#22
大学に入って3年の間、崇宏は蒲田未央子に言われるまま、自分の作品をコンクールに出品していた。
その都度、なにかしらの賞を受賞し、崇宏の名前は驚くほど広まった。
都内の撮影の際は未央子から呼び出され、バイトと称しアシスタントを務めている。
未央子は崇宏に写真家としての未来を約束する代わりに、大学を辞め本格的に修行をしないかと何度も持ちかけた。
ただし、条件は瑠依と別れること。後戻りできる道を断つ覚悟を持てということだった。
今日まで断り続けていたのは、未練がましくも当然ながら、別れるのが嫌だったからだ。
ついに痺れを切らした未央子は、まず自身が独立し、崇宏がアシスタントを全面に引き受けなければならない状況を作り出した。
次に崇宏の大学側を丸め込み、今後、優秀な人材がいれば、優先的に就職をバックアップすると告げた。そのせいで、崇宏はもう1年ほど前から退学を勧められていた。もともと成績が良くないことも原因のひとつだったのだろうが。
それでも飽きたらず、未央子の勧誘はどんどんエスカレートしていく。
そうして先日。崇宏の元に一通の手紙が届いた。中にはカナダ行きの航空券と走り書きの文字。
――猶予は7月。これ以上は待たない。
崇宏はようやく顔を上げた。壊されるくらいなら壊すしかないと踏ん切りがついた。
ずいぶん前に教授から渡されていた退学届けにサインし、印鑑を捺す。ふいに、瑠依からまったく相手にしてもらえなかったころのことを思い出した。
出会わなければよかったとは思わない。そう誤魔化せたらどんなに楽だっただろう。けれど、どのシーンを思い返しても瑠依がいる。
ニヤリと音が出そうな小悪魔笑顔も、照れたように微笑む顔も、冷たい空気が吹きつける機嫌の悪い顔も、どれも鮮明に蘇り苦笑するしかない。
「崇宏? ルイ様、待ってるけど」
突然かけられた声に、崇宏は慌てて机の上の紙を隠す。目ざとくそれを見つけた浅島は満面の笑みをたたえ、にじり寄ってくる。
「なーに隠してんの。まさかラブレターとかじゃないよな?」
「違いますー。瑠依ちゃんとラブラブの俺にそんなの出す子、いるわけないじゃん」
崇宏の作り笑いに気づいた浅島は笑みの消えた目で探るようにじっと見つめる。崇宏の視線はゆっくりと逸れていく。馬鹿っぷりに定評のある崇宏に隠し事ができるはずもない。
「崇宏くん、今隠したのはなんですか」
「見間違いだと思います」
「ノリくんの目を見て言えますか」
「言え……ません……」
「見せなさい」
言うなり、顔面をバスケットボールでも掴むように覆った浅島は驚くべきスピードで崇宏の手からそれを取り上げた。黙って目をとおしていた浅島の表情が険しくなり、怒りのこもった瞳が崇宏を射抜く。
「なにこれ」
「……退学届」
「見たらわかる。おまえ、なに考えてんの?」
「しかたないでしょ。カナダまで通えないもん」
「ルイ様は知ってるのか?」
「言ってない。けど、瑠依は気づいてる……」
「は!? おまえ、ルイ様と別れんの!?」
怒りを隠すことなく垂れ流していた浅島の表情が驚きに変わると同時に、崇宏は困ったように笑って見せる。弧を描いたつもりの唇が震える。
それを押さえつけるかのように、あるいは自身を納得させるかのように、ゆっくりと語り始めた。すべて話し終わると崇宏は机に突っ伏す。
「俺が瑠依に話すから、絶対に言わないでね」
「言えるわけないだろ……。なんだよそれ。そいつ、頭おかしいんじゃねぇの?」
「芸術家に変人が多いのは既知の事実でしょ……」
「言いなりでいいのかよ。今俺に話したこと、どうせおまえ、全部話すつもりはないんだろ? ルイ様、さすがにかわいそうだって……」
「瑠依はね、俺とは違って夢を持ってこの大学に入ったの。それが俺に好かれたばっかりに壊れちゃうほうがかわいそう」
「それは違うだろ。崇宏みたいな馬鹿とここまで長く付き合ってきたのは、ルイ様だっておまえのこと――」
「だからだよ。瑠依は絶対に俺を捨てない。俺が断ち切ってやらないと。俺のせいだから」
ゆるりと顔を上げた崇宏は小さく笑って浅島の手から退学届を引き抜いた。
「そういうわけだから」
「出発はいつだよ……」
「今日だよ。荷物はぜんぶもう実家に送ったし、カメラと宝物だけだね、俺に残ってるの」
「もしかしてルイ様に見送りもさせないわけ?」
「当然でしょう。瑠依ちゃんが来たら俺、泣いちゃうもん」
「ひとり寂しく旅立つってわけか」
「ううん。瑠依と別れたら俺、ひとりぼっちじゃん。絶対泣くからって、洋介が空港まで送ってくれる」
「……待ってろって、言わないのか?」
「言わない。女々しさグランプリがあったらぶっちぎりの1位をもらえる俺がそんなこと言ったら、さすがにカッコ悪いでしょ」
ほんの少しだけ笑みを浮かべた崇宏は、ひらりと手を振りドアへと向かう。あとは教授に退学届を提出すればすべてが終わり、すべてが始まる。
長い廊下を歩いている途中、ふと、ポケットに入れっぱなしだった封筒を取り出した。何度もぐしゃぐしゃに丸めたその封筒は皺だらけだ。
そらで言えるほど読み、その都度握りしめた。内容は、思い出しても怒りで震えるほどだが、それでも崇宏は従うことを決めた。瑠依のためなんて格好のいい話ではない。自分の力を、写真への思いを、試したかった。ただそれだけだ。
ふいに向けた窓の向こう、正門の前で崇宏を待っている瑠依の姿が視界に入る。どこにいても、瑠依の姿だけは不思議と見つけられる。きつく結んでいた口元が緩んだ。
不安そうな表情で崇宏を探す瑠依。5年間、一度も逸らされることのなかったまっすぐな瞳も、馬鹿だと罵る唇も、呆れたような笑顔も、これが見納めだ。
「瑠依、ごめんね」
窓に映る瑠依を指先でそっと撫でて、ガラスから手を離す。
力強く握りつぶした封筒をゴミ箱に放り投げ、崇宏は背を伸ばして歩き始めた。
今日はたなばた。
5年前の今日、長くつらかった片想いに終止符を打ち、ようやく瑠依を手に入れた日。
彦星と織姫は1年に一度だけ逢うことが許される日。
崇宏にとって唯一無二の瑠依を、手放す日。




