#30
コーヒー1杯だけで終わるはずだった付き合いは、あっという間に時は過ぎ、気がつけばもう3年になっていた。
瑠依は呆れた顔で目の前の男を見上げる。
「あんたさ……」
「ん?」
無邪気な笑みを浮かべて首を傾げたノリはさりげなく瑠依の手をとった。
だんだんとこの顔を見ることが日常となり、過剰なスキンシップに自分が慣らされてきたことが腹立たしい。
「瑠依ちゃん、たまに飲みに行かない?」
「やだ。馴れ馴れしくしないでくれる? 私、男嫌いだって言ってるでしょ?」
「そっか。やっと瑠依は俺を男だと認めてくれたか。長かったなー」
「あんたは生物学的に男かもしれないけど、まったく意識してないから」
「あはっ、瑠依ちゃん、相変わらずお口が悪いですねー」
それでこそ瑠依ちゃん、と呟いたノリは一瞬あたりを見渡して、小さく手招きする。怪訝な顔でそばへ行くと、ノリは内緒話でもするかのように瑠依の耳元へ唇を近づけた。
くだらないことだったらぶっ飛ばす、と思いながらも瑠依は自然と耳を澄ます。が、ノリの唇は突如方向を変え、瑠依の頬に触れた。
あまりにも急なことで、瑠依は何度か瞬きして目の前の顔を見上げた。
溢れ出る負の感情にきつく拳を握る。
それに気づいたノリはいち早く瑠依から離れた。
「ごめんなさい! 奢るから許して!」
「あたし、あんたのこと嫌いなんだってば」
「わかってるってばー。そう何回も傷つけなくていいじゃん! ひどい、瑠依ちゃん!」
「あんたのそういうところが嫌い」
「あんたってさー。瑠依、俺の名前、1回しか呼んでくれてないって知ってる?」
「知らん」
「ノリくん、でしょー。ほら、呼んで」
「ノリくん、さようなら」
瑠依はノリの手を振り払い、駅に向かって歩きだす。
じわじわと沸いてくる苛立ち。思い出したくない男をピンポイントで思い出させるこの不愉快きわまりない男に、もう3年間も付きまとわれているというのにどうがんばっても追い払えない自分へ向けた怒り。
理由はわかっている。
瑠依を呼ぶ声も、瑠依に触れる手も、瑠依をからかう言葉も、似ているのだ。世界一の大馬鹿に。
しかも最近は、“瑠依ちゃん”と“瑠依”を巧みに分けてくる。一度それに気づいてしまうと、ノリに呼ばれるたびに複雑な思いに駆られるのだった。
ピタリと瑠依の足が止まる。これがダメなのだとわかっているのに足が勝手に止まってしまう。
振り返るとノリはにっこりと微笑んだ。
「瑠依ちゃん、飲みに行こう?」
「……1杯だけだからね」
「うん!」
満面の笑みで頷いたノリに、瑠依はため息をつきつつも思わず笑った。実にさりげなく繋がれた手。だんだんと違和感がなくなっていく。
そして移動したバー。
ノリはグラスを煽った瑠依に向け小さく笑う。
「なに」
「いや、1杯だけって言ってたけど、いっぱい飲むんだなーって」
「あんたの奢りでしょ? 飲まなきゃ損」
「そうでなきゃねー瑠依ちゃんは」
うれしそうに微笑んだノリはバーテンダーに新しいカクテルをオーダーし、頬杖をついた。瑠依は小さくため息をつく。
絶対に好かれてはいないとわかっているはずなのに、なぜここまでしつこいのか、と自問しても答えは出ず、乾いた笑いしか出てこない。
視線を感じ、瑠依はちらりと見上げる。
「なに見てんの? お金とるよ?」
「守銭奴めっ!」
「そーそー。お金、大好き。ほかはなんにもいらない。不要」
「またまたー。瑠依ってさー俺のこと、なんで嫌いなの?」
「なんで……って、まあ、別に嫌いじゃないよ。すごくウザイだけで」
「それ、嫌ってるっていうの。世の中では」
「ああ、そうなの? じゃあ嫌いなんだろうね」
もう毎日のように浴びせられる辛辣な言葉に笑みが漏れるのはノリがマゾヒストなのか。ただのアホなのか。もはや瑠依にはどうでもいいことだ。
感情をかき乱さないでくれさえすれば、別にノリがいようがいまいがどっちでもいい。と常日頃思う。
「俺、そこそこ顔はいいしさー。一途だしさー。けっこう仕事もできるよ? 貯金も一応あるし。あとなにがあったら瑠依は俺のこと好きになってくれる?」
またアホなことを言い出した、と見上げ、瑠依は息を呑む。
砂浜にうましかと書かれた日が突如フラッシュバックする。次の言葉を紡がせてはいけないと本能が知らせる。
瑠依は慌てて立ち上がった。その瞬間、腕が掴まれる。
「逃げないでよ。ちゃんと聞いて」
初めて見るノリのまじめな表情にたじろぐ瑠依は実のところ今、大パニックに陥っている。
うましかのときは、瑠依が相手のことを好きだったから問題はなかった。けれど今は、そうじゃない。
残念ながらこの手のことに慣れていない瑠依にはどう対処したらよいのかわからないのだ。
「瑠依に忘れられない誰かがいること、ホントは俺、知ってるよ」
「なななななにを……」
「いや、瑠依ちゃん、動揺しすぎ。まず座って。ほら、飲んで落ち着こうか」
苦笑したノリに促され、ひとまずスツールに座った瑠依は半分ほど減ったグラスを一気に煽る。
焼きつくようなアルコールの熱さが喉を伝う。が、とてもじゃないが落ち着けそうもない。
すでに摂取済みのアルコール成分でさえ、もう蒸発したのではないだろうか。
ふたたび立ち上がる瑠依の手がぎゅっと握られる。そして呆れたようなため息が聞こえた。
「瑠依は鈍いって聞いてたけど、なんかここまで鈍いと笑えてくるね」
「だ、誰がそんな」
「あー……うん、さゆりちゃんたち。最初はさー。忘れられない人がいてもいいから俺と付き合えばいいのにって思ってたんだけどー」
「は!?」
「3年ってすごいね? 独り占めしたくなっちゃった」
「なななななに!?」
「瑠依ちゃん、もう忘れちゃいなよ。そばにいるのは俺だよ? もうちょっと俺のこと見てよ」
わずかに力がこめられた手のひらを、瑠依は放せない。その理由もわかっている。無意識に重なってしまうのだ。うましかと。
けれど目の前にいるノリは、瑠依が思う男とは違う。別人だとわかっているのに、振り払うことができない。
自分はこの男が好きなのだろうか、と考えてみたところでパニック中の瑠依に答えが出せるわけでもない。
「今日は帰らせないよって言ったら、瑠依ちゃん、俺のこと殴る?」
もはや瑠依に思考能力などない。瞬きひとつできず固まった瑠依の頬がそっと撫でられる。
「……なーんてね。今日はここまでー。ほら、瑠依ちゃん、戻っておいでー」
「…………」
「大丈夫だよ。俺、けっこう優秀な理性が組み込まれてんの。突然襲ったりしないから」
「……どうして……」
「んー?」
「どうしてあんたは……」
瑠依は自分が今、泣きそうだということがわかっていた。けれど涙は出ない。もう5年も前に枯れ果てた。
ノリは少し考えて、困ったように笑った。
「同じくらい瑠依が好きだからだよ」
カウンターの下、きゅっと握られた手はあたたかい。
この手を離すことができない理由が、今の瑠依にはどうしても出せない。




