#26
コーヒーショップで終わるはずだった。
もう二度と会わないはずだった。
瑠依はビルを出て自分の目を疑う。
「お疲れー、瑠依ちゃん」
見間違いでなければ、今、瑠依の目にはにこにこしながら片手を軽く上げる男が映っている。
「……一緒にコーヒー飲んだらもう付きまとわないって……」
「えー? あの日、俺はちゃんと駅まで送って別れたでしょ? 今日はまた別のお誘い。ごはん食べに行こうよ!」
「私、用があるから」
「うん、さゆりちゃんとでしょ?」
「知ってるんなら……って!!!」
「お。珍しくいいカンしてるね。そうそう、俺がうまく誘っておいてって頼んだの。腹減り度、どれくらいー? 給料出たばっかりだから、多少高くても大丈夫だよー」
笑顔のままの男から視線を外した瑠依は、言葉を返すことなく駅へと歩き出した。
まったく堪える様子もなく、男は実に自然に瑠依を追いかけ、隣に並ぶ。じろりと睨み上げるも、へらっと笑みを返され、瑠依は深々とため息をついた。
「ストーカー」
「失礼な。お友だちと食事に行くのがストーカーなんて聞いたことないよー」
「あなた、仕事してるの? 待ち伏せできるほど暇なわけ?」
「俺に興味持ってくれたの!? えっとねぇー」
「いや、いい。聞かない」
スタスタと歩き続ける瑠依の腕が突然掴まれた。驚いて足を止めると男はにっこり微笑んで顔を覗き込むように屈む。
「せっかく聞いてくれたのに茶化してごめんね? お仕事はしてるよ。残業しなくてもいいように毎日とっても真面目に。暇ではないけど瑠依ちゃんに会いたいから来てるの。あと質問は?」
「ない」
「瑠依ちゃん、なにが食べたい?」
「納豆ごはん」
瑠依の返答にぱちぱちと瞬きをした男は、ややあって小さく噴き出した。
「納豆ごはんかぁ。納豆巻きじゃダメ?」
「酢飯、嫌い」
「お寿司はダメか。んー……じゃあ瑠依ちゃんの家で納豆ごはん、一緒に食べようか!」
「残念ね。あたしの家、あたしひとりで定員オーバーなの」
「すげぇ……瑠依ちゃん、男のあしらい方、カンペキだね!」
「男? どこにいるのかしら?」
瑠依は男の腕を振り払いながらきょろきょろとあたりを見回す。肩を揺らして笑っていた男は、目尻に浮かんだ涙を拭いながらふたたび瑠依の腕をとった。
「定食屋、開いてるかどうかわからないけど行ってみようか」
「はぁ?」
「ほんとはおしゃれなレストランで夜景でも見ながらワインで乾杯とか、そういうの期待してたんだけど、瑠依ちゃんが食べたいのが納豆ごはんならしかたないよね。納豆、あるかもしれないし」
「あんたはおしゃれなレストランでひとり乾杯でもしてれば? あたしは帰るから」
「じゃあ、家まで送っていく! ごはん食べたら連絡してよ。飲みに行こう?」
男はポケットからスマホを取り出すと瑠依の目の前に突き付ける。思わずのけ反った瑠依はふたたび目を疑った。
「なんであたしの番号!?」
「ノリくんの情報網をなめないでもらいたいねぇ」
男の指がボタンを押すと、バッグの中で小さな振動音がする。
あんぐりと口を開けたままの瑠依をおかしそうに笑って、男は小首を傾げた。
「どうする? 瑠依ちゃん。俺が今知らないのは瑠依ちゃんの家だけ。まだ納豆ごはん、食べたい?」
「……うどんあたりにしておこうかなー……」
「おっけー。一駅向こうだけど、うまいうどん屋があるんだ。そこでもいい?」
肘のあたりにあった男の手が瑠依の腕を滑り、手のひらに辿り着くときゅっと握られる。反射的に振り払おうとするも、繋がれた手が放されることはなかった。絡められた指はきつく結ばれているわけではないが、拘束するに十分な締め付け。記憶の中の手とは違うそれに瑠依は戸惑う。
