#35
瑠依をタクシーに乗せて帰したあと、部屋に戻ったノリはぐるりと見渡した。
必要最低限の物しか置かれていない殺風景な部屋は、ノリの性格が表れている。
もともとノリはなにかに固執することがない。それは人付き合いにも言え、知人ならそこそこいるがけっしてその懐へ入ることなく常に一歩外で当たり障りのない付き合いしかしない。
そんなノリが唯一、こんな自分もいたのかと驚いたのは、大学時代の“友人”との出会いだ。
その友人は、自分の彼女を振り回し振り回されながらも常に笑顔でいた。周りの人からバカヒロと揶揄されても気にするそぶりもなく。
いつものようにつかず離れずの距離を保って付き合っていたつもりのノリでさえ、気がつけば彼のペースに巻き込まれ、つるむかたちになり、心の底から笑っていることが多くなった。そしてそんな付き合いも、嫌なものではなかった。
彼が大事にしていたのはたったふたつ。鬼のような彼女と、馬鹿みたいに純粋な瞳に映った景色をそのまま切り取ったような写真。
その宝物のひとつを切り捨てて、彼はもうひとつの宝物を抱えて飛び立った。
彼の苦悩は、二度しか目にしていない。一度目は大学を辞める日。それと同じ日、瑠依を置き去りにし日本を発ったのが二度目。それなのに、彼が残した気持ちと後悔するであろう日を想像し、苦い思いをした。適度な距離を保つ主義のノリが、空港まで見送りに行ったほどに。
だから――。
スマホを開いたノリはしばらくそのまま画面を見つめた。迷っていた指がようやく決意したように動く。
コール音が数回鳴り、途切れた。
『浅島、ナイスタイミング! 今帰宅ー。俺、お疲れさま!』
予想どおりの能天気な声にノリは笑った。
「相変わらずだな、おまえ」
『んー。でも超まじめに働いてる。えらいだろー』
「帰国予定は?」
『もう少しで自信持って帰国できる感じかなー。早く瑠依に会いたい』
「……そんなに会いたい?」
『当たり前だろー。俺、どんだけこっちでがんばったと思ってんの』
「ルイ様、彼氏とかいたらどうすんの?」
『…………泣くね。でも瑠依が幸せならいい。会わない』
それはノリにとって意外な返答だった。
土下座してでもよりを戻そうとするのではと思っていただけに、まさか瑠依の幸せを優先する思考能力があるなんて想像もしていなかった。
テーブルの上に残された瑠依のグラスにそっと触れたノリは、無意識に唇を噛んでいた。
迷いも後悔もないはずだと言い聞かせ、込み上げてくる感情にふたをする。けれどもその唇はなかなか音を紡がない。
何度も開きかけては閉じた口がようやく弧を描く。
「心配しなくても瑠依に彼氏なんていねーよ」
『ホント!? よかったー……って、おい。おまえ、瑠依ちゃん呼び捨てにすんな』
「さっきまでうちにいたけど。瑠依ちゃん」
『はぁぁぁぁぁ!?』
ガシャンと衝突音が聞こえ、一切の物音が消えた。
ややあって、慌ただしい音が聞こえてくる。
『待て。瑠依に手を出すなって俺、言った』
「洋介に言ったんだっけ? あー今思い出した」
『ふっっざけんなアホ!! 主におまえに言ったんだ! 超危険人物! 超危険因子!! くそー許さん。今から来いすぐに来い大至急来い!!』
「勝手なこと言うなよ。おまえ、瑠依を捨てたんだろ? そんなおまえに瑠依を留めておく権利なんかないだろ。大事なら待ってろくらい言ってやればよかったんじゃねーの?」
『言えるかアホウ!! まじおまえもう嫌い。ほんと嫌い大嫌い。真剣に殴りてぇ』
呻く声にノリは小さく噴き出した。
仕返しはこのくらいにしてやろうと、ふたつのグラスをキッチンへ運ぶ。残った日本酒をシンクに流しながら息を吸い込む。
「数年罵られながら友だち付き合いしてきたけど、残念ながら手は出してない。だけど今の瑠依は俺のこと好きだよ。どうする? もらっていいなら遠慮なくもらうけど」
『うわーぃ……まじで最悪。いいか浅島。今すぐ帰る。首洗って待っとけ!!!』
ぷつんと切られた通話にノリは笑う。
