#34
家に着くと、ノリは冷蔵庫の中から一升瓶を取り出した。
座っていてと言われても、他人の家は落ち着かない。まして男性の部屋にひとりで訪れるなんてスキルは、瑠依にはない。
わりときれいに片づけられた部屋は観察するものもほとんどなく、なんとなくノリの姿を追ってしまう。
ちなみに、あれっきりノリは写真の瑠依について一切触れてこなかった。突っ込んで聞かれたらどうしようなどと得体の知れない不安に押しつぶされながら緊張していた瑠依は、その点についてのみようやく気持ちを落ち着けたところだ。
そもそも、あの写真を撮った人物のことを聞かれたところでなんの問題もないはずなのだが、そんなことにすら気づかなかった瑠依は、結局ひとりで無駄にドキドキしていたことになる。
「瑠依ちゃん、冷酒でいい?」
キッチンでグラスを選んでいたノリが振り向いた。
「うん」
「よかった。マグカップでレンチンの熱燗しかできなかったー」
「おちょこくらい用意しておきなさいよ……」
「用意したらまた来てくれるのー?」
瑠依に背を向けてしまったノリからは表情は窺えない。返答に困った瑠依は自分の煮え切らない態度に苛立ちを覚えた。
すっかり黙りこんでしまうと、助け舟でも出すようにノリは笑う。
「なーんてね。さーて飲もうか! これ、部長から強奪したんだよねー。社長のおみやげだったらしいんだけど、俺らにはなにもないとかひどいでしょ? じゃんけん大会の末、勝利。俺、えらくない?」
「えらい……」
「でっしょ! 一生分の運を使い果たしたかもねー。ささ、どうぞー。ぐいっと、どうぞー。きっと瑠依ちゃん、気に入ると思うよ」
ノリの気遣いに複雑な思いを抱えながらも、勧められるままにグラスを傾ける。きりっと冷えていて口当たりも良い。調子に乗って飲んでいたらガクンと潰れそうなほど飲みやすい日本酒だった。
瑠依が満足げなことに安心したのか、ノリもグラスに口をつけ、ホッとした表情を浮かべた。
だから気づかなかった。いつになくノリが饒舌なことも、視線を合わせようとしないことも。
ノリの持つ独特のゆったりした雰囲気とゆるい会話にすっかり気も緩んだ瑠依は、隣に座っていたノリに肩を抱かれるまで警戒心の欠片もなかった。
近いってば、と軽く小突いたが、反応がないことを怪訝に思い、見上げる。
「瑠依、ごめんねー」
ゆっくりと顔が近づいてくる。ノリと向き合おうと思っていたはずだったのに、瑠依の頭に浮かんだコマンドは“逃げる”だった。
唇が重なった瞬間、胸が痛くなった。知らない唇と、背中を支える知らない腕。
啄むように何度も重ねられる唇は、やがて逃げる瑠依の舌を追いかけ絡められる。不安に似た切なさが身体の中に溢れてくる。咄嗟になにかが口をついた。
ようやく唇が離れるといつの間にかラグの上に組み敷かれていた。
「瑠依ちゃん、俺のこと、好き?」
「あたし……」
瑠依を見下ろすノリの瞳が悲しそうに揺れる。好きだと言いたいのになぜかそれは言葉にならない。
思わず手を伸ばし、ノリの頬をそっと撫でた。その手にすり寄るように頬を押しつけたノリは、もう一度瑠依の唇に吸い付く。
ふいにぎゅっと抱きしめられ、気がつくと瑠依の視界が滲んでいた。
深く唇が重ねられ呼吸が苦しくなる。
「んっ……ノ、リ、」
「ごめんね、瑠依」
「苦し……」
「瑠依が好きなのは誰?」
質問の意味がわからず、瑠依は乱れた呼吸を整えながらノリを見上げた。
寂しそうに微笑む顔が瞳に映る。
「瑠依が好きなのは、俺? それとも……崇宏?」
突然出された名に瑠依の心臓が大きく鳴った。
「え……?」
「瑠依、俺の名前、憶えてないだろ」
「ノリ、でしょう?」
「まあ、ノリで合ってるけど。フルネームは浅島忠則」
「あさ、じま……?」
「そ。覚えてる? 大学時代、崇宏とつるんでいたんだけど。おまえ、興味がないと人の顔も名前も覚えないのな。気づかなかっただろ?」
小さく笑ったノリは、瑠依の身体の下に腕を入れて抱き起す。がらりと変わった口調に戸惑う瑠依を無視してそのまま強く抱きしめた。
