」
「おまえねぇ……。ルイ様なめてんの? かっこつけてんの、おまえだし。馬鹿馬鹿しい。6年放置されてまだ待ち続けるとかどんだけだよ」
「ね? 瑠依ちゃん、馬鹿だよね。こんないい男がそばにいたのにね」
よくわからない会話運びにノリは舌打ちして視線を逸らした。この馬鹿はいったいなにをしにきたのか。完膚なきまで敗北した傷はまだ癒えてないのに、深手を負った敵に塩でも塗り込みに来たのだろうか。
けれど崇宏は笑みを残したまま続ける。
「俺はね、瑠依がいっちばん大事なんだー。俺を選んでくれたら、もう絶対に離さない。ホントは浅島ぶん殴って海に沈めようと思ってたんだけど、とりあえずそれだけ言っておきたくて」
「あっそ」
「あとねー? 瑠依のこと抱かないでくれてありがと」
「は? なにそれ」
「じゃあね。俺、浅島のこと嫌いじゃないよ。ウザイけど。そんでもって、おまえなんかに瑠依は渡さないけど」
「……むかつく、おまえ……」
「ま、あれだね。強がる相手が浅島くんしかいなかったからわざわざ会いに来てみただけー」
崇宏はポケットに手を突っ込んだままノリに背を向けた。
本人は強がりに来たらしいが、その背中には哀愁が漂っている。ションボリという言葉がよく似合う男だ。
ノリは小さくため息をついて呼び止めた。
「ごめん。手は出してないとかウソ」
「はぁ!?」
「まぁあれだ。お互い大人だしな。瑠依に捨てられたら連絡ちょーだい。すぐ引き取りに行くし」
「おまえ……やっぱ今すぐ沈めっ!」
「じゃあな。“なんにも知らない”バカヒロくん」
茫然とする崇宏に背を向けて歩き出すとノリは肩を揺らした。馬鹿だからあれで励ましにきたのだろうと想像するだけで笑えてくる。
ひとしきり笑ったノリは、スマホに残る瑠依のデータを削除した。その指に迷いはない。
「むかつくよなぁ。俺だって好きな女の幸せが一番だっつーの」
毎年瑠依が見上げていた天の川は今年もうっすらと輝いていて。瑠依があの空になにを願ったのかも隣でずっと見てきた。
鬱積した気持ちはバカヒロの登場で晴れたのだろうか。空を見上げるノリの表情はスッキリしていた。
崇宏はノリの背中を見送ったあと、瑠依の会社へと向かった。ビルから人が出てくるたびに尻尾を振るが、なかなか想い人は出てこない。
ふと目の前に小柄な女性が立っていて、じっと崇宏を見上げていることに気づいた。
知り合いだっただろうかと崇宏もじっと女性を見下ろす。
どれくらい見つめあっていたのか、女性はやけに冷たい視線を向けると踵を返し、走り去った。クエスチョンマークだらけの崇宏の肩がぽんっと叩かれる。ハッとして振り返ると瑠依が怪訝な顔で立っていた。
「こんなところでなにしてんの?」
「んー……瑠依ちゃんのこと待ってたんだけどね? 今なんか変な女の人が……」
「ナンパ?」
「まさかー。知らない人なんだけど、睨まれちゃった」
「不審者だと思われたんじゃないの?」
「そうかも。あ、瑠依ちゃん、お仕事お疲れさまー」
「ありがと。あんた、両替したの?」
「やだなー瑠依ちゃん、そんな細かいことはいいじゃん。それよりごはん食べに行こうよー」
「お金のない人とは食べに行きません」
「あれ? 偶然、食事代だけ財布に入ってる!!」
いそいそと手をとった瞬間、瑠依は崇宏の手を振りほどいた。驚く崇宏に瑠依は慌てて笑みを浮かべる。
「ごめ……なんか、えっと……手汗?」
「あー……そっか。ごめんね? んと、手繋いでもいいですか!」
「う、ん……」
おずおずと差し出された手をそっと握る。んじゃ、行きましょー! と手を繋いだまま歩き出したが、崇宏は心穏やかではない。ちらりと振り返るものの、瑠依は繋いだ手を見下ろしたまま顔を上げる気配もない。
崇宏には今瑠依がなぜ手を振りほどいたのか、心当たりがあった。崇宏不在の6年の間、瑠依が繋いでいた手と違うのだろう。
「ねー瑠依ちゃん」
「え?」
「大好き」
「うん……」
「……やっぱりおうちに帰ろうか! 俺はだらだらしてたけど、瑠依ちゃんはお仕事だったもんねー。あのね! 俺ね! ディナーも作れるようになったんだよ!」
「そう、なんだ……」
「うん! 瑠依ちゃん、なにが食べたい? けっこうなんでも作れるよ!」
「あのね、崇宏、」
「スーパー寄って帰ろうね!」
瑠依に視線を向けず、崇宏は絶えず話し続けた。勝手だということは重々承知している。けれど崇宏は今、瑠依が言おうとしている言葉の先を聞く勇気がない。その言葉を言わせてしまったら、今度こそ本当に終わってしまう。いくら馬鹿な崇宏にもそれくらいはわかる。
突然戻ってきて有無も言わさず指輪を押し付け、両替を理由に家に居座ったところで、自分が勝手に断ち切った6年もの空白は埋まらない。
一方的に崇宏が話し続け、相槌を打っていた瑠依は、今は崇宏の腕の中で眠っている。
起こさないようにそっと額に唇を押し当て、抱きしめる腕を強める。
「瑠依、ちゃんと話聞いてあげられなくてごめんね……浅島に返してあげられなくてごめんね……」
瑠依がまだ起きていたことも知らずに呟いた声は震えていた。




