#36
電話を切った崇宏は、表情ひとつ変えることなく、つかつかと作業デスクに向かう。
デスク前にあるボードから瑠依の写真を1枚ずつていねいに外し、ひとつ残らず箱に詰めた。さて、この作業は何度目だっただろうか。
そのあとはクローゼットを開け放ち、バッグの中に手あたりしだい着替えを押し込み、貴重品が収められている金庫からパスポートを取り出した。
そして皺くちゃになった退職届と書かれた封筒をデスクの上に放り投げ、勢いよく部屋のドアを開ける。
ちょうどそのときドアをノックしようとしていたらしき未央子が行き場のなくなった手を空に浮かせ、目を丸くして崇宏を見上げる。
「崇宏、どこに行くの?」
「帰る。緊急事態」
「え!?」
「瑠依が大変。急いで帰らないとアホ詐欺師が」
「だめよっ!!!」
未央子はほとんど体当たりで崇宏を部屋に押し込んだ。
睨みつける崇宏の身体をぎゅっと抱きしめる。
「行かないで! もういいじゃない! どうしてあの子なの!? いつになったらあたしを見てくれるの!?」
「放せ。最初に言った。俺は絶対におまえの男にはならない」
「いや!! そばにいてくれるって言ったじゃない! 独り立ちできるようになったらあたしはもう用済みなの!?」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? そもそも独立できるまでの契約でしょ?」
「だってそう言わなかったらあなた、あたしのそばにいてくれなかったじゃない!」
「俺は修行しに来たの。あんたとの契約はもうとっくに終わってたはずなのに、卑怯な手使って引き止めたから残ったんだろ?」
ぐいぐいと引き離そうとする崇宏とは逆に、未央子はきつく抱きしめる腕を放さない。
そもそも今、日本は何時だと思いながら崇宏は時計を見上げた。こっちで9時ということは日本はだいたい真夜中じゃないか!!!
ようやく未央子を引き剥がすことに成功した崇宏は部屋を飛び出した。
「妊娠してるのっ!」
未央子の声に崇宏は足を止め、深々とため息をついた。
「あのさ。今どき小学生でもなにをすれば妊娠するか知ってるよ? なんで俺にそんなこと言うの……」
「妊娠、してるのっ!!」
「はいはい。でも俺の子じゃないねー。やってないもん」
「したもんっ!」
「頭、大丈夫?」
「崇宏っ!!」
泣き崩れる未央子を見下ろし、崇宏は心底うんざりしていた。
契約満了の際は『死んでやる!』と喚き散らし、スタッフがなんとか宥め、共同の仕事がある1年だけ残るということで双方歩み寄ったという経緯がある。翌年は多忙すぎて残らざるを得なかった。
死ぬ死ぬ詐欺の次は妊娠したした詐欺ときたか。もはやため息も出ない。
「あのさー未央子さん。俺ね、瑠依が好きなの。大事なの。あいつがいないと生きていけない。ホントにそろそろわかってくれないかなー」
「あたしだって崇宏がいないと生きていけない!」
「6年一緒にいたけどさ、俺、やっぱり未央子さんのこと好きになれない。すでに瑠依から嫌われていたとしても無理。瑠依に会いたい。まじでさ……そろそろ解放してよ。頼むから」
崇宏の声が震えたのを感じ、未央子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
こんなに泣いているというのに、崇宏は1歩たりとも未央子に近付かない。6年間、一度も笑顔を見せなかった崇宏は、今も苦悩の表情を浮かべるだけで、未央子を見下ろす瞳には愛情の欠片すら見当たらない。
「……どうしても、帰るの?」
「うん。瑠依に会わなきゃ」
「……空港まで送らせて……それで諦める……」
「ホントだね? 今度俺を騙したらただじゃ済まさないよ?」
ようやく未央子のそばまで歩いてきた崇宏は、腕を掴んで立ち上がらせると冷たい瞳で顔を覗き込んだ。
「次はもう、許さない。1時間で用意して」
