#23
大学へ入学してこの3年、瑠依の父の猛反対もあり、ふたりは一緒に暮らすことはできなかったが、ごく近くに家を決めて互いの家を行き来していた。
家事はなにもできないと胸を張る崇宏のために、掃除以外の家事はほとんど瑠依がまかなっている。学業との両立は大変ではあったが、うまく崇宏をこき使うことができる瑠依にとってはわりと楽しい日々。
ずっとこのまま一緒にいられるのかもしれないと微かな希望を抱きつつも、ふたりの生活の中からカメラの話題が消えたせいか、不安が消えることはない。
瑠依は、カメラを構えることができなくなった。
崇宏の夢を応援しなければと思えば思うほど、カメラに触れるのでさえ手が震えるようになったのだ。
現代の優秀な手ブレ防止機能のついたデジカメで撮ったとは思えない出来の写真に、瑠依は『アル中かもねー』なんて笑って見せたが、崇宏は異変に気づいたからこそ、写真を撮りに行くときに瑠依を同行させることがなくなったのかもしれない。
最初こそ寂しかったが、瑠依にとっては崇宏を連れて行くカメラから少しでも離れたかった。そんな自分がたまらなく嫌だった。
教授に呼ばれているから門のところで待ってて、とメールが届き、瑠依は嫌な予感がしつつも正門の前で待っていた。
10分が過ぎ、20分が過ぎる。
今日は崇宏と一緒に天の川を見に行く予定だった。付き合うようになった日がたなばただったせいか、毎年どこかの河川敷に向かい、そこで星を眺めることになっている。瑠依の肩にかけられたトートバッグの中には、いつでもどこでも転がって見れるよう、レジャーシートが折りたたまれていた。
目の前を過ぎていく友人に手を振り、別れることを繰り返して30分が経った。
ようやく現れた崇宏の姿に、瑠依は思わずホッと息を吐き出す。崇宏は普段と変わらず笑みを浮かべていた。けれどもその笑顔の奥になにかを感じ、瑠依の表情はこわばる。
「ごめんねー。遅くなっちゃった」
「平気。教授、なんだって?」
「んーいろいろー」
「そっか……」
「ちょっと遅くなっちゃったから、家の近くでもいい?」
崇宏はバッグを軽く叩いてそう訊ねる。瑠依は少しだけ微笑んで頷いた。
ふたりの家から歩いて15分ほどのところに流れている河原へ向かい、そこへつくと瑠依はバッグからいつものようにレジャーシートを取り出した。芝生のところにそれを敷こうとした手を崇宏が止める。
怪訝な顔で見上げると、崇宏はいつの間にかカメラを構え、ファインダーを空へ向けていた。シャッターをきる音がして、10秒、20秒と時間が過ぎる。ようやくカメラを下ろした崇宏は、空を見上げたまま口を開く。
「話があるんだー。瑠依ちゃんに」
瑠依の心臓が大きく波打つ。
空を見上げていた崇宏の瞳が、まっすぐ瑠依を見つめた。
「な、に……?」
推し量ろうとしても崇宏の表情は硬いままで、これから言おうとしている言葉が、ずっと抱えてきた不安を現実のものとするものではないかと警鐘が鳴る。
「俺、ちょっと修行の旅に出てくるわ」
一瞬、なにを言われたのか処理できず思考が遅れる。瑠依は、崇宏を見上げたまま動けない。
「待たなくていい。いいヤツいたら結婚とかしてもいいし」
崇宏はほんの少しだけ表情を崩した。
呆然とする瑠依の頬を崇宏の掌が覆う。
唇を割って絡め取られた舌は、逃げる瑠依を離さず、何度も角度を変えて吸いつく。やがて唇を離した崇宏は、瑠依の頬を撫でた。
「瑠依、大好き。今までありがとう」
崇宏は瑠依に背を向けて歩き出した。
パサリと瑠依の手からレジャーシートが落ちた。崇宏の背中はどんどん離れていき、足音はもう、聞こえない。
追いかけなきゃと思うのに、瑠依の足は動くことを諦めたかのように沈黙している。
名前を呼びたいのに、喉は音を奏でない。
完全に崇宏の姿が見えなくなって、ようやく声が出た。
「崇宏っ!!!」
ずきずきと痛む胸は夢ではないことを告げ。聞こえるのは自分の心臓の音と狂ったように鳴り続ける耳鳴り。
見えるのはひとりきりの近所の河川敷。
藍色の中にぽつんと置き去りにされ、遮断された世界。
「たかひろっ!!」
――瑠依に別れを告げた崇宏は、携帯を開き、とある人物へ電話をかけた。
いくつかのコール音のあと、声が聞こえる。
「俺ー。予定どおり、迎えに来て」
返事も待たず通話を切った崇宏は、足を止めて振り返った。
「今、瑠依の声……」
反射的に戻りかけた足を止め、崇宏は拳を握る。
振り返ってはいけない。戻ってはいけない。もう、声をかけてはいけない。
見上げた空には天の川。しっかりと目に焼き付け、崇宏はふたたび歩きだした――。
シンと静まり返った河原で呆然と立ち尽くしていた瑠依は、もつれる足を必死でうごかし、駆けだした。
なにかの間違いだ。悪い夢に違いない。なんの相談もなく、崇宏が自分を置いていくわけがない。
そう信じて呪文のように何度も呟きながら必死で駆けた。
自分の家のように慣れ親しんだ崇宏のアパートへともつれる足で階段を駆け上り、ポケットに入っているキーケースを取り出す。手が震えて鍵穴にうまく入らない。何度もなんども差し込み、ようやく鍵が開いた。
開け放ったドアの向こう。瑠依が知っている景色はない。
おかえりーと両手を広げて微笑む崇宏も。
ああでもない、こうでもないと難しい顔でブツブツ呟く崇宏も。
卵焼きは甘いのが常識なんです! とムキになる崇宏も。
いない。
「なんでぇ……?」
よろよろと玄関に入り、ドアが閉じるとカーテンのない窓から月明かりが射し込んでいた。
部屋の真ん中。紙切れが1枚落ちているのを見て、瑠依は靴を脱いで上がり込む。
拾ったそれは、いったいいつの間に撮られたのか。
楽しそうに笑う、瑠依の写真。
人物は撮らないって、あんなに言ってたくせに――。
ぎゅっと唇を噛みしめて手の中の写真を見つめる。
「待たせても、くれないの……?」
ぽつりと呟いた声は、部屋の中に静かに響いた。
いつの間にか朝になっていた。