「ちょっと限界だったんだよね」
「なに、が……」
「瑠依を騙していることも、崇宏を忘れていない瑠依のそばにいるのも」
「なんのことかちょっとよくわかんな……」
「俺のことを好きになってくれようとしてるの、ほんとうはうれしいんだ。でも苦しいんだ。必死に崇宏を忘れようとしてる瑠依を見てるとね」
「ノリ……?」
「もう一度だけ聞く。瑠依が好きなのは、誰?」
とっさに口を開こうとした瑠依の唇は、ノリの手のひらで遮られた。
「よく考えて。瑠依が好きになったのは、崇宏の真似をした俺? それとも本当の、俺?」
なにを聞かれているのか理解できない瑠依は、ノリを見上げることしかできない。
「わかるだろ? 今、おまえが好きだと思い込んでるのは俺じゃない。崇宏の代わりになろうとした俺」
「……なんで、そんなこと言うの?」
「瑠依が好きだから。今あいつが帰ってきたら、おまえはどうする? あいつは絶対におまえの前に姿を現すよ。そのときおまえ、俺を選んであいつのこと捨てられる?」
「そんなのっ!」
「だよね。おまえはきっと俺から離れないよ。どんなにあいつのことが好きでも。戻りたくても。追いかけたくても」
「もう終わったことだもん!」
「そうか? でも瑠依、さっき言ったけどな。崇宏の名前、呼んだの、気づいてない?」
絶句した瑠依の頬がそっと撫でられた。苦笑いしたノリは小さくため息をついてソファに寄りかかる。
「まぁ、正確に言うと名前を呼んだのか、キスは高いわよとか言おうとしたのかわかんないけど。でもイッコだけ確定」
「…………」
「瑠依はあいつを忘れることなんかない」
「そんなこと……ない」
俯いた瑠依の顎が掴まれて顔を上げさせられる。唇が近づいてきた瞬間、瑠依は思わず顔を背けた。
「ほらね。俺に崇宏の影が見えなくなったら、怖いだろ?」
「ノリは、どうしたいの? あたし、本当に、」
「うん。好きになってもらいたかったし、瑠依が自分の気持ちを勘違いしたままでいてくれたらいいって思った」
「勘違いなんかじゃ」
「無理しなくていいんだ、もう。騙しててごめんね?」
「ノリ、あたし……」
「ま、何年も前からわかりきってたことなんだけどさ」
ノリの手が伸びてくる。瑠依の意思に反して身体がびくりと震えた。
苦笑いしたノリは、小さく手招きする。おずおずと近付いてきた瑠依を宥めるようにそっと抱きしめる。
長い間、騙しててごめんね。でも本当に瑠依のことが好きになっちゃったんだ。
瑠依の肩に額をのせたノリが掠れた声で呟く。
瑠依は何度も頷きながらノリの身体を抱きしめた。
「自業自得だし、自分で終わらせないとってがんばってみました」
「あたし……」
「なんてねー。……崇宏なんてもう、戻ってこなきゃいいのにな。やっぱ俺、おまえのこと手離したくねーや」
身体を離したノリは困ったように笑う。
「ばらしたところで、ぜんぜん気持ちがおわんねーとかなんだろうね。なっさけなー……」
天井を仰ぎ見るノリの唇が弧を描いた。その唇が次の言葉を紡ぎだすのを、瑠依は黙って見つめることしかできない。
しばらくして、口角が上がったままの唇が開いた。
「さて、そろそろトドメ刺そうか、瑠依。……俺の気持ち、諦めさせて」
ノリの気持ちが痛いほど流れてくる。瑠依はまっすぐにノリを見つめた。
ほとんどずっと一緒にいた。はじめは本当に迷惑な害虫だとしか思っていなかった。触れられるのも嫌だった。
いったいいつ、ノリの存在が自分の支えに変わったのだろう。
いつまでも馬鹿男を忘れられずにいる自分を、どうしてこんなにも待ってくれたのだろう。
浮かんでくるのは、図々しくも常にやさしかったノリの姿。そしてその向こう側にはいつも、馬鹿面で笑う馬鹿男がいた。
小さく息を吸い込み、震える唇を開く。
「……崇宏を、忘れられない……」
「よかった……。最後に俺を見てくれてありがと」
にこりと微笑んだノリはもう一度ぎゅっと瑠依の身体を抱きしめた。
ノリの肩越し。瑠依は震える唇を噛みしめる。