ついさっきまでこの腕の中に瑠依がいた。崇宏との関係をばらさなければ、手に入ったかもしれない。
なのに手の内を明かしたのは、騙し続けた罪悪感だけではなく、思い出したからだった。
崇宏がカナダに渡って3年後だったあの日、偶然会った瑠依がまだ崇宏を想っていたのがわかってうれしかったこと。崇宏の口調を真似てもなかなか瑠依が落ちなかったのは、ずっと忘れられずにいたからだと知っていた。それでよかった。
目的は違ったはずだった。
けれど気がつけば、初めて本気で欲しいと思っていた。
数少ない友人を傷つけたとしても、周りの誰かを苦しめたとしても、なにもかも失うことになったとしても、瑠依だけは欲しいと思ってしまった。
結果、絶対に手は出さないと決めていたのにキスをした。一歩踏み込む前、瑠依はたしかに自分を想ってくれていた。嬉しかった。けれど、踏み込んだのは失敗だったと悟った。
一瞬でできた壁は高くて厚い。
今まで経験したことのない苦しみしか残らなかった。ようやく、ここまでなのだと諦めがついた。
これ以上、瑠依を困らせたり悩ませたりしたくはない。これ以上、崇宏を裏切りたくない。
ノリはもともと瑠依を監視する目的で近付いた。崇宏が戻ってくるまで瑠依のそばで害虫を追い払うためだけに。
もっと近くにいたいと思ってしまったこと自体、ノリにとっては想定外だった。
「早く帰ってこいっつーの……。そうじゃないと瑠依、泣けないだろ……」
小さく笑ったノリは、ソファに身体を投げ出し、腕で顔を覆う。
情けなー……と呟いた声はしんと静まり返った部屋に響いて消えた。
自宅に駆け込んだ瑠依は自分の浅はかさに心底苛立っていた。
ノリのことが好きだと、なぜ言えなかったのか。6年も前に自分を捨てた男のことなんかさっさと忘れて、ずっとそばにいて支えてくれたノリを、もっとちゃんと最初から見ていればよかった。
そんな気持ちでさえも自己中心的で腹立たしい。
ノリにあんな顔をさせたことも、あんな言葉を吐いたことも、悔しくてならない。
「遅かったわね」
ふいに聞こえた声に瑠依は勢いよく顔を上げた。ここは瑠依の家だ。ひとり暮らしのはずだ。
「変な顔」
「……なんでいるの?」
「大事なことをやっと思い出したから電話したのに、出ないから来てやったのよ」
「……別の日にしてくれる? 今あたし、お姉の話なんか聞く余裕ない……」
「そういうわけにはいきません。今のあんたの彼氏、ノリだっけ? あの子、気味悪いくらい崇宏くんに似てない? それで付き合ってるんならやめとけって――」
「似てないよっ!!」
「瑠依?」
亜依は両手で顔を覆って蹲る瑠依の肩にそっと触れる。
「気づいていたんならいいんだ。んじゃ、もう言うことはないわ」
どんなに苦しくても、瑠依は涙を流すことすらできない。
あんな馬鹿男と口汚く罵って、忘れたふりをし続けて、なのにいつも姿を探していて。
ノリに言われるまで気づかなかったが、このままだとずっとあの馬鹿を待ち続けるのではないかと情けなくなってくる。
「あんた……崇宏くんに会いに行ってきたら? 私があの子の現在地、調べてやってもいいけど」
「――いい。あの馬鹿はあたしがいつか自分で見つけて思いっきり殴ってやるんだ」
「そう? じゃあ姉らしくいいこと教えてあげる。鳩尾にね、捩じりながら拳入れると痛くていいわよ」
なんの助言にもならない言葉を残し、亜依は帰っていった。
ノリへの想いは、ノリが言ったように崇宏の影を追いかけていただけなのだろうか。
一緒にすごした時間の中で、崇宏の顔を思い出せなくなったのは単なる偶然だったのだろうか。
好きだと言われて舞い上がっていただけなのだろうか。
今日はじめて交わしたキスに違和感を覚えたのは、記憶の中のキスと違ったからなのだろうか。
たったひとつだけわかったのは、崇宏に会いたいという気持ちだけ。
会いさえすれば、諦められるかもしれない。
瑠依の気持ちは、6年前、崇宏の家に置き忘れたままだ。




