#21
楽しそうな笑顔を友人に向けてキャンパスを歩いている瑠依を発見した崇宏は、屋上のフェンスの上に座って、ファインダー越しに彼女をストーカー中――ではなく空の写真を撮っていたことを思い出した。
ファインダーからのぞく瑠依の笑顔を十分に堪能し、崇宏はシャッターをきってカメラを下ろした。
肉眼でもよく見える、彼女の顔。
ふと、彼女は顔を上げた。すぅっと空を彷徨った瞳はゆっくりと崇宏の姿を捉え、呆れたような笑みを浮かべる。
「崇宏ー! あんた、落ちるんじゃないわよー?」
落ちねぇよ、ばーか。
彼女には聞こえないように、口だけでそう動かせる。でもたぶん、瑠依には伝わってしまったのだろう。
ひくりと頬の筋肉が動き、隣を歩いていた友人になにやら告げると、瑠依は全速力で校舎へと走っていく。
「まーた瑠依ちゃん、怒らせちゃった」
ひっかけておいた命綱を外し、フェンスの内側に飛び降りる。
この命綱は、鬼の形相の瑠依からもらったものだ。わりと運動神経のいい崇宏が、いくら屋上だからといってフェンスから1メートル以上先にある校舎のヘリから落ちるわけがない。一応崇宏もまだ、死ぬつもりはない。
でも、あの鬼の形相を一度でも見れば、受け取らないわけにはいかない。崇宏にとって瑠依の涙は、想像を絶するほどのダメージを受ける。小悪魔がときおり見せる悲しそうな表情は、相当図太い崇宏でさえたまらなく胸が痛むのだった。
瑠依は大学生となった今でも、相変わらず崇宏の友人から“ルイ様”と呼ばれている。
彼女がここに到着するまであと3分。さぁて、今日はどこに逃げようか。
そう呟く崇宏の口元が弧を描く。
崇宏はカメラをバッグにしまって、それを肩にかけて走り出す。さあ、鬼ごっこの始まりだ。
瑠依は今日こそ、お弁当に甘い卵焼き入れてくれただろうか。
「崇宏!!」
「あれ、もう見つかっちゃった」
瑠依は崇宏の予想どおり、ピッタリ3分後に現れた。仁王立ちで。
崇宏の予想では屋上に直行するだろうと思っていたのだが、どうやら瑠依は今日も冴えているようだ。屋上へ向かわず、直接教室に来るとは鬼としてはなかなか。
「だぁれがバカですってぇ?」
「いひゃい……」
ぎゅうっと両方の頬が抓まれ、左右にぐいぐい引っ張られる。やはり口パクでもばれていたらしい。
「るいひゃん、ひゃまひょ、ひゃひゃい?」
「は?」
「瑠依ちゃん、たまご、あまい?」
頬を瑠依の指から救出して、もう一度尋ねてみる。瑠依は少し考えてからこくんと頷いた。
「今日は甘いよ」
バッグの中から取り出したランチボックスを崇宏の前に置くと、瑠依は崇宏の頭をがっしり掴み、ぐいっと引き上げ、強引に視線を合わせられた。輩にからまれているときとは、きっとこんな感じなのだろう。
「あんた、今日はちゃんと命綱つけていたんでしょうね?」
「もちろん。落ちたら危ないでしょー?」
「あんたのその足りない脳みそも、さすがに学習するのね」
ふふんと笑った瑠依は、満足げに崇宏の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「んじゃ、縁があったらお昼に屋上で」
もう一度、今度はやわらかく崇宏の頬を抓った瑠依は、さっきまでの鬼の形相とは違う笑顔を崇宏に向けて教室を出ていった。
「ルイ様、相変わらずだねー」
「相変わらずかわいいでしょー」
友人のひとりである浅島忠則にそう返事すると、彼はため息をつく。
俺の瑠依ちゃんは、世界で一番かわいいのです! と言い放つ崇宏を、いつものことで慣れている友人たちは苦笑する。
沖縄へお祝い旅行をしてから3年。なんとか無事に進級できていた崇宏は、大学3年生となっていた。
先ほど瑠依が『縁があったらお昼に屋上で』と言ったのには理由がある。
崇宏はいまだに、写真を撮りだすと時間を忘れてしまうし、約束した場所からずいぶん離れたところにいるということが多々あった。
けれど瑠依との付き合いも5年になる。崇宏の性格を一番よく知っている瑠依は、今さら約束をすっぽかしたくらいでは怒らない。