男は繋がれた手を軽く持ち上げ、瑠依と視線を合わせて微笑んだ。
「嫌ってていいよ。これから好きになってくれれば」
「ならない!」
「どうかなー。俺、けっこう自信あるんだ」
「あんた、頭おかしいんじゃないの……?」
「ん。よく言われるー。あとね、瑠依ちゃん。俺、あんたじゃなくてノリね。はい、呼んでー」
「…………」
「バカノリでもいいよ、なんなら」
何気なく放たれた言葉であることを理解しつつも、そのイントネーションに大きく心臓が波打ったのを感じた。
まだなにひとつ思い出にできていないと瑠依が気づくのに、そう時間はかからなかった。乾いた笑いが瑠依の唇から零れる。首を傾げる男を見上げ、瑠依は意地悪い笑みを浮かべた。
「あんたに馬鹿なんて言葉、もったいない」
「ひっどー!」
「アホで十分よ、あんたなんて」
「酷い、瑠依ちゃん……」
項垂れた男を盛大に笑っていた瑠依はぽつりと聞こえた声に勢いよく顔をあげてあたりを見渡した。
「どうしたの?」
「え……? あぁ……そら耳だったみたい」
聞こえるわけがない。
ルイ様だなんて瑠依を呼ぶ人間はこのあたりにいないはずだ。たとえいたとしても、さすがにこの年齢になればそんなふうに呼ばれることもないだろう。
そう納得させた瑠依はいまだ繋がれている手を持ち上げて男に突き付ける。
「ごはんは食べに行く。でもこれはやめて」
「手つなぐの、嫌い?」
「嫌い」
躊躇いもなくキッパリ言い切った瑠依に笑みを向けると、男は口の端を上げた。
絡めた指が1本ずつほどかれるようにゆっくりと離れていく。
手のひらの熱はすぐに消えた。自然と瑠依の唇はホッと安堵の息を漏らす。
自分が求めているものがなんなのか、気がつかないふりをしていたい。勝手に脳裏に浮かぶ存在を必死で蹴散らし、瑠依はなにもなかったかのように歩を進めた。
翌日、瑠依は出勤と同時にさゆりを見つけ、にっこりと笑みを向けた。さゆりは瑠依に負けない笑みを返す。
「昨日は騙してくれてありがとう」
「ノリくん、優しいでしょう?」
「勝手に電話番号とかおしえないでくれるかな」
「いつまでも捨てられた男のことをずるずる引きずっている同僚に、新しい出会いをだね。いいじゃん、ノリくん、かっこいいでしょ。なにが不満なのぉ? ぜいたく者め!」
「引きずってなんかない。あの顔が好きならさゆりが付き合えばいいでしょ? あたし、別に出会いなんて求めてない」
「なんで私を想ってない男と付き合わなきゃいけないのよ。瑠依ちゃんたち、うまくいくと思うんだー」
まったく悪びれるふうもないさゆりは、ぽんっとひとつ肩を叩くとそのまま立ち去ってしまった。あんぐりと口を開けたままの瑠依は、ややあって大きく息をつく。
ノリが不満なわけではない。厳密にいうと、今の瑠依には一番出会いたくないタイプだっただけだ。どうしたって思い出してしまう顔が邪魔で、もやもやした気持ちばかりが募っていく。
首からぶら下げているスマホには、何度機種を変えても必ず残してある番号が入っている。そのアドレス帳には、けっして消すことのできない番号が残されたまま。
けれどそれは、けっして開いてはいけないパンドラの箱。閉じ込め、ふたをした想いは、あの日のまま時を刻むことなく佇んでいる。
瑠依はその小さな箱をそっと撫でた。
頭に浮かぶ無邪気な笑顔と自分を呼ぶ甘えた声。すべて、泡となって消えた思い出。




