#32
ところで崇宏はというと。
海を越えて数ヶ月後には、すでに撮影以外の物事を思考することができなくなっていた。1年目は残念すぎる頭脳のせいで、会話にならず。2年目になると日常は廃人、カメラを構えると別人。3年目は仕事が手一杯で死にかけた。
カメラを構えていればそれなりに活動的になれるが、そうでないときは瑠依の顔がネガのように一つひとつ頭に浮かんでくる。
会いたさは募り、クライアントが満足する写真を撮ってさえいればそのうち日本に帰ることができると信じ、無心で撮り続けた。
その結果、荒々しくも繊細で貪欲さが感じられると、本来の崇宏にはまったくない部分で好評価を得た。
カナダへやってきて3年を過ぎたころには崇宏指名でオファーがくるようになり、多忙な日々を強いられる。3年更新のワークビザは当然のように更新された。
それと同時期に未央子の写真にも変化が見え、急激にではないにしろクライアントが減っている。そのせいか未央子はスタッフの小さなミスにもピリピリするようになり、事務所全体の雰囲気が重くなっていた。
ただひたすらカメラを構え、シャッターをきる。必死で技術を学び、慣れない言葉の壁も文化の違いも思考するのではなく肌で覚えていくしかない。
そんな年月を過ごしていたある日、バルコニーで夜空を見上げていた崇宏は大慌てで部屋に戻ってカメラを手にすると、ふたたびバルコニーへ出てカメラを構えた。
ファインダーに映る幾千もの星。視界が滲んだのはピントがずれていたからではないと気づいたのは、頬に熱い液体が流れてからだった。
「瑠依……」
ぽつりと呟いた言葉はあまりにも小さく、震えているのが自分でもわかった。
声だけではなく震える手でシャッターをきる。しばらくしてカメラを下した崇宏は、涙を拭うと部屋へ戻り、黙々とバッグに私物を詰め込んでいく。といっても、衣服などではない。カメラと、デスク前に貼りつけてある大量の瑠依の写真のみ。ただの1枚も、瑠依に気づかれることなく撮り貯めたものだ。
すべて詰め込むと、引き出しにしまい込んであった退職届と契約書を手に、足早に部屋を出る。
同じフロアにある未央子の部屋をノックすると、返事とともにドアが開いた。
「契約満了はすぎたよね? 俺、日本に帰る」
崇宏の唐突な言葉に追いつかなかったのか、未央子は少しの沈黙のあと、狂ったように叫ぶ。
「なんでっ!? このまま永住してくれるんじゃなかったの!? ビザだって更新したばかりじゃないっ!」
「それこそなんでそんな発想になったのかわかんない」
「ちょっと待ってよ! 日本に帰るってなにっ!? あなたの居場所なんてここしかないでしょう!?」
「冗談やめてよ。今日が七夕だったの思い出した。早く帰らないと俺――」
「だめよっ!」
未央子が体当たりした衝撃でよろけた崇宏は意図せず抱きしめる体勢になった。
騒ぎを聞きつけた同じフロアに住むスタッフがドアから顔を覗かせている。
「だめよっ! 日本になんて行かせない!」
「それって契約違反だけど」
「契約なんて知らないっ! どこにも行かせないっ! 私を捨てるなんて許さないっ!!」
日本語のせいでうまく聞き取れないスタッフは、崇宏と未央子の痴話喧嘩だと理解したのか、ニヤニヤして見ている。
「崇宏がいなくなるなら、私、死ぬからっ!!」
さすがにこの言葉には危機を感じた現地スタッフが未央子を宥めようと割り込んできた。けれども未央子はものすごい力で崇宏を抱きしめたまま離れようとしない。
茫然とする崇宏をよそに、未央子を落ち着かせることに必死なスタッフと、それを拒む未央子の攻防戦が繰り広げられる。
ようやく引き剥がされたかと思うと、泣き叫びながら自室へ駆け込んだ未央子が手にペーパーナイフを握りしめ、ふたたびフロアへと戻ってきた。