部屋から追い出され、目の前でドアが閉じられる。
こんな扱いには慣れていた。けれど今の未央子は涙が止まらない。
師であったはずが、たったの数年で追い越され、今ではプライドだけで写真を撮り続けている。崇宏と一緒にいられるならばそれでもよかった。あと数件の依頼が終わったら、ふたりでどこか旅をしながら自分は趣味で写真を撮ればいいとすら思っていた。崇宏もそうしているうちに自分を愛してくれるようになるかもしれないと信じていたからだ。
けれど、6年間、一度も崇宏は自分を女として見なかったどころか、ほんの少しの情も自分に向けることはなかった。それは、これからもそうだということに気づかざるを得ない。
いつ、間違ったのだろうと思い返し、未央子は気づいた。
何気なく行った母校の学園祭でひと目ぼれした写真。
「あの写真は誰が撮ったの?」と未央子が声をかけたのはすらりとした女だった。後輩を介して撮影者とあいさつしたあのとき。その女のために撮ったものだから譲れないとキッパリ言われたあのとき。
気づいていればよかったのだ。絶対に敵わないと。
権力を振りかざさず、素直に言えばよかった。
未央子は今さらながら後悔する。
そっと部屋のドアを撫でる。
未央子はドアの向こうにいる崇宏へ思いを馳せ、静かに背を向けた。
きっかり1時間後、泣き腫らした目をこすり部屋を出ると、壁に寄りかかりスマホを操作している崇宏の姿があった。
崇宏は一瞬顔を上げ未央子の姿を確認しただけですぐに視線を落とした。
もう視線すら合わせてもらえないのかと絶望する未央子に声をかけることなく、崇宏はスーツケースを手に歩き出した。
6年間見続けた崇宏の姿は手を伸ばせば届く距離だというのに、触れることさえずっと拒まれている。
どんなに泣き喚いたところで、この男はなんの躊躇いもなく自分をここに置いて帰っていくのだ。
そう思っただけで未央子の瞳にはふたたび涙が溢れてくる。
未央子が運転する車が空港へと向かう。車内は無言。崇宏はずっと携帯に視線を落としたままだ。
これがおそらく最後となるのに、未央子はもうひと言も話せなかった。口を開けばまた崇宏を騙して引き止めてしまう。
今でも十分すぎるほど嫌われているというのに、これ以上の絶望を味わいたくない。せめて事故だけは起こさないよう、無事に崇宏を空港へと送り届けられるよう、何度も口の中で復唱しながら運転に集中する。
空港が見えてくると崇宏が小さく息をついたのがわかった。もしかすると空港とは別の場所に連れて行かれるとでも思っていたのだろうか。そこまで信用も失っていたのかとショックを受けながらも、車を駐車場へと向かわせる。
車を止めると崇宏はいそいそと降りた。未央子も慌てて車を降りる。後部座席から荷物をすべて取り出した崇宏は、茫然と立ち尽くす未央子に視線を向ける。いつもと同じ冷たい瞳に未央子の身体が竦んだ。
「ありがと。ここでいいよ」
「見送らせて!! 絶対に引き止めたりしないからっ! 信じて!」
縋り付こうとした手は、崇宏に触れる前になんとか思いとどまった。その手を見下ろしていた崇宏はゆっくりと未央子へと視線を移す。
ややあって、崇宏は荷物を手に歩き出した。追いかけてもいいのだろうかと逡巡する。どんどん離れていく背中をただひたすら見つめていると、崇宏は急に立ち止まって振り向いた。
「置いてくよ?」
「見送らせて、くれるの……?」
「日本までついてこないならね」
ふたたび歩き始めた崇宏の背中を未央子は零れ落ちる涙を拭って追いかけた。
せめて最後くらいは迷惑をかけないように。最後の信用だけは失わないように。そう何度も言い聞かせる。
頬を流れる涙は止まらない。唇を押さえていないと嗚咽が漏れる。未央子は頬の内側を噛みしめながら必死で堪えた。咥内に鉄の味が広がる。
小走りで追いかけている未央子にペースを合わせることなく先を歩き続ける背中は、もう振り向くことはなかった。




