#33
『瑠依ちゃん、明日ちょっと買い物付き合ってほしいんだけどー』
風呂上りの瑠依のスマホが鳴り、通話ボタンに触れた瞬間聞こえるのはすでに日常となってしまったノリの声だった。
濡れた髪を拭きながら、瑠依は冷蔵庫を開ける。よく冷えた缶ビールを手にソファへ身を投げ出しながら脳内のスケジュールを辿る。
「んー明日か。ちょっと面倒かな」
『ひどい!』
「買い物ってあんたねー。女子じゃあるまいしひとりで行きなさいよ」
『どっちにしようか迷って買えないんだもん!』
「じゃあどっちもやめたら? ごめん、私ちょっとこれからドラマ見ないと」
『瑠依』
「んー?」
缶ビールのプルタブを引き、口をつけたその瞬間。
『愛してるよ』
ぶぶーっと黄金色の液体が飛び散った。
「あ、あんた!! 噴いたじゃないのっ!」
『瑠依が悪い。ドラマと俺、どっちが大事!?』
「ドラマに決まってるでしょう!? もう用がないなら切るねっ!」
ぷつっと通話を終了させた瑠依は飛び散った液体を肩にかけていたタオルで拭き取る。まったくなんなのよあのアホは、とブツブツ呟く瑠依の頬は赤い。
普段はそんなそぶりも見せないし、あれっきりなにも言われないことに安心していたというのに、なぜあのタイミングで恥ずかしげもなくそんなことが言えるのだ。
タオルを洗濯機に放り込み、瑠依はそのまま寝室へ向かった。とてもビールなんて飲める気分ではない。ドラマなんてすでにどうでもよかった。
ベッドに倒れ込んだ瑠依は手を伸ばし、バッグの中から手帳を取り出す。
挟んである写真はもう端がよれてきていたが、色はさほど褪せていない。そこに写るのはなにがそんなに楽しかったのか笑っている自分。今はどこでなにをしているのかもわからない男が隠し撮りした写真だ。
「生きてるのかなー……」
ぽつりと呟いた自分の声があまりにも悲しそうで、瑠依は思わず笑った。
もうあの馬鹿男のことは忘れて、ノリのことだけを考えようと決めたはずなのに、いまだに瑠依は自分の気持ちに決着がつけられない。
翌日、取材データの確認をしていた瑠依は、思わず手と息を止めた。
画面に映っているのは一度だけ会ったことがある女性カメラマンだ。
有名企業の社長令嬢だった彼女が写真と出会ったきっかけ、単身カナダへ渡り、そこで活躍している様子がテキストになっている。
ここに、きっといる。
そう思った瞬間、瑠依はトイレに駆け込んでいた。激しくなる心臓の音を抑えつけるように深呼吸を繰り返す。
ぶら下げていたスマホを手に取り、瑠依は震える手でメールの作成画面を開いた。
――会いたい。
そう入力して送ったメールは、すぐに迷子となって戻ってきた。
「もー……なにやってんの、私……」
トイレに響く、瑠依の声は震えている。けれど涙は出ない。
とっくに繋がりなんて切れていたのに、ずっと現実を見てこなかったのは自分だ。瑠依は嘲笑する。
せめてこのメールを別れたあとすぐに送っていたら。
アドレスを変更される前に送信することができていたら。
自分は今ごろ、こんな男に見切りをつけて新しい人生を歩めただろうか。それでもやっぱりひとりでいただろうか。
積もりにつもった想いは、何年経っても行き場はなく、消え去ることもない。
もう終わりにしよう。
瑠依はメッセージアプリを開き、別の人物へ送信した。
いつものように、ノリは局ビルの前で待っていた。瑠依の姿を見つけると笑みを浮かべ、歩いてくる。
「珍しいよね、瑠依から連絡くれるの」
「そう? 早く買い物終わらせてごはん食べに行こうよ。おなかすいた」