「崇宏がいなくなるなら私、今ここで死ぬからっ!」
「はぁ? そんなんで死ねると思ってんの?」
「死ねって言ってるの!?」
「もー……なんなの。大人げないよ、未央子さん。契約は守ってもらえないなら契約じゃないんだよね。そっちが守らないのになんで俺が譲歩してやらなきゃいけないの」
「もう私、死ぬ! 放してっ!」
未央子の振り上げた腕がスタッフの顎に当たり、悶絶している。
崇宏は体内の空気をすべて出し切ったのではと思うほど盛大なため息をつき、無表情のまま未央子を見下ろした。
その冷たい視線に一瞬、未央子の抵抗が止んだ。
「いいかげんにしろよ? みんなが必死になってなんとかフォローしてきたギャラで、あんたの事務所が今も維持できてること、知らないわけじゃないよね」
「崇宏のせいよっ! あなたがいつまでも日本にこだわるからっ!」
「当たり前だろ? 俺はあんたの世話をしに来たわけじゃない」
「…………」
「だいたい、スタッフに暴力ふるって平然としている人間なんて見たことない。スランプを責めるつもりはないけど、そろそろ目を覚ましてくれないかな。これ以上幻滅させないで」
涙で濡れた顔のまま、未央子は唖然と崇宏を見上げる。眉ひとつ動かさず冷たく見下ろす瞳に、日本語が不得意なスタッフでさえ困惑していた。
顎を押さえたまま立ち上がったスタッフが苦笑いで崇宏をとりなすが、未央子へと向けた視線は逸らされることなくまっすぐ見下ろしたまま動かない。
さすがに気まずくなったのか、未央子を引っ張っていたひとりが片言の日本語で妥協案を提示した。
崇宏はカナダで名前を残すためにこれから1年の契約を結び直す。未央子はそのバックアップと1年後の崇宏の自由を約束する、というものだった。
けれど、崇宏にとってはいい案ではない。このときすでに、崇宏が日本を離れて4年も経過していた。
意識していたわけではないが、毎年決まって気持ちが不安定になるのは七夕の時期。ちょうどその時期になると、崇宏はバルコニーでぼんやりと空を見上げることが多くなる。
今度こそ契約を打ち切って帰ろうと思うのだが、運がいいのか悪いのか魅力的なオファーが個人的に入り、崇宏自身も撮りたくなってしまう。
不安そうな表情のスタッフたちが崇宏の答えを待っている。中には涙目で見つめる者もいた。崇宏は小さく息を吐き出して頷いた。
その瞬間、フロアが歓声に包まれる。不本意ではあるが、ここにいるスタッフたちもこの仕事のために自国を離れてやって来た。今崇宏が抜けると基盤が未完のまま帰国することとなり、写真の道を諦めざるを得ない者が出てくるのは免れない。
「1年だよ? それ以上はないから」
沸き起こる歓声の中、未央子の手からすとんとペーパーナイフが零れ落ちた。ちらりと視線を向けただけで、崇宏はそこへ手を伸ばすこともなく踵を返す。
会いたさと愛しさだけがどんどん降り積もっていく。
崇宏は知らずしらずのうちにきつく唇を噛みしめていた。
苦しくても寂しくても、これが自分の選んだ道であり、瑠依を切り捨てたのは自分だということもわかっている。
だけど、会いたい。
遠くからひと目でいい、瑠依の笑顔に会いたい。
部屋に戻った崇宏は、星空を見上げて祈った。
そしてこのときの約束は当然のように反故にされ、また1年、この地に残らざるを得なくなる。けれど崇宏も諦めなかった。日本に戻っても仕事がくるくらい名前を残せればいいと何度も言い聞かせ星を見上げ続ける。
そんな契約も今、6年目にしてようやく満了を迎えようとしていた。
時期はもうすぐ、七夕。
逸る気持ちを押さえながらも、今年もその日はやってくる。着々とその日に迫っている。
ちょうど今、瑠依の気持ちが大きく揺れているなど、このときの崇宏は知るよしもない。




