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たなばたのはこぶね  作者: 比奈田美也


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#24

 駅前にやってきた車に乗り込み、崇宏はシートに深く身体を沈めた。

 ここまで迎えに来た人物――篠原洋介は、車を走らせながらちらりとミラーに視線を向ける。後部座席にうずくまる物体は膝を抱えどんよりしたオーラをまとっている。これほどの人間はめったにお目にかかれないといえるほど、この世の不幸をすべて引き受けてくれたヒーローのようだ。洋介は助手席の浅島忠則と顔を見合わせ首をすくめた。


「崇宏ー……ホントにいいわけ?」

「いいの」


 靴を脱ぎ、シートの上で膝に瞼を押しつける崇宏は数時間前から時が止まっていた。

 瑠依にはずっと笑っていてほしかったのに。

 一番泣かせたくない人を傷つけて、泣かせた。いや、正確には涙は見せていない。でも崇宏にはわかる。

 深くふかく傷ついて涙すら流せない瑠依に、もう触れてはいけないと誓ったはずなのに。自分を見上げた瑠依の顔が頭から離れない。

 カーゴパンツに瞼から零れた雫がどんどん吸い込まれていく。泣く資格なんて自分にはないことはわかっている。けれど涙は止まらない。


 空港に着くと、泣きはらした目を擦る崇宏を友人ふたりは痛々しい気持ちで見守っていた。ちょっと押したら灰のようにその場ではらはらと散りそうだ。


 洋介は思わず涙ぐんだ。

 思い出すのは高校時代、並みならぬ努力で瑠依を追いかけていた崇宏の姿。やっとその想いが伝わったとき、洋介も涙が出た。

 それからずっと、大学は離れたが連絡は取り合っていて、あまりうまくいっていないことは聞いていた。それでも崇宏は努力してきたと思っている。

 同じ大学に行きたいだけの気持ちで、大馬鹿だった崇宏が富士の山ほどランクの違う大学に合格したのだって、文字どおり死ぬほど努力したからだ。

 それが、まさかこんなことになるなんて。

 ただ、好きなことへとまっすぐ突き進んできただけなのに。


「……なにもルイ様と別れなくてもよかったんじゃないのか?」


 言ってもどうしようもないというのに、そう言わずにはいられなかった。


「だめ。絶対だめ。俺、挫折するもん。挫折したら絶対瑠依のところに逃げ帰るもん」

「挫折しなきゃいいだけのはなしじゃないか」

「無理だよ! 瑠依ちゃーん! ごめんねー!」


 崇宏の目からふたたび滝のように涙が零れた。

 もはや友人たちはなにも言えない。洋介は自分のことのように胸が痛んだ。

 搭乗時間がやってくると崇宏はおもむろに涙を拭った。そして突然、洋介と浅島を睨みつけ、ぴしっと指差す。


「別れたからって、瑠依に手出したらコロス」

「おまえ……発言がルイ様に似てきたな」

「ものすごくいい笑顔でコロス。積極的にヤル。わかった?」


 大きなリュックを肩にかけ直した崇宏は、そう言って旅立った。

 車の中で空を見上げていたふたりは、飛び立った機体が小さくなっていくのを見送り、タイミングよく同時に深く息を吐き出した。

 ふたりは何度か崇宏のアパートで飲んだ程度の付き合いだったが、崇宏と気が合うだけあって浅島はとても気さくで、これまで接点なんて皆無だったというのにまるでずっと仲が良かったかのような雰囲気がある。きっと浅島のほうも洋介に対して同じ印象を持っているのだろう。


「もらい泣きしてんじゃねーよ、みっともない」

「ノリは付き合いが浅いからそんなことが言えるんだよ。俺なんて高校1年から3年間、ずっと同じクラスだったんだぞ!」

「っつーか、そんなこと言うんだったら俺だって大学の3年間は一緒だぞ」

「うるさいっ! おまえにはわかんないんだ! 崇宏がどれだけルイ様一筋で下僕のように尽くしてきたか!」


 ぐすんと洟を啜った洋介は、しだいに消えていく飛行機を見失わないようにずっと見つめている。

 別れなくても、繋がっていられる方法は考えられなかったのだろうか。瑠依は別れを受け入れられたのだろうか。

 心配してもどうにもならないというのに、洋介は旅立った友人と残された瑠依のことを心配せずにはいられなかった。けれど、洋介は個人的に瑠依をフォローすることはできない。崇宏との約束はさることながら、瑠依の怖さを身をもって知っている。