『崇宏はカメラを世界一愛してるもんね。どうせ私は二番目ですよ』
そんなふうに言われたことも、一度や二度じゃない。
瑠依のためなら、写真以外のものなら全部捨てられる自信はある。それは昔も今も変わらない。瑠依にはいつでも笑っていてほしい。その願いも、なにひとつ変わらない。
部室で寝ていた崇宏は、起きたらたいてい来ているはずの瑠依がいないことに気づいた。
おかしい、と思いながら隣の部屋にある暗室に向かうと、瑠依はそこで熱心にネガを眺めていた。
「なにやってんの?」
「あ、起きた? ヒマだったから崇宏の写真をチェック中。盗撮とかの犯罪は未然に防がなきゃね」
瑠依は腕を伸ばしてネガをすかしている。崇宏が人物を撮らないことなんて一番よく知っているくせに、ときどき瑠依はこうしてネガチェックをする。
だが、崇宏の隠し撮りが気になってネガを見ているわけではないことは知っていた。今彼女が手にしているあれは、先週、瑠依との約束をすっぽかして雨上がりの空を撮ってたときのものだ。
「虹ってネガで見てもすごいね。私との約束なんてカスみたいなもんだよね」
ああ。まだ根に持っていらっしゃった。崇宏は苦笑交じりで両手を合わせた。
「ごめんってばー。行こうと思ったんだよ? そしたら虹が出てきちゃってさー」
「うんうん。崇宏は、私より写真が大事だもん。いいんだよ、すっぽかしちゃって」
「ごめんなさい。もうしません」
「崇宏くんはバカだから、もうしませんって何回も使うよねー」
そんなふうに嫌味を言いながらも、瑠依はネガをていねいにクリップにはさむ。思わず崇宏の口の端が上がった。
瑠依にとってはいろんな想いのある写真だが、崇宏が大事にしているものを邪険に扱ったりはしない。ときどき、自分が撮った写真に妬くくらい、大切に扱う。カレシの崇宏よりも大切に。
一時は深い溝を作った写真ではあるが、少しずつその溝は埋められ、今は昔と変わらず崇宏の写真を褒めている。ただし、瑠依はもう、カメラを構えることはなくなった。
「卵焼き、おいしかった?」
結局昼は、瑠依と縁がなかったようで。つまり崇宏は、またしても約束をすっぽかしたわけで。
「すごくおいしかった。今度は瑠依ちゃん、食べたいなー」
ネガを見上げている瑠依をうしろからぎゅっと抱きしめる。首筋に唇を押し当て舌を這わせると、瑠依の細い指が崇宏の腕を思いっきり抓った。
「たまには崇宏くんと一緒にお弁当が食べたかったなー」
緩んだ腕から抜け出した瑠依は、にこり、と微笑んで崇宏を見上げた。
心臓がズキンと痛む。
彼女がこういう表情を見せるときは、たいてい悲しいときだ。せっかく冗談っぽく言ってくれたのに、崇宏はうまく笑えない。
「瑠依、ごめん」
「明日は雨だからお弁当は作らないよ」
唇の端を少しだけ上げて、崇宏に一歩だけ近寄った。すぅっと伸びてきた手がシャツの襟を掴んで、思いっきり引っ張られる。
そして唇に落とされたやわらかい感触。そのあと瑠依は、もうなにも言わずに暗室を出ていった。
瑠依は気づいている。
3年前のあの日、別れの足音を察知して苦しんだときのように。もうすぐ崇宏がいなくなることに気づいている。
けれど、崇宏はあのときと変わらず、言わない。
もう決まってしまった未来。崇宏は、最後の日まで絶対に告げないつもりだ。
「ごめんね、瑠依」
もう、何度目になるかわからない謝罪の言葉。どんなに酷いことをしようとしているのか、崇宏自身が一番よくわかっている。
けれど言えないのだ。
瑠依ちゃん、着いてきてー。一緒に行こうよー。離れたくないよー。
そう言って瑠依に縋りつく自分が想像できる。
そして瑠依はきっとこう言う。
『私をカメラだけで食わせられるようになってから言え』
崇宏は思わず失笑した。
そのとおりすぎて、なにも言えない。
もうすぐ、5年の幸せな日々が終わる。
崇宏はポケットにねじ込んでいた封筒を取り出し、ぐしゃりと握りつぶした。




