#31
思いもしなかったノリの告白に瑠依は大パニックのまま帰宅した。まだ頬が熱いのはカクテルのせいだと何度も言い聞かせ、ソファにバッグを放り投げるとそのままバスルームへ向かう。
頭から熱いシャワーをかけ、そっと頬に触れてみる。そこに伝うのは紛れもなくシャワーの湯だ。瑠依は少しだけ安堵した。
別れ際、「ちゃんと考えてね」と追い打ちをかけられたせいで、頭の中にはノリの顔ばかり浮かぶ。それに気づいた瞬間、思考が止まる。
早く記憶から消し去りたいと思っていた男の顔が、急に霞んで思い出せない。
仕草も、声も忘れていないはずなのに、記憶の中の姿はノリにすり替わっている。
あんなにも忘れたかったはずなのに、いざ思い出せなくなると不安になる。
「……や、だ、よ……」
そう呟いた声は流れ続けるシャワーの音に消された。
ある日、珍しく勤務時間中にノリからのメッセージが届き、瑠依は休憩室に向かいながらスマホを開く。首を傾げながらそのメッセージをクリックした。
「仕事ミスった。今日は迎えに行けない――ってなにやってんの……」
思わず苦笑した瑠依は迎えになんて来なくていいと打ち込む。が、送信ボタンが押せない。
小さく唸り、文字を全部消すと、今度は深く考える。
『まじめに働け』と打ち込んでは、普段から仕事をしていないわけではないだろうしと消し、『久しぶりに納豆ごはんでも食べます』と書いては、これじゃあ一緒にごはんを食べたかったみたいじゃないかと消しの繰り返し。
散々迷って、『がんばれ』とだけ打ち込むなりすぐに送信する。どんな文字を入れたところでこれでいいのか悩むに決まっているからだ。
瑠依は大きく息をついた。ノリにメッセージを送るのはそんなに珍しいことではない。ただ、ノリの気持ちを知ってしまってからは返信のたびにこうして文章を考える時間が増えている。それがどうにも瑠依には納得できない。
少ししてスマホが震えた。がんばりますの返事だろうと視線を落とした瑠依は固まった。
そこに記されている『ありがと。愛してる』の文字。
瑠依は両手でスマホを握りしめ額に押し付けて項垂れる。頬は熱いし動悸がする。
「もう……勘弁してよ……」
とにかく恋愛から縁遠い瑠依にとっては、ノリの一挙一動が心臓に悪い。考えないようにしているつもりなのに、いつの間にかノリが脳裏に浮かぶ。
「……あんたもやばいかもしれないけど、あたしもやばいでしょ、これ……」
頬の熱はなかなか冷めない。突如現れた妙な感情に名前をつけることができないのは意地なのか、瑠依にはまだ答えは出せない。
それから4日ほど経って、仕事を終えた瑠依がビルを出るとノリが待っていた。
ほとんど無意識で駆け出した瑠依は、疲労の色が残るノリの顔を見上げた。
「久しぶりー」
「仕事は?」
「やっと終わった。いやーまいったね。取り戻すのにこんな時間かかるなんて思わなかった」
「そっか……。お疲れさま」
「いえいえ、自業自得でしたー。瑠依ちゃん、今日はお暇ですか!」
「お……暇です」
「ラッキー! 最近カップラーメンしか食べてないの。なんかおいしいもの食べに行こうよ!」
いつものように瑠依の手をとったノリはご機嫌な様子で歩き始めた。手を引かれノリを追う瑠依は繋がれた手を見下ろす。
まったく違和感がなくなってしまった手のひらと温もり。顔を上げればうれしそうに口の端を上げたノリがいる。
瑠依の視線に気づいたのか、歩を進めたまま、ん? と首を傾げる。慌てて首を振り隣に並ぶと、不思議なくらいホッとする。
なんだこれは、と瑠依は足を止めた。
「どうしたの?」
「なんか……変」
「えー? なにが変?」
「変!」
「えーちょっと瑠依ちゃん、どうしたの?」
どうしたのと聞かれて答えられるものは瑠依の脳内に存在しない。
繋がれた手をぎゅっと握ってみると、ノリは怪訝な顔をしつつも握り返してきた。
大きく鳴り続ける鼓動と頬の熱さに瑠依は数日ぶりにパニックに陥っていた。
ふいに瑠依の額に手のひらがあてられた。驚いて顔を上げると、ノリが心配そうに覗きこんでいる。
「どうしたの? 体調悪いの?」
言葉にできず、瑠依はぶんぶんと首を振る。
「おなかすいてないの?」
「えっと……」
「今日はやめとく? 送っていこうか?」
「やっ!」
驚いた顔をしたノリはしばらく瑠依を見つめて、ふっと微笑む。繋いだ手にほんの少しだけ力が込められた。
「もしかして、俺がいなくて寂しかった?」
「ちがっ……」
「そっかそっかー。俺は寂しかったけどね! 早く会いたくて、睡眠時間削るのも惜しくなかっ――……」
「……ノリ?」
「あー……うん、なんでもない。ごはん食べに行けそ?」
「うん……」
「よかった。具合悪くなったらすぐ言ってね?」
ノリの手のひらが頭を撫で、離れていく。
瑠依はこの妙な違和感に当てはまる感情があることを思い出した。歩き出したノリの横顔は、唯一その感情があった相手のそれではないことも。
「ノリ……」
「ん?」
「お疲れさま……」
「さっきも聞いたよー」
「うん……」
「でもうれしい。ありがと」
この感情に名前がついたような気がした。瑠依の中ではまだ戸惑いがある。
けれどもう、6年になる。そろそろ本当に捨ててもいいのではないかという気持ちが芽生えているのも事実。
ノリがこうしてそばにいるようになって3年。
「さみし、かった……かも、しれない……」
ぽつりと呟いた瑠依の手がぎゅっと握られた。
「ん。ごめんね? もうこのようなことはないようにします」
「はい……」
「でも瑠依ちゃん、あんまりかわいいこと言っちゃダメです。ボクの優秀な理性くんたちが混乱します」
「は!?」
「いかがわしい所に連れ込んでしまいそうなので、今日はお酒NGです」
「アホじゃないの……?」
「由々しき問題です。ねー瑠依ちゃん」
「なに?」
「……俺が大ウソつきだったとしたら、どうする?」
「え?」
「本当は裏切り者だったとしたら、瑠依ちゃんは俺を軽蔑するのかな」
「どうだろう……事によるかな」
「そのときが来たら、思いっきり殴っていいよ」
はっきり言え、とノリを見上げた瑠依は、その表情にとてつもなく嫌な予感がした。なぜかこれ以上聞いてはいけないという感覚に支配される。
ノリは誤魔化すように笑い、歩く足を止めない。