 バンクーバー国際空港に降り立った崇宏は、ホッとした顔の蒲田未央子に迎えられた。

 駆け寄ってきた未央子は崇宏を見上げ、息を呑む。

 以前会ったときと別人のような冷たい瞳が未央子を見下ろした。


「きったねー手、使ったよねー未央子さん」

「……正当だったと思っているわ。あなただってこれが正しい道だってわかったからここにいるんでしょう?」

「そうだね?」


 くすりと笑った崇宏はスーツケースを未央子に押しつけた。


「先に言っとくけど。アシスタントは引き受けるし仕事はまじめにやる。でも、あんたの男にだけは死んでもならない」

「私はあなたが堕ちるって、信じてるわ。崇宏」


 妖艶に微笑んだ未央子は、崇宏の腕に手をかけた。


「エスコートだってアシスタントの大事な仕事よね?」


 振り払われる前にそう釘を刺しておくのは、3年前、ホテルで迫った際に冷たくあしらわれて懲りていたからだ。

 にっこりと微笑んだ崇宏は、笑みを浮かべたままその手を振りほどく。

 こんな女に自分の人生を預けるのかと思うと吐き気がする。けれど、ここで手を切るわけにはいかない。瑠依を泣かせた罪は、人生をかけて償う覚悟はもうできている。


「未央子さん。契約書交わす前に約束してもらいたいんだけど」

「なにかしら」

「俺に触らないで。吐きそうだから」


 笑みを保ったままの崇宏の言葉に、未央子の顔にカッと朱が走る。

 写真の腕前も、才能も、実績も、崇宏は未央子に敵わない。なのにここまで大きく出れるのは、一種、情けない事情がある。

 崇宏はこれまでの人生で親の名を出したことはただの一度もない。友人や瑠依でさえ、知らない秘密。


「あんまりふざけた真似したら、おとーさまに告げ口しちゃうよん」

「あなた、私を誰だと思ってるの!?」

「あんたこそ、俺を誰だと思ってんの? あんたが敬愛しているAkiの息子だよ」


 崇宏はみるみる青ざめていく未央子を見下ろして楽しそうに笑った。

 Aki――崇宏の父親、進藤彰宏。

 “売れない風景写真家の父”は、実は彼の名を知らない写真家はいないと言われるほど有名だ。

 人情溢れる性格ゆえ、写真に携わる者は全員家族だというのが彼の口癖だ。けれど、潔癖なほど曲がったことは大嫌いで、人を嵌めるような人間は離縁、つまり。


「うちのおとーさまが進藤の名前を使わないで仕事してるの、どうしてか知ってるー? もし自分の子どもが才能を持って生まれてきたとして。その子どもの力を自分の名が邪魔しないように、親の力欲しさに子どもが利用されないように、なんだって。ちょっとカッコイイでしょ、おとーさま」

「…………」

「俺があんたのところで修行することを知って、おとーさま、喜んでたんだけどねー。作風が好きなんだってさー。生命を感じるとか言ってたかな。そりゃそうだろうねぇ、人の人生、権力で握りつぶしてくるんだもん。生霊のひとつやふたつ、写ってそうだよねぇ? もし俺が、瑠依の人生を握られたからこっちに行くってうっかり口を滑らせちゃったら、どうなるのかなぁ。ちょっと見てみたいよね。そう思わない? 蒲田未央子サン」

「私を、脅すの?」

「悔しいけど、あんたの写真、好きだよ、俺。あんたは嫌いだけど。こんなに性格悪いのに、どうしてあんな写真が撮れるのかサッパリわかんない。ま、余計なこと告げ口されたくなかったら、瑠依の夢を閉ざすような真似、すんなよ? それさえしないでくれたら、今回だけは忘れてやるよ、おじょーさま」

「わかったわ」

「契約書に二文の追加、忘れないでよ? 瑠依のことはもう構わない、俺の上に乗るな」


 崇宏の顔から笑みが消えた。

 蒲田未央子が今後、崇宏の笑顔を見ることはない。



 崇宏はワークビザを取得し、未央子のアシスタントとして働き始めた。

 契約どおり、未央子は粉をかけてきた大学教授に瑠依から手を引くよう伝え、表向きは主従関係が成り立っている。

 生粋のお嬢さま気質だった未央子は、けれど決してコネや財力で成り上がったわけではない。Akiに憧れて写真の道へ進み、自分の腕とカメラだけでここまでの名声を手に入れている。崇宏が彼女の写真を好きだと言ったのは嘘ではなかった。


 3年前、沖縄で彼女の仕事に同行したとき、崇宏は決定的な敗北を味わった。けれど、なにが彼女と自分の違いなのか、崇宏にはわからない。彼女の写真はそれだけすごかった。だから。だからこそ崇宏はこの先を知りたくなった。

 つまり、彼女が瑠依を盾になんかしなければ、崇宏にとって尊敬する師であり続けることができたのだ。人間的にだめだったとしても。


「未央子さーん。取材の人来たよー」


 崇宏に呼ばれた未央子は、軽く微笑んで頷き、商談室へと入っていく。崇宏はパソコンにデジカメのデータを取り込み、写真を一つひとつチェックしていた。

 モニタの隅でメールマークが点滅し、クリックして開く。内容を読んだ崇宏は口の端を上げた。

 送信者は浅島忠則。

 瑠依がテレビ局の内定をもらったらしい。

 道は途切れていなかった。よかった、と崇宏は思う。


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