「ん。瑠依ちゃん、なにかあった?」
「別にー。なんで?」
「なんか……いや、なんでもない。今日はなに食べたい?」
「ラーメンとギョウザとチャーハンとネギチャーシューと煮玉子」
「嘘ばっかり。そんなに食べないでしょー瑠依ちゃんは」
おかしそうに笑うノリに背を向け、先に歩き出した瑠依はひどく後悔していた。ノリと向き合っていこうと決断した理由が、忘れようと必死になっていた男との繋がりが途切れた現実を突き付けられたからだなんて失礼すぎる。
少なくともノリはまっすぐ自分を想ってくれている。そんな相手に対して、あっちがダメだからこっちなんて都合のいい気持ちを持っていいわけがない。そうじゃなくても瑠依は恋愛初心者。
やはり帰ったほうがいいと顔を上げた瑠依の手が繋がれる。
「別にいいよ、俺。そーゆーの気にしないから」
「え……?」
「そんなに思いつめた顔しないでよ。瑠依はもっと、俺を利用していいんだよ?」
そう言って微笑んだノリの表情は、けっして本音ではないことがわかるほど切なげで、瑠依は手のひらをきゅっと握った。
「ごめん……最低だ、私……」
「そんなの今に始まったことじゃないでしょー。どれだけ毎日俺のこと嫌いだウザイ言ってると思ってんのー?」
冗談っぽく軽口をたたくノリのことを、自分はどれくらい見てきたのだろう。
似ている、ということから抜け出せず、よく知りもしないでシャットアウトしてきただけではないだろうか。
少なくともこの数年、瑠依は孤独を感じないできた。それはいつもこうしてノリがいたからだ。
「けなげなボク、ちょっとかっこいい!」
「……ほんと、アホだね」
その言葉が精いっぱいだった。
繋いだ手は放せない。
買い物が終わり、近くのラーメン屋で食事を済ませて駅へ向かう途中、ノリは突然瑠依の手を引いた。
立ち止まってなにか考えているようだ。瑠依は怪訝な表情でノリを見上げた。
「瑠依ちゃん、今日は俺の家に来てみない?」
「はぁ!?」
「あー大丈夫。襲いません。なんか今日は倒れるまで酒飲みたい気分!」
「なにそれ」
「行きましょうー。そういえばおいしい日本酒もらったし、ひとりで飲むの、寂しいでしょ。付き合ってよ」
「無理。絶対むり」
「大丈夫だいじょうぶ。絶対に襲いません。誓います」
そう言うなり、ノリは瑠依の手を引いて歩きだした。
いくら恋愛初心者の瑠依とはいえ、家に入ればどうなるかくらい理解している。今ならもうそうなってもいいと思えるくらい、ノリはずっと瑠依のそばで歩調を合わせてきてくれた。
もう、本当に忘れよう。これからもこうしてノリの隣にいるのなら、いつまでも断ち切れない気持ちを抱えているわけにはいかない。
平然とした表情を崩さないよう、細心の注意を払いながらも手を引かれるまま改札をくぐり、いつもとは逆の電車へ乗り込む。ちらりと窺ったノリの表情も特にいつもとは変わらない。
「そういえば瑠依、来週の金曜日ってあいてる?」
「来週? んーどうだったかな」
瑠依はバッグの中から手帳を取り出し、スケジュールのページを開く。急に電車が減速し、バランスを崩した瑠依を抱きとめたノリは、足元に落ちたものを拾い上げる。
「……これ、瑠依ちゃんじゃないの?」
「あー……うん」
「これを撮った人が、瑠依の好きな人……?」
「違うよ。ナルシストなの、あたし。かわいいでしょーその笑顔」
すぐさまノリの手から写真を抜き取った瑠依は、それを手帳に挟みバッグに押し込んだ。
悟られたくない。動揺していることを知られたくなかった瑠依は暗い車窓を黙って見つめていた。




